約束を拾いに
白昼の街を、男はあてもなく彷徨っていた。
何かを探し求めるように――
「……約束を、果たさなければ……」
焦燥に駆られたように呟きながら、足を前に進める。しかし身体は重く、思うように動かない。まるで、自分の足ではないようだ。
それでも、男は歩き続けた。
その時――
「パパぁ!」
背後から弾むような足音が近付き、小さな女の子が若い父親に飛びついた。
「――文香……?」
反射的にその名を呼ぶ。しかし、違う。赤の他人だ。
それでも、懐かしい記憶が脳裏を過ぎる。
『おとーさぁ〜ん!』
『こらこら、走ると危ないぞぉ〜』
幼き日の文香と自分――寿和。
(そうだ、文香。文香が結婚するんだ。だが、いつだ? どこで、誰と? 思い出せないっ――!)
寿和は駆け出した。
世界が妙に遠く、足が地につかないような感覚を覚えながら。
ようやく辿り着いた自宅で、カレンダーを確認する。
八月九日。
赤ペンでハートマークと共に、そこには〝結婚式 十四時〟と記されていた。
「今、何時だ……?」
古びた腕時計に目を落とす。だが、壊れているのか針は動いていない。
不吉な予感に胸が締め付けられる。
そうして電子時計を見ると――
今日。既に、式は始まっていた。
「くそっ!」
寿和は礼装も着ぬまま、鍵も閉めずに家を飛び出した。
道端でタクシーを見つけ、必死に手を上げる。
「タクシー!!」
だが――
「なっ!?」
運転手はまるで彼が存在しないかのように、視線すら向けずに通り過ぎた。
「客を無視する奴があるかっ……!!」
少しして、別のタクシーが来る。しかし、それも止まらない。
ところが、他の通行人が呼び止めると、何事もなかったように停車した。
「おい、いい加減にっ――」
寿和は、震える手を伸ばし、車の窓を叩こうとする。
――その瞬間。
「……っ!?」
指が、窓をすり抜けた。
不可思議な現象に全身が凍りついた。
目の前のタクシーは、そのまま何事もなかったかのように走り去る。
「そんな……何故誰も、止まってくれないんだ……」
呆然とする寿和の横を、人々は無関心に通り過ぎていく。
まるで、自分だけがこの世界から切り離されてしまったかのように。
「……もういいっ、自分で走る!」
寿和は必死に駆けた。
転び、膝を擦りむいても、それでも――
「…………」
結婚式場に辿り着いた頃には、既に式は終わっていた。
扉の向こうから漏れ聞こえるのは、二次会で盛り上がる談笑の声。
寿和は、呆然と立ち尽くした。
「私は、なんということをっっ……」
その場で膝をつき、自らを責め、顔を覆った――
◆◇◆
二次会を終え、文香はホテルで一室でくつろいでいた。
「お父さん、ちゃんと見てくれたかな……?」
「きっと見てくれてたさ」
夫の優しい声が響く。
文香は姿見に映る自分のウエディングドレス姿を見つめる。
そしてふと、目を見開いた。
――鏡に、見覚えのある姿が映り込んでいる。
「……お父さん!?」
驚き、振り返る。
――だが、そこには誰もいなかった。
「どうしたんだ、急に」
「い、今……お父さんがそこに……」
文香がそう言うと、夫は困ったように微笑んだ。
「じゃあやっぱり見に来てたんだよ。文香の晴れ姿を」
「……そうだといいな」
祈るように呟く文香。
気休めなのかもしれない。だが不思議と、胸が温かかった。
◆◇◆
——みか、文香。
「ん……?」
真夜中。
枕元で名を呼ばれ、文香はゆっくりと目を開けた。
そこに立っていたのは――
「おとう、さん……?」
眼鏡の奥の優しげな瞳。懐かしい声。
紛れもない、寿和の姿だった。
「……すまなかったな、文香。お前のウエディングドレス姿、直接見たかったんだが…………お父さん、死んじゃったみたいだ」
「――っ!」
文香は父に飛びついた。
肌の温もりを感じる。しかし、それが幻であることも分かっていた。
「母親がいない分、お前にはこれまでたくさん苦労をかけたな」
「ううん、そんなことないっ……お父さんは、わたしをいっぱい愛してくれた! お父さんと過ごせた日々は、わたしにとってかけがえのない幸せで……っ」
「……そうか。今まで頑張ってきた甲斐があったなぁ」
感慨深そうに、寿和が言う。
「お前には本当に苦労をかけた。……これから、もっと幸せになるんだぞ」
「っ、うん……」
「……まあ、悲しませた張本人が言っても説得力ないか。結局、約束守れなかったわけだしな……」
寿和は照れくさそうに苦笑し、頭を掻いた。
それは、嘘を吐く時の癖――
「……お父さん、本当は見に来てくれてたんだよね?」
「……」
寿和は目を伏せ、静かに頷いた。
「綺麗だった。本当に、本当に……っ、綺麗になったな……文香」
言葉が震えていた。
肩を揺らしながら、堪え切れずに泣いていた。
文香の幸せを願いながら、愛しい娘の旅立ちに涙する――
それは、父としての最後の涙だった。
「……ありがとう、お父さん。わたし……絶対、絶対幸せになるから」
「……ああ。これでもう、悔いはない……」
寿和は穏やかに微笑み、ゆっくりと薄れていった。
◆◇◆
翌朝。
文香が目を覚ますと、枕元に見覚えのあるものが置かれていた。
「……お父さんの、腕時計?」
そっと手に取る。
長年使い込まれたそれは、確かに父のものだった。
指でそっとなぞると、まだ微かな温もりが残っている。
「見ててね、お父さん。わたし、幸せになるから」
文香は静かに微笑み、腕時計を胸に抱き締めた。
窓の外には、朝焼けに染まる澄んだ空。
光を受けた腕時計が、優しく輝いていた――