第2話 オーク、修行する
「さて、オークよ。これからお前は我輩の娘、メアリー・エーブリーとして生きてもらう」
ベルベットが居丈高に言う。グォッカは疑問に思ったことを口にする。
「おめぇ、本物の娘はどうしたんだ」
その瞬間、爆発したような音がしたかと思うと、彼の背中に激痛が走った。
「痛ってぇ!!!! 何しやがった!!!!」
見ると、ブラッディが杖をこちらに向けていた。
「今から令嬢になる訓練は始まっているのだ。口の利き方ひとつとってもそうだ。もし今のような口調が続くようなら、お前の背中は傷だらけになる」
表情一つ変えずに、ベルベットが言う。ブラッディは杖を下す気配がない。
グォッカは慎重にならざるを得なかった。
「……あなた様の、お娘は、どうしたでございますか」
「死んだ」
静寂がその場を支配する。グォッカは何も話せなかった。
「助かる見込みのない病にかかってな。医者の措置もままならなかった。それと、我輩のことは北王様と呼べ」
ベルベットは部屋を出ようとする。
「ブラッディ、しばらくはこいつを監視しろ。口調が乱れることがあればきつい仕置をしてやれ」
「かしこまりました」
ブラッディは恭しく一礼する。ベルベットは部屋を出ていった。
「では、行くぞ」
彼女はそう言うと、グォッカを出口へと促す。
「え?」
「これから暫く、私がお前に淑女たるは何かを教える。今日はまず人間としての礼儀作法から指導する」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、オデは本当に人間の女として生きなきゃならねぇのか?」
また爆発音が響き渡る。グォッカが悲鳴を上げた。
「お前の命運はこの私が握っている。最悪の場合、こんなこともあるかもな」
ブラッディは杖をグォッカに向けた。すると彼は、首が締めつけられる感覚を覚えた。
とにかく苦しい。息ができない。永遠とも思える時間が続く。
杖が下ろされた。グォッカは息も絶え絶えになっていた。ぐったりとその場に倒れる。
「闇の魔法の一つ、首絞め魔法だ。お前が粗相を繰り返すようであれば、遠慮なく使わせてもらう。さあ立て」
ブラッディはグォッカを無理やり起こした。彼の顔には恐怖の色が浮かんでいた。
「こっちにこい」
彼女は部屋を出た。またあんなことをされてはたまらない。グォッカも急いでその後を追った。
――
その日の夜。
ベルベットは薄暗い自室で書物を読んでいた。
ランプの灯を頼りに読み進めていく彼だったが、その手を止める。
すると、音もせず部屋の一部の空間が歪み、人間らしき姿がそこから現れた。
「ずいぶんと遅いな」
ベルベットは不服そうに言うと、読んでいた書物を閉じる。
「申し訳ありません、北王様」
空間から現れた人物は小さくもはっきりと聞こえる声で返事をした。その顔はローブに覆われ、窺い知ることはできない。
「まあ、良い……」
ベルベットは大儀そうに欠伸をすると、その人物の方を見据えた。
「南王の動きがにわかに怪しい。身辺を調査し、ひと月に一度我輩に報告しろ」
「かしこまりました」
ローブをかぶった人物は一礼すると、また空間を歪ませ、その中に入ろうとした。
「……待て」
ベルベットに呼び止められ、その人物はぴたりと止まる。
「ローブを取ってみろ」
「……は」
「我輩に顔を見せろと言っているのだ」
その人物は少し逡巡したように見えたが、彼の命令は絶対なのだろう、ゆっくりとローブを取った。
「……ふむ、やはり、似ているな」
ベルベットはそう言うと、手で下がれと合図した。その人物はすぐにフードを被ると、歪んだ空間の中に消えていった。
――
グォッカがブラッディから教育を受けて数か月が経った。
エーブリー家の者たちはグォッカの一件を皆知っており、一様に彼のことを「お嬢様」と呼んでくる。無論、メアリーとしての自覚を持たせるためのことであった。
