ざまぁを描くうえで大切なのは、読者の中に積もる「ストレス管理」。読むうえで大切なのは、それらを見越した「リスク管理」
初投稿にもかかわらず割とガチ目のエッセイとなりますが、まあ内容はタイトルの通りになります。何というか、一部のざまぁ作品は読んでも割に合わないというか、読了感が良くないことがしばしばあるように感じるんです。
ちなみに、自分はこのジャンルの作品を読む時、敵側の視点から書いた話──つまりはサイドストーリーだけをつまみ食い的に読むことが多くなりました。作者さんから見れば最初から1話ずつ読んでもらいたいところでしょうが、読み方は人それぞれなのでそこはご容赦いただきたいところ。
いずれにせよ、そういう読み方でもしないと、「ざまぁによってカタルシスを得る」という元来の目的を達成できなくなっている作品が多い気がするのです。それについてちょっと長くなりますが、皆さんに出来るだけ上手く伝わるよう順にお話ししてみようかなと思いますので、どうかお付き合いください。
そもそも、ざまぁというジャンルのテンプレ的な魅力というのは、
「主人公が敵役(勇者あるいは元パーティメンバー、国王あるいは王子、領主、元上司、ギルドマスターなど)に何らかの形で虐げられ、その後に成り上がることで立場が逆転し、最後には遥か高みから見下ろして相手にそれをしらしめること」
にあると言っていいと思います(細かい系統は他にも色々あると思いますが、取り敢えずということで)。その瞬間、読者はそれまで溜め続けてきたストレスなりヘイトなりを発散し、上に書いた言い方だとカタルシスを得ることになるわけですね。
このジャンルにおける読者の多くは、まさにそれを最大の目的として物語を読んでいることだと思います。かく言う自分も同様であり、仕事や人間関係で疲れた時やフラストレーションが溜まってしまっている時などに読むことで、少しでも心を軽くする手段の一つとして活用していたりします。
しかし残念なことに、一部作品においてはその肝心のざまぁ展開がとても中途半端となってしまっており、そのせいで期待していたほどの満足感を得られないままに読み終わってしまうことが多々あるのです。そして、その原因の一端というのが「主人公にありがちな、極端な善人属性」にもあるんじゃないかなと自分は感じました。「善人○○の~」とか「お人よし○○の~」とかいった作品によくあるやつですね。
では、まずここで、ざまぁ系で典型的な「勇者パーティーを追い出された主人公」という例を引き合いに出してみましょう。
この場合、パーティーの実質的なリーダーである勇者が悪役として描かれることが多いのですが、この勇者に関してはその人格が極端に悪に寄っており、酷く歪であるとしてもさほど問題はないのです。むしろ、その方が読者の「勇者へのヘイト」がより高くなり、上手くざまぁされたときの爽快感も増すことでしょう。そして、そんな勇者の設定とは対照的に、多くの作家さんが主人公を善の者として描くことになるはず。そうすることによって、両者の対比構造からより一層の演出効果を期待できるからです。
ですが、ここに罠があります。つまり、「勇者が悪に大きく寄っているのだから、主人公を極端な善にしても問題ないはず。むしろ、そうするべきだ」と疑いなく思い込んでしまうんですね。
もちろん、そうすること自体が悪手だとは言いません。そういう設定の下で素晴らしい作品を書いてる作者さんもありますし、実際にそういう作品をいくつも読んだことがあります。
ただ、あくまで自分の考え方なのですが、善に強く寄った主人公というのは、そもそもざまぁそのものと相性が良くないと思うのです。……だってそうでしょう? 何でもかんでも受け入れ許してしまうような他人に甘い性格の人間が、(いくら自分を散々虐げてきたとは言え)敵役である勇者を、読者がカタルシスを感じられるほど徹底的に断罪できるとはあまり思えません。
無論、感情と理性は別のものです。人の中にある善性が必ずしも甘さを生むとは限りません。
ですが、そうなる可能性をより高くさせるのも、やはり善性なのです。実際、このような性質を持った主人公のざまぁものを読んだ時、肝心の断罪場面にもかかわらず主人公が日和ってしまい、ざまぁが中途半端に終わってしまったことがよくある気がします。
「僕はあいつを許すことは出来ない。ただそれでも、あいつはかつて、紛れもない僕の仲間だったんだ。だから、やり直すことのできるチャンスを与えたい」
みたいな事を言って減刑を申し出たりするわけですね。本人が酷く苦しむ形での的な処刑や奴隷落ちなどではなく、勇者資格のはく奪や国外追放に留めようとするのです。
これまで散々主人公パーティーの悪い噂を流してきたり、パーティーメンバーにちょっかいを出したり、クエストの妨害をしたり、上から目線で再勧誘をしてきては断られて罵ってきたり、暗殺者やごろつきを雇って命を狙ってきたり、主人公の家族や友人などの関係者をさらっては脅迫をしてきたり、挙句の果てには禁断の力だか何だかに手を出して暴走し街や村に多大な被害を出してきたりと、とにかくそんな散々な目に遭わされておきながら、主人公はそんな彼だか彼女だかに必要以上の寛容さを示してしまうわけです。
ちなみに個人的にさらに酷いと感じるパターンは、そんな曖昧な形で断罪された勇者が再び主人公の前に立ちはだかり、また同じような流れを繰り返す羽目になる展開ですね。
