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第6話 刻む、刻みつける

 家に戻ってくると、時刻は18時に近づいていた。

 ご飯の支度にしろ、風呂の支度にしろ、そろそろ動き始めて良い時間だ。


「ちなみに澪は、ご飯が先派? それともお風呂が先派?」

「ご飯が先で、その後にお風呂に入ってゆっくりすることが多いかな」

「そしたら、お風呂を洗うだけ洗っちゃって、夕食に取り掛かろうか。執事として、ここは俺が洗わせてもらうよ」

「そう? じゃあお願い、風呂場はこっち」


 澪に連れられて、春也は1階の玄関から見て右手側へと進む。

 案内された場所の扉を開けると、普通の部屋かと思うくらい広い脱衣所兼洗面所があった。

 置かれているものはきれいに整理整頓され、鏡もピカピカに磨かれている。

 この広い家を隅々まできれいに保つのは大変な作業だが、澪はこれまでそれをひとりでやってきていた。


「おおっ……」


 さらにもうひとつ、奥にあるドアを押し開けると、ザ・お金持ちのお風呂が姿を現した。

 身長180cmとそこそこ大きい夏斗でも、思いっきり全身を伸ばしてなお余りがありそうな大きいバスタブ。

 鏡にしろ、照明にしろ、床や壁の内装にしろ、全てに上品な高級感がある。

 いわゆるラグジュアリーってやつだ。

 そして例によって、カビや水垢の類は一切ない。


「掃除用の道具はそこにあるから」

「えーっと……これか。分かった」

「それじゃあ、よろしくね。ありがとう」

「お仕事するのは当然だよ」

「私、キッチンの方にいるから。終わったら来て」

「了解」


 澪が去っていくと、夏斗は水が外に飛び出ないよう扉を閉め、それからシャワーを手に取った。

 シャワーヘッドも、どことなく高級感を感じさせる。

 ただし、ひたすらキンキラキンに飾り立てたようなギラついた豪華さではない。

 贅沢さは感じさせながらも、見ていて心地よくなるような品があるのだ。

 本当のお金持ちっていうのはこういうものなんだろうなと、一般庶民を自負する夏斗は勝手に想像した。


「さてと……」


 意気込んでスポンジを取ったはいいものの、どこもかしこもピカピカに保たれているだけに、掃除のやりがいはあまりない。

 執事泣かせのご主人様、というかお嬢様だ。

 それでも夏斗は、バスタブを中心に一通り磨き上げた。

 洗剤をシャワーで洗い流し、ようやく執事としての初仕事らしい初仕事を完了させる。


「お湯は……まだ張らなくていいな」


 これから食事の支度をして、それを食べる時間がある。

 今からお湯を張っていたんでは、ぬるくなってしまうことだろう。

 夏斗はバスタブに蓋だけ乗せると、外に出て洗面所で手を洗った。

 そして澪に言われた通り、キッチンへと向かう。

 まだ一度もキッチンに入ったことがなかったが、トントントントンという包丁のリズミカルな音を頼りに、自力で行くことができた。


「終わったよ」

「お疲れ様。ありがとう」


 無表情な顔だけ夏斗を振り返ってお礼を言う澪は、グレーのシックなエプロンに身を包んでいる。

 さっきまでストレートにおろしていた髪は、頭の後ろの方で一つ縛りにまとめられていた。

 これだけでも、かなり印象が違って見える。


“無表情ではあるけど、こうして見るとやっぱりかわいいというかきれいなんだよなぁ。”


 十中八九の人が美人と答えるであろう澪を前に、至極当たり前の感想を抱く夏斗。

 そんなエプロン姿の美人の横に立つと、もうすっかり夫婦のような構図ができあがった。


“本当に結婚したみたいな画ができあがってるんだが……。”

“本当に夏斗くんと結婚したみたい……。”


 同じようなことを考えているようで、2人の間には温度差がある。

 そしてそれは、普段の態度とまるっきり逆転した温度差なのであった。

 といっても、もちろん夏斗も男の子なわけで、クラスメイトの女子と2人きりで立っている状況にはそれなりにきちんと緊張している。


「それで、俺は何をすればいい?」

「私がサラダとかの副菜系を担当するから、夏斗くんにはメインを調理してもらおうかな」

「おっ、メインか。材料は何を使ったらいいとか指定ある?」

「冷蔵庫の中に、ステーキ用のお肉が入っているから、それを使って」

「はーい」


 スーパーで売られているような、プラスチックのトレーに乗ってビニールでラップされたステーキ肉を思い浮かべながら、夏斗は冷蔵庫の扉を引く。

 そして中を見た瞬間、目が点になった。

 まず、イメージしていたようなパックのステーキ肉はない。

 そして数多ある食材の中で、一際異質な存在感を放つものがあった。

 銀色の金属製トレーに緑の葉っぱっぽいやつが敷かれ、その上にデデーンと塊の牛肉が鎮座している。

 高級和牛という四字熟語がぴったり似合いそうな、サシと赤身のバランスがちょうど良い肉だ。


「あの……まさかステーキ肉ってこれ?」

「そう。適当な厚さに切り分けて使って。ちょうどこの間、おばあ様から送られてきたばかりなの」

「へ、へー……」


 夏斗は若干震える手で、銀のトレーごと肉を取り出す。

 そしてひとまず、包丁とまな板を用意した。

 この家はキッチンもかなり広く、澪の調理している隣でも十分に作業できるスペースがある。


「澪は、どれくらいの厚さがいい?」

「今の状態で2cmくらいでお願い」

「分かった」


 夏斗は高級肉のオーラに圧倒されつつ、指定の厚さにすっと包丁を入れる。


“切りやすっ……!”


 包丁の切れ味に、思わず夏斗は目を見開く。

 この家はただ単に、見かけだけ整えられているのではない。

 きちんと細部に至るまで、管理が行き届いているのだ。


“俺も同じくらいの厚さにしておくか。”


 2cmほどの厚さに切り分けた2枚の肉に、塩と胡椒を振って良くなじませる。

 最初は肉のオーラに食らっていた夏斗だったが、この辺りはもう手慣れた作業だ。

 さっきまでリズミカルに野菜を刻んでいた澪と遜色なく、流れるような動作でステーキの準備を整えていく。


“想像していた以上に、ちゃんと家事できるんだ……。それに楽しそう。私もあんな風に笑えたらな……。”


 澪は何も、好きで無表情でいるわけじゃない。

 好きで《氷姫》になったわけではないのだ。


“私も料理、再開しなきゃ。”


「危ないよ」


 再び野菜を刻もうとした澪の手を、一旦洗ってきれいに拭いた手で、夏斗がそっと掴む。

 されてみて、澪は包丁を入れようとしているところに自分の指があると気付いた。

 普段は絶対にやらないようなミスだが、夏斗が隣にいることで少し狂ってしまったのかもしれない。


「あ、ありがとう」

「いえいえ」


 夏斗が手を離すと、そこにはじんわりとした温かい感覚が残った。


“どうしてそんなに、私の全身に温かさを刻みつけていくの……?”


 恋をしたことがない澪は、自分の表現がちょっとヤンデレじみていることに気付いていないのだった。

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