講義を受けるための部屋に入ったグォッカは、疲れ切った表情をしていた。
「人間の名前で呼ばれるのは慣れないものです」
彼は慣れてきた人間の言葉を使い、先に部屋に入っていたブラッディに漏らした。
「お前が元に戻るためにはお嬢様になりきる、いや、なるしかない。それが嫌ならば私がお前を殺す」
ブラッディは表情一つ変えずに言う。それがかえって、言葉に真実味を持たせていた。
グォッカはほとんど無意識に背筋を伸ばした。緊張した面持ちで席に着く。
……いつまでたっても、このひらひらした服は落ち着かない。股がスース―する。
彼はそんなことを思いながら、持ってきた本を開く。
予定では、今日は帝国の概略を習うことになっている。
「早速講義を始める。今日は帝国についてだ」
ブラッディは本に目を落とした。
「わが帝国は王都と4つの都市に大きく分類される。それぞれ帝都ファンゲリン、北都ノルディッシュ、南都スーデフ、西都ベスタ、東都ビステだ。北都を治めているのが我が主、北王エーブリー様だ。ここまではいいか」
「はい、よろしゅうございます」
この貴族的な返事も、人間になりたての頃はままならなかった。どれだけ痛い思いをしてきたことか。
「よろしい。では問題だ。この北都で栽培が盛んな作物を答えよ」
「はい。春小麦、エンバク、ジャガイモ、ダイズ、アズキ、テンサイ、キャベツ、ハクサイ、レタス、リンゴ……でございます」
「うむ。よく勉強しているようだな」
答えられなければ、お前が鞭打ちの魔法を使うから勉強してるだけだ!
と、グォッカは心の中で毒づいた。
もともと勉強なんて興味がなかったが、生きるためにやるしかなかった。
こんな調子で、6時間みっちりと講義が行われた。いつものことであった。
講義が終わりやっと解放されたかと思うと、次に食事が待っていた。
グォッカにとって一日で一番嫌いな時間だった。
テーブルに着くと、無意識に背筋が伸びる。緊張感を感じつつ、食事が運ばれてくるのを待つ。
ちらりとドアの方を見やると、ブラッディが立っている。彼女はじっとグォッカの方を見ていた。
少しでも姿勢を崩すと、鞭打ちの魔法で背中をやられる。最初の頃は、食事の味が分からないほどに背中を攻撃されたものだった。
今は少しマシになったが、油断するとやられてしまう。
「お待たせいたしました、お嬢様」
給仕係の男が食事を運んでくる。
「ご苦労様」
気遣いの言葉も忘れない。自分でも成長したなとグォッカは思った。
食事の間、ブラッディは彼が粗相をしないか、マナーを守っているかをじっと監視していた。
正直、食べた気持ちがしなかった。
ふと、村で生活していた頃を思い出す。
何も考えず、捕らえた人間を自由に痛めつけ、なぶり、殺し、食っていたあの頃のことを。
「……お嬢様、あまり食が進んでいないようですが」
そばにいた執事にそう言われ、我に返る。
慌ててブラッディの方を見た。相変わらず、何を考えているのか分からない無表情で立っている。
どうやら、お咎めはなさそうだった。
グォッカが食事を終えたのは1時間ほど経った時だった。
「……御馳走様でした」
グォッカはそう言うと、使用人たちが片づけを始める。
この間も動いてはいけない。彼は過去の経験から学んでいた。
「お嬢様、片づけが終わりました」
この瞬間をもって、食事は終了となる。
食事が終わった後も、ブラッディの監視の下、部屋にこもって読書や勉強に励まなくてはならない。
途中で寝ようものなら、首絞め魔法をかけられ生死の境をさまようことになる。
これを毎日、数か月ずっと続けている。
正直、気が狂いそうであった。
唯一、寝る時にグォッカは素の自分に戻ることができた。
元の姿に戻るまでの辛抱だ。オデは、負けない。
そう思いながら、毎夜眠りにつく。
これが、グォッカの日常であった。
ベルベットの元にやってきた人物は何者なのか。
それが分かるのは、もう少し後で……。