祠のラヂヲ
非常に珍しいことに、地元の大通りは車で混雑していた。わたしと同じように、お盆のため帰省する人たちが押し寄せているからだろう。「市」という称号も与えてもらえず、「町」内の子供の数が3桁あるかないかの田舎でも、こういうことはあるんだな。妙に感心している自分に気付いて、苦い笑みが広がった。
たくさんの個人商店や工場が立ち並ぶ大通りは、わたしがこの町を出たときよりも、シャッターが降りたところが増え、もはや『商売の町』だなんて呼べない様相を呈している。雲ひとつ無い青空の下に広がる商店街は、やけに寂れて見えた。
知っている店が存続しているか否かを横目で確認しながら、わたしは自分の実家へと向かう横道へ車を走らせた。
「ただいま」
カラリと軽い音を立てて玄関扉を開けると、居間の方から『おかえりー』という母ちゃんの声が響き、玄関に入ってすぐの正面にある障子がゆっくりと開いた。そこから現れた顔を見ると、あぁ実家に帰ってきたなと思った。
「すーちゃん、おかえり。お久しゅうねぇ」
「ただいま、おばあちゃん」
自然と、言葉のイントネーションが訛った。
実家で涼み、近況報告をしたり雑談をしたりしてから、お昼ごはんの前にお墓参りへ行くことになった。頭にしっかりと焼き付いた、墓地への道順を思い出しながら歩いていると、その景色の中に違和感があるような気がして、思わず足を止めた。
「ここ・・・」
今まで空き地ではなかったところが、綺麗サッパリと更地にされているのだ。まっさらで汚れひとつ無いアスファルトで覆われた地面が、妙に白々しい。
「あぁここな、長いこと誰も住んでない家が何軒かあったやろ。今年の春先に土地の持ち主さんが みな毀ちはってな」
母ちゃんの説明が頭に染み通り、理解したとき、体の内側をハンマーで殴られたような感覚になった。一瞬、肌をじりじりと焼く日差しさえも気にならなくなった。
道路から空き地へ入り込めるところに、どでかい看板が立ててある。
『私有地につき、立入禁止』
くっきりと印刷されたその文字が、目にしみるようで…思わず看板を睨みつけた。
ここには、2,3軒ほど廃屋があった。わたしが物心ついたときには既に空き家となって十数年経っていたらしい。外壁がトタン製の家どうしが、密です!と叫びたくなるほど近々と集まっていたところだ。
「ばあちゃんが若い頃は山本さんって人が住んではって、そこの隣には金田のねぇちゃん、そこの隅っこ辺りにあった家には、誰やったかなー」
おばあちゃんの説明を聞きながら視線を さまよわせると、ふと、あるところに目が留まった。アスファルトで固められた土地の、奥の隅っこに、ぼろぼろの何かがある。色あせて白っぽくなっているものの、もともとは赤色だったのであろう布が、傷んだ木材に掛かっているのが見えた。白い置物もある。輪郭から推測するに、祠によくある狐の置物だ。
あ、そうか。あれは…
「あそこ、神社?ってゆうか、祠、あったんやな」
「そうそう。昔は、あこ(あそこ)にも御供え物してな、他のとこと同じように拝んどったんよ。山本のとこの京子さんは、お兄さんも旦那さんも戦争で亡くしてはったし、拠り所なんかして、よう拝んではったって聞いたことあるわ」
おばあちゃんの説明に生ぬるい相槌を打って、わたしは「さ、行こ」と再び足を動かし始めた。
「いやー、もう、この年になったら坂 上るのも せんどやわ。でもこれがええ運動になるねん」
「そーそー」
「もうな、いっぺん歩けんようになったら、あとは下り坂をコロコローッと転げ落ちるように衰えていくねんて。そやからこうして鍛えとかんなん」
「あー、亀田のねぇちゃんも最近階段で転んで、よう起き上がらんようになったらしいもんなぁ」
おばあちゃんと母ちゃんが喋っているのをボンヤリと聞きながら、墓地へと向かう坂道を歩く。からりと晴れた空から、太陽の熱がじりじり肌を刺す。雑草のひとつも生えていない、あのアスファルトの更地が、わたしの心をざわつかせていた。
*
廃屋だらけのあの土地が、わたしは、けっこう好きだった。
蔦が絡まった、無人の家。ボロいけれど致命的なほどには崩れておらず、しっかりと家としての原型を留めていた。しかも、その家の中に、食器棚やらホウキやら、いかにも昭和なデザインのポスターやらが残っているのが窓から垣間見えて。
