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散文

詩だけを書く詩人

作者: 永井晴

詩を書くことだけを表現とする詩人。そんな人達が最近所謂「詩人」という言葉の範疇を占領している気がする。ただ僕には、そういう人達が真の詩人である思えない。どこまでもあの、括弧付きの詩人である。散文なんて極論誰でもかける。それは元来、詩の可能性であるはずだった。しかし表現として単に詩に固執する詩人は信用出来ない。固執とは、詩人には最も似合わない言葉であると思うから。

詩とは、叫びたいという気持ちから来るもの。詩人とは、そういう叫びの湧く綺麗な泉。しかしそうであれば、詩に包含されない叫びもあるはずなのに、括弧付きの彼らは詩に留まる。いつまでも詩について分かった風に喋る。そして、叫ぶことがないのかしらと、僕は少し訝る。いや、かなり訝る。だって本当の詩人の叫びとは、そよ風のように奔放で、尽きることを知らないのだから。

また、詩作は歓楽などでは無い。詩とは並々ならぬ日々の労苦に由来する。至極の幸福すら、いつだってそういう労苦の上に成り立つ(僕らの生活だってそうであるように)。そして、どれもおしなべて内面的である。本当の詩人にとって、詩とは必然である。書こうと思って書くのでは無い。書かねばならぬことを突きつけられるのだ。そこのどこに歓楽の付け入る隙などあろうか。詩人には余裕など毛頭ない。しかしだからこそ詩は生命に繋がり、死に触れる。

薄っぺらい散文は、ハリボテのドアのようにどの世界にも繋がっていない。それを読む心地と言えば、まさに興醒めとでも言えよう。世の中には、本当の詩を発表しない詩人もいれば、あの所謂詩のみを発表する非詩人もいる。我々はそれをよく心得なければならない。


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