月の裏で会いましょう その④
7
月世界は静かだった。
本来なら真空の虚無が広がっているはずの空間に、そよ風が吹き、砂埃が舞っている。 見上げれば、まるで青いコースターのような「平面の地球」が、書き割りのセットのように張り付いている。
そのあまりに安っぽい書き割り感は、この宇宙全体が狂人の脳内妄想であることを雄弁に物語っていた。
都会の喧騒を離れしばらく越す田舎として良いかもしれないと、一条寺怜華は思った。
「鏡くん。起きて。月の裏側へ行くんだよ。ナチスも居るんでしょ。君が居なきゃどうしようもない」
「……分かってる。けど、5日後なんて馬鹿みたいな期限の設定した奴のせいで眠いんだよ。
カウントダウンするなら、もっと余裕持たせろって言ってやる」
鏡が使い物にならないとすると、こっちにはモーゼルC96と電子犬しか居ない。
王どころか、スペースナチスに勝てるかどうか、一条寺は心配になった。
「心配しなくても、ナチスは月面を出て、地上を襲撃している。ちょうど、君達と入れ違いになった形だな。
第二次大戦程度の技術力では月面で伸張した技術を持つスペースナチス相手では地上の人類は助からん。私の言葉を信奉しなかった哀れなる者たちはこの世に要らないんだよ」
王が現れ、現状を語る。
その背後には、絶対零度の孤独が広がっていた。
「そして……、太陽を消そうと思う。
ナチスは絶対に存在してはいけない生き物だからだ。
地上を支配したスペースナチスが繁栄を極めないように、太陽を否定して消し去る。地下の空洞のことは教えてないから、憐れなるナチスは熱源を失って死滅するだろう。人類は地下の熱源で永劫の安寧を得る。
私は新世界の王導になるのだ」
「つまんねーこと言ってねえで全部元通りにしろ。今なら半殺しで済ましてやる。その後は一生刑務所だろうけどな」
鏡は眠気から完全に覚醒したようで、王に心情をぶちまける。
「私がここから総て元通りに出来ると思うか?
そんな都合のいい方法は無い。私は神ではない。人類を導く嚮導者だ。」
「じゃあその太陽を破壊するって計画は潰してやる。地上のナチスのUFOも俺が頑張って倒す。クソだるいけど、プチプチと潰す。それでいいや」
「太陽の破壊は既に実行済みだ。私は漫画映画の悪役じゃあない。
言ったろう、すべて私の計画通りと」
「お前をここで殺さない意味が無くなった。残念だよ。」
鏡は心情を敵対する相手に傾けやすい性があったが、ここまで理解できない人間も久々だった。
対話の橋は焼かれ、残ったのは殺し合いという原始的な解決策だけだった。
8
闘いが始まる。
一条寺の犬が吠え、王の思考に一瞬の隙が生まれる。
モーゼルC96が王を撃ち殺す筈も、N線が拳銃自体に当たり、湿気た花火のように引き金を引いても何も反応しなくなる。
火薬という化学変化そのものが世界から拒絶され、ただの黒い粉へと成り下がった。
鏡は-Mr.BlueSky-で王の-Man on the moon-に掴みかかろうとするもひらりと躱され、手出しができない。
そのうちに、鉄の塊を糸で結びつけて奴に飛ばす水瀬結の攻撃を、鋼鉄自体の存在をN線で消去し、鋼鉄が霧散するように消え無力化する王。
智能の高さが、能力自体に比例するのか、-Man on the moon- の反応速度が異様に速い。
「物理しか無いな。コントロール難しいから、普通の人間くらいの力で投げる」
水瀬、一条寺と王が戦っているさなか、鏡は-MrBlueSky-を利用し、月の石を手にした。
ゴツゴツとした冷たい感触が、掌に食い込む。
ピッチャーのように月のマウンドをならし、青い巨躯は投球動作に入る。
一条寺の犬がもう一度吠える瞬間を待って、王の隙を利用し溢れる膂力を抑えて投石する。
