1 偶然の再会
桜が舞い散る季節の事。息子の手を引いて、学校へ向かう。今日から小学1年生になるのだ。これからも、1人でこの子を育てる事になるのだろう。
「ねえ、ママ、どんな先生がいるのかな」
「どんな先生がいるのかしらね。お友達もたくさんできると良いね」
「うん。クラスメイト全員とお友達になって、沢山遊ぶ」
息子は、父親がいない事に悲しいはずだ。だな、悲しい顔を見た事がない。もしかしたら、気を遣って母の前では笑顔でいるようにしているのかもしれない。
学校へ着くと、昇降口は賑わっていた。6年生の生徒達がようこそと手を振って、新1年生を歓迎していた。壁には、生徒達で作ったであろう色とりどりなペーパーフラワーが飾られていた。天井には、ガーランドが。ホワイトボードに掲載されている、クラス分けの紙を見る。息子は1年1組のようだ。ついでに、担任の先生の名前も見てみる。
「...東雲 結斗...」
その苗字も名前も見覚えがありすぎた。そんなわけないはずだ。彼は、確かに教師だった。こんな偶然にこの学校にいるとは。きっと、同姓同名の別人だ。そう思う事にした。息子は、私の腕を引っ張る。
「ママ、教室いこ」
「そ、そうね。春斗」
1年生の教室へ行く矢印が貼られており、それを見ながら教室へ向かった。春斗が教室に入ると、緊張感が漂っていた。他のクラスメイトも、緊張しているのかクラスは静かだ。黒板には、猫と犬の可愛いキャラが描かれており、吹き出しで「入学おめでとう」どの文字が。犬と猫の周りには鮮やかなピンクの花が咲き誇っていた。
入学式までまだ時間はある。早く担任の顔を知りたい気持ちと、知りたくない気持ちが半々だ。もし彼だったとしても、保護者と教師という立場は揺るがない。何があろうとも。数分したら、春斗が席を立ってこっちへ来た。
「...どうしたの、春斗」
「ママ、...おトイレ」
春斗は、顔を赤くしながら恥ずかしそうに俯く。春斗の手を握り、トイレを探す。教室から離れているみたいで、何処にあるかわからない。取り敢えず、窓を眺めてる先生らしき人にお手洗いの場所を聞く事にした。
「あの、すみません」
声をかけると先生は、振り返る。優しい目つき、茶色の瞳、茶色の髪。少し身長が高い。過去の記憶が脳内に浮かぶ。楽しかった思い出も、辛かった思い出も、甘えたあの時間も。
「小春...、いや、なんでしょうか、春斗君のお母さん」
彼は、私の名を口にした。だが、何もなかったかのように息子の保護者として私を呼ぶ。今は、保護者と教師の立場でしかない。名前呼ばれた瞬間、少しだけでも浮かれた自分が情けない。春斗は、私の服を強く掴んだ。
「ママぁ、おトイレー」
息子の声でハッと我に返る。お手洗いの場所を先生に聞こうとしていたんだ。
「そ、そうだったね。結斗...、東雲先生、春斗がお手洗いに行きたいと言ってまして、どこにありますか」
「お手洗いは、この廊下をまっすぐ行って突き当たりを右に行けば、お手洗いのマークが見えてきますので、そこにあります」
「あ、ありがとう...ございます。いくよ、春斗」
私は春斗の手を握り、東雲先生が案内してくれた通りに、お手洗いに連れて行った。
「ママ、もどったー」
軽快な足音を鳴らしながら、お手洗いから出てきた。私は春斗と手を繋いで、1年1組の教室へと戻る。教室に入ると、お手洗い行く前よりクラスの緊張がほぐれていて話し声も聞こえてきた。春斗も席に着くと、早速隣のクラスメイトに話しかけていた。東雲先生は、一番前の席の子達と話を始めていた。
「君は、蒼夜さんで、胡桃さんだね、初めての学校どうかな。何かしたいこととかあるかな」
「うん、きんちょうするけど楽しい」
「くるみは、おともだちたくさんつくりたい」
「うん、良いね。お友達も小学校のうちにたくさん出来るよ」
