35 変質した未来(1)
ハンスは、ホフマン伯爵夫妻が待つソファーの前に座ると、背筋を正した。
「ハンス……話を聞こうか……」
伯爵が重苦しい声を出した。
「はい……」
ハンスはここ数ヶ月のことを伯爵に説明することにしたのだった。
――ホフマン元伯爵が亡くなる数ヶ月前――
カシャン!! カシャン!!
辺りには、剣のぶつかる音が響いていた。ハンスと、ナーゲル伯爵の長男であるフィルが剣を交えていた。
ガシャン!!
一際大きな音がして、ハンスがフィルの剣を弾いたところだった。
「ここまでにしよう」
「はい」
ハンスとフィルは剣を鞘に納めるとお互いに礼をした。
「いや~ハンスは、凄いな。学院を卒業したら、すぐにでも幹部候補確実だ」
フィルが大きな声を出しながら、ハンスの肩を叩いた。
「ありがとうございます。フィル殿のご指導のおかげです」
「ハンス様~~、お兄様~~~」
ハンスが礼をしながら言うと、ヘルマの声が聞こえた。
「お2人ともお疲れ様でした! どうぞ、こちらをお使い下さい、ハンス様。冷たい果実液も用意してありますわ」
ヘルマが、汗を吹くための布をハンスに差し出しながら言った。
「ありがとうございます」
ハンスは、ヘルマから布を受け取ると、汗を拭いた。
「少し休憩されたら、授業の復習を致しましょう。私、ノートをまとめておきましたの」
「ヘルマ嬢。いつもありがとうございます」
ハンスが笑顔でお礼を言った。
「いえ…私に出来ることでしたら、何でもお手伝い致しますわ」
ヘルマが赤くなって、俯くとフィルが大声を上げた。
「あはは。ヘルマは本当に、ハンス殿が好きだな~~」
「もう、お兄様ったら、からかわないで下さい!!」
ハンスは、胸が痛くなるのを感じた。ヘルマの気持ちが自分にあることは、感じていた。自分にはシャルロッテという将来を誓った婚約者がいるのだ。
いつまでも、彼女の好意に甘えているわけにはいかないだろう。
「ハンス様、お勉強しませんか?」
「ああ、よろしくお願い致します」
「はい」
だが、ハンスにとって、ヘルマのサポートはかなり有難い物だった。騎士団の演習で授業に出ることが出来なくても、ヘルマがノートを見せてくれるし、授業の内容も教えてくれるし、提出課題なども、ハンスとペアになり、ハンスの代わりに提出してくれるのだ。
そして、今日もハンスと一緒に勉強をしてくれた。
ハンスは、シャルロッテとヘルマに申し訳なく思いながら、他に名案が思いつくわけでもなく、騎士になるためにヘルマに甘えていたのだった。
その日の夕方、ハンスが家に戻ろうと言う時、丁度、ナーゲル伯爵こと騎士団長が家に戻ってきた。
「ああ、ハンスか………話があるのだが、少しいいだろうか?」
「はい」
ハンスは、騎士団長であるナーゲル伯爵と話をするために、ナーゲル伯爵の執務室に向かった。
「ハンス。君の才能は大変素晴らしい。今のまま学院を卒業すれば、君には幹部の座を用意したいと思っている」
「本当ですか?」
ハンスは、思わずナーゲル伯爵を見つめた。
「ああ。ただ、卒業したら、しばらくは騎士団に専念することが条件だがね」
「あ……」
ハンスは思わず唇を噛んだ。自分には、宝石の仕事がある。自分がしなければ、誰も代わってはくれない。
「私には、宝石の仕事があります」
「ん~~ヘルマやフィルから聞いたが、私にはどうにもよくわからないのだ。ハンスの祖父はご高齢だとしても、ご両親は健在なのだろう? なぜ、ご両親はその宝石の仕事をしないのだ?」
ハンスは唇を噛んだ後にゆっくりと息を吐いた。
「騎士団長は、マッローネダイヤをご存知でしょうか?」
「ああ。何度も輸送の護衛をしているからな。我が国の誇る国宝級の宝石だと記憶している」