筋肉が軋み、全身のバネが唸りを上げる。
投擲。
人類最古の武器。
あまりにシンプルな解決策だった。
放たれた石は、美しい放物線も描かず、一直線に空気を切り裂く。
鈍く、重い衝撃音が月面に響く。 それは能力でも魔法でもない。質量と速度が掛け合わされただけの、純粋で暴力的な「物理」だった。
170km/hに達した月の石は-Man on the moon-の宇宙服を突き破り、王にダメージがフィードバックされる。
「あんた物理好きだったろ。ちらっと本棚見たときそう思った」
頭から血を流す王を見て、既に相手が戦闘不能と悟った鏡は手を差し伸べる。
「小さい頃から物理が好きだった……。
数学の才能が病的に無くてな。象牙の塔の物理学は一切理解出来なかった。理解出来ない私を、同期がからかうんだ。奴らから溢れる選民思想が嫌いだった。こうなった今でも書籍を集めて読んで、理解しようと努めるが、何も理解できずにいる。私の考える理想の世界から最も単純だが最も美しいニュートン力学を消したくなかった。私が君たちに負けたのは、ただそれだけだ……」
「そっちのお前のほうが良いな。人類を導く嚮導者だとかやってるより人間らしくて良い。もっとショボい内面を見せたほうがさ……」
鏡は再び問うてみる。
「本当に戻せないのか、地球」
「残念ながら、そんなに都合のいい話は無い。私は狂気に取り憑かれてとんでもないことをしてしまった。すまない……という言葉では取り返せないな」
「良いんだ。誰にでも失敗はある。
あんたの場合大き過ぎるけど。全部、俺が背負ってやる」
鏡は王から離れて、水瀬と一条寺の元へと寄る。
「これから全て元通りにする。地下で暮らすのは面倒くさいしな。
こんな規模の世界改変はやったこと無いから死ぬかもしれないし、マジでどうなるか予想も付かん。出来なかったらこのままあと8分だっけ光の太陽までの到達時間?
まあ、8分で、太陽が消えて4人とも凍死するだけだ。
実はな、ここに来る時の遺書は空白で出したんだ。死ぬと思ってなかったから。ただ今回は死ぬかもしれないから書かなかったことを後悔してる。お前ら、ありがとうな」
「鏡くん……」「鏡……」
「じゃあ改変するわ。-MrBlueSky-」
チェレンコフ光と見紛う青い閃光が鏡の周辺に走り、走り、彼の脳髄が焼き切れるほどの熱量でショートした。
視界がホワイトアウトし、因果の糸がブチブチと千切れ飛ぶ音が聞こえた。
彼の視界のすべてが、ビデオテープを巻き戻す際のように、高速で逆回転を始める。
世界は逆回転して元に戻っていく。
月の重力は地球の6分の1で真空状態であり裏面にはナチスの基地なぞ存在しない。
地球は太陽の周りを公転する、やや楕円の球体で、IT機器があり、世界には兵器が溢れ、民間療法は気休め程度にしか人々を治さないクソみたいな世界へと。
鏡は、気が付くと自分の部屋に居た。
「戻った」
青い怪人も元通り出せる。
そういえば、生活費が尽きてきたんだった。
いつも通り競馬へ行くか。
鏡は、騎手が誰とか、馬の名前が何とかあまり気にしなかった。
唯一見るのはオッズである。
リターンが最大になるものに最大の掛け金を投じるのが、彼の競馬道だった。
いつものようにあまり期待されてない哀れな馬に財布の中身全てを投じる。
「……やばい。能力使えん……」
念じても、何も起きない。世界はただ、残酷なまでの確率に従って動き続けている。 ファンファーレが鳴り響き、当然のように安牌の馬が勝つ。
そして、世界でも救われたかのように群衆が湧く。
怒号と歓声が入り混じる鉄火場で、鏡は一人、ただ呆然と立ち尽くしていた。
鏡は帰りの電車賃のみを残し、オケラ街道を歩むこととなる。
彼は世界を救ったが、生きていく為の糧を喪う事となった。




