76 それぞれの明暗(3)
ハンスは、おぼつかない足でふらふらと歩いた。
そして気が付くと、七色の噴水まで来ていた。
今日は厚い雲に覆われて太陽の姿が見えずに、噴水は、あまり輝いてはいなかった。
……ポツ。
……ポツ。……ポツ。
ハンスは頬に冷たさを感じた。
「今日は……シャルの好きだった虹が見えないな」
陽の光に反射して、輝くこの噴水にかかる虹が彼女のお気に入りで、よくここで2人、虹を見た。
ザー。
噴水の中にたくさんの雨が落ちていく。
ハンスは自分の手を握り閉め胸元に持って行く。
この屋敷を出て行くことになった時、ハンスはこの場所に来ることを一番に思い出した。
そして、婚約破棄をした直後、シャルロッテが最後に、この噴水を見に来たことを思い出す。
『おじい様、僕はシャルと婚約したいです!!』
突然、幼い頃の自分の声が頭に響いた。
『私も、ハンスと婚約したいです』
そして、その頃のシャルロッテの姿が脳裏に浮かんできた。
噴水の池の中には、次々に雨が落ちて波紋を作り出している。
ずっと一緒に過ごしてきた。
机を並べて、2人で宝石の名前を覚えたことを思い出した。
「たった……3年の違い……だったはずだ」
シャルロッテが資格を取得したのが13歳。
そして、自分が16歳。
そう――3年の違い。
シャルロッテが13歳で、資格を取得した途端、元ホフマン伯爵である祖父の自分に対する態度が明らかに変わった。これまで、うるさいくらいに「勉強しなさい、お前のやるべきことを考えろ」と言っていたのに、突然、何も言わなくなった。
学院に入学してシャルロッテとクラスが離れたこともあり、ほとんど時間が合わなくなった。
祖父とシャルロッテが作業室に入って何かしていることは知っていたが、『まずは資格を取れ』と言われて、私が呼ばれることはなかった。実際、学院の授業と剣や乗馬、宝石の勉強が忙し過ぎて、私には全く余裕がなかった。
かつて、自分の祖父と、シャルロッテが一日の大半を過ごしていた作業室内は、何もなくただの広い無機質な部屋だ。
今になってどんなことをしていたのか知りたくても、過去の書類などは全てシャルロッテに譲ってしまった。
雨が少し強くなって、たくさんの波紋が噴水の池にできた。
常に姿を変える池の中の様子がまるで、自分たちの様だと思った。
変わってしまった。
何もかも。
かつて自分のことが『大好きだ』と言って笑いかけて、ずっと側にいてくれていた婚約者は、今では話も出来ずに近づけもしない。
『ハンス、ホフマン伯爵家を頼むぞ』と言って頭を撫でてくれた祖父は、もうこの世にいない。
『ハンス!! 凄いわ、私たちの誇りよ』と言って、喜んでくれた両親の瞳には、今では悲しみしか見えない。
――そして、自分も。
その後ハンスは、雨の中、七色の噴水を眺めていたのだった。
☆==☆==
次の日。ハンスは荷物を、ナーゲル伯爵が手配してくれた荷馬車に乗せた。
「ん~荷馬車が足りなかったな。もう一つ急いで手配しよう」
ナーゲル伯爵家のフィルが、手伝いに来てくれた。
「ありがとうございます、お兄様。お願い致します」
もちろん、ヘルマも手伝いに来てくれた。
執事や料理人などは、父が後から来るらしく、その時まではこの屋敷に留まるらしい。
皆、次の行先は決まっているようだった。
こうしてハンスは、執事たちに見送られながら、幼い頃から住んでいたホフマン伯爵邸から出たのだった。
☆==☆==
ナーゲル伯爵家に着くと、すぐにナーゲル伯爵の執務室に呼ばれた。
「おお、待っていたぞハンス殿」
騎士団長でもあるナーゲル伯爵が機嫌良く出迎えてくれた。
「騎士団長、本日よりお世話になります」
ハンスは、頭を下げてあいさつをすると、一番確認したかったことを尋ねた。
「ところで、騎士団長。私がこちらの養子になるというのは本当ですか?」
「ああ、そうだ。私としても、君がこの家に入ってくれて、非常に助かった。そうでなければ、この婚約を認めることは出来ないところだった。ホフマン伯爵が息子思いの方で実によかった」
「あの……どういうことですか」
この家にはフィル殿がいるはずだ。
しかも、フィル殿には侯爵家のご令嬢であるミシェル様という奥方様がいる。
自分が養子に来る理由がない。
ハンスの様子に気づいたフィルが困ったように言った。
「恥ずかしい話なのだが、私の妻のミシェルが『私と一緒に王都に居たい』と駄々をこねてしまってね。彼女は侯爵家のお嬢様だからな、社交界から離れて生きられないと言っているし、伯爵家の家にとってはまたとない縁だ。無理に領地経営をしてくれと言って機嫌を損ねるわけにはいかないのだ」
フィルの言葉に頷きながら、ナーゲル伯爵も困ったように同意した。
「そこでだ。君がヘルマと結婚してくれれば、ヘルマに我がナーゲル伯爵領の領地経営を任せることができる。妻も、知らない我儘な令嬢が来るより、優秀な娘であるヘルマが来てくれることを望んでいる。