「その通りです。実は、私の父と母が、祖父から宝石の教えを受け初めて数か月後に、マッローネダイヤが、我が領の火山層から発見されました。その年は世界的なニュ―スとなったと聞いています」
「ああ、そう言えば、そんなこともあったな……」
「マッローネダイヤの発見により、祖父は、マッローネダイヤについての扱いを王家と話合うために、王都に常在することが決まり、マッローネダイヤが見つかった土地を有する我がホフマン領には、不測の事態に備えて、領主が必ず滞在することになりました」
「なるほど……教えを乞う前に、知識を持った伯爵と、ハンスの父君は物理的に離れることになってしまったのか……」
騎士団長は気の毒そうにハンスを見ながら言った。
「はい。そのうち、祖父は過労で病を患い、焦った祖父と父は、後の後継者となる私と私の婚約者に知識の伝承を託したのです」
「それは……大変だったのだな」
「……」
ハンスは、拳を握り締めて下を向いた。そんなハンスに騎士団長は、小さく声を上げた。
「だが……大切なこの国の資源が、誰かの肩だけに預けられるというのは危険ではないのか? 誰か人を雇って、ハンスや婚約者殿の負担を減らすべきではないか?」
「負担を減らす……?」
ハンスは思わず顔を上げた。
「人を雇い、ハンスの仕事を他の者に任せるという選択肢があってもよいのではないだろうか?」
「そんなこと考えたこともありませんでした……」
ハンスは自分が、なんとかしなければならないと、ずっと考えていた。
だが、誰かに任せるというのは、確かに合理的なように思えた。
「もし、侯爵になれば、その決定もハンス、君がすることが出来るかもしれない」
「え?」
「知っての通り、この国は侯爵以上には、領内の全ての事業の決定権が与えられる。ハンス、君には、騎士の才能がある。もし、ハンスが騎士になれば、騎士団の幹部は確実だろう。そうなれば、侯爵の位も夢ではない。現に我が、ナーゲル家も元は、子爵だったが、私が騎士団長になったことで、長年の功績が認められて、伯爵になった。ホフマン伯爵家からは、武勲を出した者がいない。もし、ハンスが騎士で手柄をあげれば、侯爵の位も夢物語ではない」
「侯爵の位……」
ハンスはゴクリと息を飲んだ。
確かに、『伯爵』という位だったばかりに、自分の家は、王家にお伺いをたてなければならない事がとても多かった。それが、自由になったら、どれだけ楽になるだろうか?
ハンスの心は大きく揺れ動いていた。そんなハンスに騎士団長が、真剣な顔をした。
「ハンス。君はヘルマをどう思う?」
「……いつも助けて頂いて、有難く思っております」
「そうか……もし、君とヘルマが結婚すれば、私は君の後ろ盾になれる」
ハンスは思わず息を飲んだ。ハンスにとって、侯爵になることが重要なことだとしたら、騎士団での後ろ盾ほど有難いものはない。
ヘルマは、騎士団長の娘だ。
「ハンス。考えてみてくれ。ヘルマとの結婚を……これは、君にとっても悪い話ではないはずだ」
ハンスは手を握りしめて声を上げた。
「ヘルマ嬢は……そんな私の都合で、結婚など決めてもよろしいのでしょうか?」
「あはははは。なんだ。気づいてはいないのか?」
騎士団長が大きな声で笑い出した。
「え?」
「どうか、君から聞いてみてほしい」
騎士団長は、穏やかに笑うと、ベルを鳴らして、執事を呼び「ヘルマをここへ」と言った。
しばらくすると、ヘルマが現れた。
「お呼びですか? お父様」
「ああ。話は終わった。ハンスを玄関まで、お送りしなさい」
「畏まりました。さぁ、ハンス様、こちらへどうぞ」
「はい」
ハンスとヘルマは騎士団長に頭を下げると、部屋を出たのだった。