そんな廃屋の脇には、人ひとりがやっと通れるような道があって。
あれに冒険心をくすぐられない子供はいないんじゃないかと思う。
実際、近所の友だちと探検をしようと目論んだこともあったっけ。結局それは母ちゃんたちにバレて、危ないからやめとき、と怒られたけど。
小さい頃からずっと近所にある、あこがれの場所だったのだ。
*
昼ご飯を食べ終わってしばらくしてから、散歩に行くことにした。熱中症には気ぃつけてやという母ちゃんの声に返事をしつつ、実家の玄関扉をカラリと開けると、夏の熱気がセミの鳴き声とともに襲いかかってくる。それでも、わたしが暮らしている関東のアパート周辺よりは随分マシだ。
キャップは被っているけれど、飲み物は持ってこなかった。まぁ、目的地は決まっているし、そんなに長くうろつく気は無い。大丈夫でしょ。
さびれた工場跡の前を通り、お地蔵さんに向かってちょっと会釈をし、公民館の横を通り抜ける。
ものの3〜4分で、わたしは、あの空き地の前に立っていた。
「ほんまに、キレイになってしもうて・・・」
呟いて、空き地の隅っこへ目を向ける。朽ち果てた祠。布が、ぬるい風を受けて幽霊のように揺れたのが見てとれた。
そして。
空き地の脇にあり、かつては廃屋の玄関方面へ繋がっていたのであろう細い道。子供の頃ですら、ほんの数歩しか踏み入ったことのない道が、今、わたしを誘っているような気さえした。
この小道が『私有地』に含まれるかどうかは知らないが、そんなことは今、どうでもいい。そう思って、引き寄せられるようにして、わたしは小道をたどり、祠の前に佇んだ。
遠目に見るより、さらにボロい。この町は やけに祠が多いけれど、よくもまぁこんな場所にあったものだ。狐の置物は薄汚れて、枯れてボロボロになった花が散らばっている。
それでも、なぜか惹きつけられる。
ぼうっとして祠を眺めていた、そのとき、
ジジ……ジ‥ジジジッ
明らかに虫の鳴き声ではない音が、祠から聞こえた。
空耳か・・・?
いや、たしかに、はっきり聞こえた。カラスや雀の鳴き声とも違う、機械的な音。
ジジジジジジジ……ザー
また聞こえた音を頼りに、わたしはそれを見つけ出した。
赤い、ラジオだ。
花立の陰に隠れるようにして転がっていた それを手に取って、わたしは首をかしげた。いつからそこにあるのか、周囲が廃屋だらけの目立たない場所にあった祠に置いてあるにしては不自然なほど、汚れも傷も見受けられない。ただ、ラジオのメーカー云々モデル云々に詳しくない わたしでも、それが昭和に使われていたような旧式のものだと分かる。
≪ゆうくんがオニやーっ≫
≪オニさんこちら、手の鳴るほうへ≫
「え」
自分の口から、声にならない呟きが漏れたのが分かった。
いまの声は。思わず手元をまじまじと見る。このラジオが音を出していた、ように聞こえた。
中の電池はまだ使い物になっているということだろうか。
そう思ってラジオ本体を裏返し、ちょっと観察し、て、
「・・・・・は?」
額を、いやな汗が伝った。・・・こういうホラー映画、見たことあるわ。
ラジオの、本来は電池が入っているであろうところは、ぽっかりと空いていた。
≪ほんだら行って参ります。京子、この子ら頼むわな≫
心臓を鷲掴みにされたような感覚が、わたしを襲う。間違いなく、声はこのラジオから聞こえてきている。
早朝の柔らかい日差しが眩しくて、わたしは目をつぶった。
声は、流れるようにラジオから溢れ出してくる。
≪お金渡すからな、藍本さんの駄菓子屋でドーナツ買って来ぃ≫
≪よっしゃー!浩二、今日のおやつはアイドやってーっ≫
≪お釣り誤魔化したりせんと帰って来ぃや。こっそり当て物とかしたら怒るで≫
≪おはようさん。今日は よう晴れてますなぁ≫
≪洋子、コンロの火ぃ止めといて! ≫
目の前にある、トタン製の家へ、三編みの女の子が駆け込んで行った。家の外壁近くにある用水路で、小学生くらいの男の子たちが葉っぱの船を流して遊んでいるのが見える。
≪お稲荷さんお願いです、今日のテストでいい点とれますように!お母ちゃんに怒られませんように!