蒼夜君や胡桃ちゃん以外のクラスメイトとも、気さくに話していた。東雲先生の行動により、クラスメイト達の緊張はだいぶほぐれていた。春斗も雰囲気になれたようで、後ろの席の子とも打ち解けていた。そんな春斗を微笑ましく見守る。
入学式が終わりクラスメイト達は2列ずつ並んで教室に戻ってきた。東雲先生は、教壇に立つ。賑やかだったクラスメイト達は、視線は彼に集中する。
「と言うことで、皆ご入学おめでとう。今日から君達の担任になった東雲 結斗です。皆で仲良く、1年間過ごしましょう。皆が1番最初に覚える漢字は、東と雲と結と斗だね」
そう言いながら東雲先生は、白いチョークで黒板に名前を書き始める。
「えー、しののめせんせえのかんじむずかしいー」
「4文字おぼえれるわけないよー...」
東雲先生が漢字を書き終えると、振り返り、教卓に両手をついた。
「ははは、でも大丈夫。漢字は6年間で沢山習うから。このレベルで難しかったら、更に難しい感じとか出てくるよ。でも、漢字ドリルとかしっかりやれば大丈夫」
自信満々に東雲先生が言うと、クラスメイト達の声からは「えー」や「そんなに覚えれない」とそれぞれの感想が飛び交っていた。保護者達からは、笑いが起きていた。
「じゃー、しののめせんせー、せんせーのしつもんコーナーさせてー。みんなでしののめせんせーにしつもんするから、答えてよー」
ツインテールの女の子が提案する。東雲先生は、手を叩く。
「いいねえ、葵さん。じゃあ、みんな、東雲先生に質問したい人は手を挙げて」
一斉に、クラスメイト達は手を挙げる。激しく挙げた手を左右に揺らしている子もいてなんだか、微笑ましい。東雲先生は、誰から当てようか迷っていた。
「じゃあ、とりあえず、最初はこのコーナー提案してくれた葵さんからかな。立ち上がって、僕に聞いてみて。大きな声でね」
葵ちゃんは、東雲先生に指示された通りに立ち上がる。机に両手を置きながら、彼女は大きな声で先生に聞いた。
「しののめせんせーは、彼女いるのー」
1発目から東雲先生にとっては1番されたくない質問だったようで、教室に一瞬静寂が訪れる。東雲先生は、目を見開いたが、すぐに柔らかい表情になる。
「葵さんの質問、いいねぇ。彼女かー。今はいないよ。僕にとっては1年1組の皆が彼女みたいなものだからね」
「えー、つまんなーい」
葵ちゃんは、少しガッカリしたようで、クラス中は笑いに包み込まれていた。だが、東雲先生に、現在彼女がいない事に安堵する自分がいた。保護者と教師という立場なのに、一体何を期待しているのだろう。
「葵さん、先生の言った通りに立ち上がって大きな声で発表出来てすごかったね。じゃあ、次は春斗さん」
「やったー、じゃあ、しののめせんせいは、ぼくのママみたいにやさしい人は好きですか」
「ちょっ...」
途端に私の顔は熱くなった。春斗に悪気がないのはわかっている。まさか、春斗は、東雲先生にこんな質問をしてしまうとは。クラスメイトと保護者の視線は私と東雲先生に向けられてしまう。
「春斗さん、良い質問だね。きっと、春斗さんのお母さんは、優しさと愛情を持って春斗くんに接して、とても良いお母さんなんだろうね。勿論、優しい人は好きだよ」
数秒だけ、東雲先生と視線がぶつかる。その時の、東雲先生の目は、教師としてではなく、結斗として私を見ている気がした。"優しい人は好きだよ" その言葉は、ただ単に優しい人が好きと言うだけなのか、私に対してなのか。
「ママ、せんせーもママのこと好きだって。ぼくもママのこと好きだよ」
春斗の言葉で私は、我に返った教室は笑い声で満たされていた。私は、春斗の頭をわしゃわしゃと撫でる。息子の無垢な笑顔には癒される。
「ありがとね、春斗。発表も初めてなのによくできたね」
「もー、くすぐったいよ、ママー」
その後も質問コーナーは30分くらい続いた。「何の動物が好きですか」「好きな食べ物は何ですか」「趣味は何ですか」と、生徒達が先生に興味津々だった。どの質問をされても、丁寧に返事をしていた。流石は教師だなと感心していた。