我々騎士は、民と、仲間の命を一番に守ることを考えなければならない。
君は領主代理という形になるが、実質はヘルマが全て行う。君は騎士に専念できる。君にとっても最高の環境だろう?」
つまり、自分はヘルマを留まらせるための都合のいい男だったというわけだ。
次期伯爵家の当主になる予定だった自分は、爵位もなく、ただヘルマという領地経営を任せられる娘を引き留めるための贄としてこの家に呼ばれたのだ。
ハンスは絶望した――結局自分は、才女と呼ばれたシャルロッテという女性の影から、優秀なヘルマという女性の影に代わっただけだったのだ。
ハンスが、唖然と話を聞いていると、ナーゲル伯爵は、そんなハンスの様子には気づかずに、相変わらず機嫌良さそうに話をしてきた。
「ホフマン伯爵からすでに、婚約、婚姻、養子縁組と全てに書類にサインを貰っている。
すでに婚約の書類は、提出して、すでに正式に受理されている。
他の婚姻と養子縁組については、ホフマン伯爵が現在手続きを進めているハンス殿を『廃嫡』する手続きが済んでから、提出する予定だ」
「え? ……廃嫡?」
ハンスの目の前が真っ暗になった。
だが、よく考えればナーゲル伯爵家の『養子』になると言うことは、ホフマン伯爵家からは『廃嫡』されるということだ。
「ああ、養子縁組をするんだ。廃嫡の手続きをしてからでなければ、面倒事が起こる可能性があるからな。ヘルマには領地経営をしてもらう。後から、ホフマン伯爵家に入ってほしいと言われても、渡すわけにはいかない。
それに、一度婚約が受理されたのだ。
婚約解消、ましてや、婚約破棄など、ヘルマに汚名を着せることはできない。
いいか、ハンス殿。これはかつての君たちのようなお遊びの婚約ではないのだ。
まぁ、幼馴染の娘と縁を切った君は、その辺りは、わかっているだろう。
君の父上は、幼い子供たちの口約束に『婚約破棄』など大袈裟な言い方をしていたがな」
―― 婚約破棄など、ヘルマに汚名を着せることはできない
――かつての君たちのようなお遊びの婚約。
――幼馴染の娘と縁を切った君は、その辺りは、わかっているだろう。
――幼い子供たちの口約束に『婚約破棄』など大袈裟な言い方。
ナーゲル伯爵の言葉は、まるで剣で身体を斬りつけてられているような鋭い痛みのようにハンスを襲った。
自分たちの婚約は遊びではない!
自分の父親は大袈裟に言ったのではない!!
否定したいが……。
―― 婚約破棄など、ヘルマに汚名を着せることはできない。
――幼馴染の娘と縁を切った君は、その辺りは、わかっているだろう。
ナーゲル伯爵の言葉を裏付ける行動を取ったのは、まさに自分だった。
元ホフマン伯爵はハンスに『口などに頼るな。自分の行動が全てだ』と言った。
そして、今、自分の隣にいるフィルも幼い頃からずっと『ハンス、口でいくらやったと言っても動きは誤魔化せない。騎士になるのなら、口はいらない、動きだけが真実だ』だとそう言った。
シャルロッテとの婚約どこか軽く見ていたから、自分は婚約破棄などの汚名を彼女に着せ、婚約破棄をした。また宝石だって、どこか他人事だったから、自分ではない誰かに押し付けようとした。
――そんなことはない!!
ハンスは大きな声で否定したかった。
だが………まさに、ハンスのこれまでの行動の全てが、今、目の前にいるナーゲル伯爵の言葉を全て肯定していた。
ハンスが青い顔で立ち尽くしていると、フィルが心配そうにハンスの顔を覗き込んできた。
「ハンス、大丈夫か? ……父上、言い過ぎです。副団長のリード殿にもいつも苦言を呈されているでしょう?」
「何を言う。全てを包み隠さず話をしたのだ。これが私の誠意だ」
「……ですが、言い方があります。ハンス、大丈夫か? 昨日から荷造りや荷運びで疲れているだろう? ヘルマに部屋に案内させる。少し休むといい。すぐにヘルマを呼ぼう」
フィルが気遣って、ヘルマを呼びに行ってくれたが、ハンスは何も考えることが出来なかった。
「ハンス殿、言い方が悪かったのなら詫びよう。
だが、私としても騎士にとって、集中力を欠くことはことごとく排除したいと思っている。
何、心配するな、全てこちらで手続きを行う。ハンス殿は、学業と訓練のことだけを考えてくれればいい」
ナーゲル伯爵は、力強く言った。
ハンスは力なく頭を下げると、フィルとヘルマが執務室に入って来た。
「お話は終わったのでしょ? ハンス様、どうぞこちらへ」
「ああ」
ハンスはヘルマに連れられて、部屋を出た。
今、ハンスの心には、怒り、戸惑い、悲しみ、絶望。
あらゆる負の感情が渦巻いていた。
それは、全てナーゲル伯爵の発言が原因であった。
――ハンス、お前……自分が何をしたか、わからないのか?
かつて、自分の父親ホフマン伯爵が、絶望の混じった顔で私を見ながら言った言葉を思い出した。
あの時の言葉を、今ようやく理解した。
ハンスは今になってようやく、自分がシャルロッテや両親にどれだけ酷いことをしてきたのかを気づいたのだった。