≪アホか。口に出して言うたら、お願い事叶わんで≫
私の隣で、イガグリ頭のやんちゃそうな男の子が祠に向かって熱心に祈りを捧げている。それを、さっきの三編みの女の子が呆れたように眺めている。さっき見たときより大人びているような気がするが、気のせいだろうか。
鮮やかな朱色の前掛けをかけた狐の置物が一対、祠の両側に凛と佇んでいる。祠自体は雨風を受けて多少色褪せているものの、正面の扉はきっちりと閉められており、みずみずしい花が供えられていて、綺麗だ。
≪今年は干し柿が良え具合にできたわ。カラスにも食われんかったし≫
≪あぁ、うちの嫁さんも、今年の干し柿は美味しくできたって言うとったわ。気候が良えんかな≫
身を切るような寒さの中、二人の おじさんが立ち話をしている。二人が吐く煙草の煙が、白く たなびいている。
≪天神さんの夏祭りやろ!早く夕方にならんかなぁ≫
≪昼寝して起きたら、すぐや≫
昼下がりの軒下で、また別の子供たちがアイスキャンデーをなめなめ話している。
天神さんの夏祭り、か。これも、少子高齢化のあおりで、もう開催されなくなったお祭りだ。わたしも子供の頃は、このお祭りの日が近づくと居ても立っても居られないほど楽しみにしてたっけ。
≪ほら、すーちゃんも。いこ≫
すーちゃんって、わたし?
声のした方を見ると、小学校中学年くらいの男の子が、わたしを見ている。
うすく伸びた家の影に隠れて、男の子の顔はよく見えない。
でも、わたしのことを『すーちゃん』と呼ぶ人物は限られている。
「・・・ゆうくん?」
幼なじみの名を呼ぶと、男の子はフフッと笑って手を差し伸べた。
≪早よ いかんなん、当て物の景品、ショボいのんしか無うなってまうで≫
夕焼けで染まった空の色が、あたりの空気にも混じったようになって、美しいと思った。
蔦の絡まった廃屋に面する細い道の向こう。そこから、オレンジ色の光が差し込んでいる。
そうだ。今日はお稲荷さんのお祭りじゃん。
早く行かなきゃ、日が暮れる。さすがに、薄暗くなった道を子供だけでお祭り会場に行くのは心細いから、日のあるうちに行っておきたい。
向こうに行ったら、ほかの友達にも会える。
みんなで金魚すくいをして、でかいボール転がし(正式名称は知らん。スマホで調べても分からなかった)で遊んで景品を貰おう。
あと、当て物をして、かき氷を食べて。
りっくんは、今年も全種類のシロップをかけてもらうんだろうな。まりちゃんは、また苺シロップの上に練乳をぶっかけるのだろう。
わたしは、今年はブルーハワイにしようかな。あの、太いストローで作られたスプーンで氷をすくうの、楽しみ・・・
わたしは、相変わらず顔がよく見えない男の子の、差し伸べられた小さな手に、自分の手を重ねようとした。
「すーちゃん?」
川に投げ込んだ石のように、唐突に声が降ってきた。瞬間、パッと目の前が暗くなった。
虫の鳴き声がする。白々とした街頭の明かりが見える。暑い。
何の変哲もない、アスファルトで固められた平坦な空き地だ。
なにもない。
なくなった。
てのひらで顔を覆って、自分がラジオを手に持っていないことに気付いた。視線を落とすと、床に落としたお椀みたいに粉々に崩れた、ラジオ…だったものが足元に転がっている。
まっさらで小綺麗なアスファルトが、ただただ地面を固めている。
「そこに居るの、すーちゃんやんな。どしたん、こんなところで」
さっきのと同じ声が、向こうの道路から聞こえた。この穏やかな調子は・・・
「ゆうくん」
空き地に面する道路に佇む、幼馴染の姿が目に入った。わたしが通ってきた細い道に足を踏み入れ、こっちに来てくれる彼は、もちろん子供ではなく、わたしより頭ひとつ背が高い。ふわりと木の匂いがした。
「久しぶりやね。おっちゃんの木工所、継いだんやって?」
わたしの口から漏れた、当たり障りのない口上に生返事をして、ゆうくんは怪訝そうに祠を見、わたしの顔を覗き込んだ。
「おばちゃんが心配しとったで。夕飯の時間やのに、散歩に行ったっきり帰って来とらんって」
何しとったの、という問いかけに曖昧に答え、わたしは祠から離れた。
夢から覚めた後のような、ぼんやりした感覚が、頭の芯に残っている。
***
あれから何年もの時が経った。それでも、わたしは時折あの夏の日を思い出す。
あのラジオが鳴っていたとき。
わたしに『お祭りに行こう』と誘った男の子の、差し伸べた手をとっていたら。
わたしは、どうなっていたんだろう。
あのラジオは、いったい何だったのだろう。
それは今だに分からない。
あのラジオがあった祠も、昨年の暮れに撤去されたそうだ。今はもう、無い。
終