それまで何十話か知りませんが、それだけを費やしてようやく落ち着いたと思われた一つの結末をひっくり返して、より醜悪になった元勇者の妨害をだらだらと見せてくるわけです。かつて主人公が示した甘さがこのような事態を生んでしまっていることは、もはや否定のしようがありません。
美談としては素晴らしいと思います。というか、そういう主人公は正直嫌いではありません。実際、自分が書き溜めている物語の主人公も、ある程度の線引きはしていますがそういう側面がなくもなかったりします。
また偏見かもですが、日本人というのは(例えそれが仮初のものでも)調和を極端に尊び、(根本的な解決ではなく)事態を大きくさせないよう多少リスクを被ってでも強引に丸く収めることを良しとしがちなところがあるので、そういう事なかれ主義的な側面が主人公に与えられると、描き方によっては甘めな人間になってしまうのかもしれません。とはいえ、それ自体は一つの魅力と言えなくもないです。
ですが、ことざまぁものに関して言うと、これって中途半端感が否めないと思うんですよ。だって、それまで散々読者の中に積もり積もった勇者へのヘイトは、一体どこにそのやり場を見つければいいんです? ざまぁというのは、高いところからジェットコースターのような急角度で一気に下る思い切りの良さがあるからこそ読了後の爽快感に繋がる訳で、その角度がなだらかなものだったりだらだらとスピード感の無いものだったりすると、なんだかもやもやしたものが読者の中に残ってしまうと思うんです。
「勇者の蛮行で100のストレスを溜めさせられました。ですが、気持ちのいいざまぁで150のカタルシスを得ました。結果、読み始める前に比べ50のストレスを発散させることができました」
なら、時間というコストを費やしてまで読んだ甲斐があるというものですが、
「ざまぁが半端だったので50のカタルシスしか得られませんでした」
では、かえって読む前に比べストレスが50溜まってしまっていることになります。「コストを費やしたにも拘らず負担が増える」……これほど割に合わないことはないでしょう?
一応、善に極振りな甘々主人公でも、このようにならないための手法もなくはないと思います。自分はそんなに思いつきませんが、例えば、そんな主人公に代わり容赦なく断罪できるような冷徹な仲間キャラクターなどを用意するとかいいかもしれません。こうすれば、主人公の甘さという、ざまぁとの間にある根本的な相性の悪さに然程邪魔されず、それなりに気持ちのいいざまぁ展開を描くことができる可能性があります。
とはいえ、それでも虐げられた本人である主人公自らがきちんと断罪しないことに対するもやもや感は生まれるでしょうし、そういう意味での中途半端感は抱かれかねません。やはり、主人公はある程度グレーに寄った性質である方が無難だと自分は思います。
さて、ここまで無駄にだらだらとお話をさせてもらいましたが、ここまでくれば、自分がざまぁものにおいて、勇者視点などのサイドストーリーだけをつまみ食いしてしまいたいと思う理由もある程度理解して頂けると思います。上記のような、
「主人公がどんな人間か」
「敵役から具体的にどんな妨害を受け、その結果(読者は)どれだけのヘイトを溜め込まされるのか」
「最終的なざまぁによって、読む前に比べてどれだけのストレスを発散させることができるのか」
といったことは、実際にその物語を全部読んでみないとほとんど分かりません。かと言って、実際に読んで上に書いたような「時間コストを費やしたうえ、ストレスが余計に増える」といった最悪の結果になってしまってもつまらない。
なので、自分は「つまみ食い」をするのです。
メインの話にある、そもそもの「具体的な妨害シーン」を読み飛ばせば勇者へのヘイトやストレスを無駄に抱え込まされることは回避できますし、何話かに一話くらいのペースで差し挟まる勇者視点のサイドストーリーだけを読めば、かなり大まかにですが勇者がどのようなことをしてきたのかも断片的に拾うことができます。
「なにっ!? あいつに送り込んだ暗殺者が全員返り討ちにされただと!?」
みたいなセリフがあれば、
「ああ、何かよく分からないけど、取り敢えずこの勇者は主人公を暗殺しようとして見事に失敗したんだな~」
って理解できますし、大体ああいったサイドストーリーは「勇者視点その1」「勇者視点その2」のような形で上手くつながっていることが多いので、そこまで致命的なブツ切りの理解にならずに済みます。
まあ、主人公の活躍の具体的内容はほぼ分かりませんし、肝心のざまぁシーンにおけるカタルシス効果も幾分かは減ることでしょうが、それでもその部分だけを美味しくいただくことができるのであれば、それだけでも上々だと思いません? さっきの言い方で言えば、
「ほぼ読み飛ばしたから妨害シーンによるストレスはほとんど溜め込まなかった。結果、ざまぁ効果も減ってしまい20程度しか得られなかったけど、読む前に比べてほぼ20のストレスを、それもほとんど時間的コストを費やさずに発散できた」
となるわけです。こうすれば、「割に合わない」タイプの作品だったとしてもその損失を回避することができますし、むしろ少ないですが安定したリターンを期待することができます。
最初にも書きましたが、こういった読み方は、その作品を苦心の末描かれた作者の方の努力に対してひどく失礼だろうなとは思います。もし自分の作品がそんな形で読まれたら、自分だって気持ちよくはありません。
ですが、やはり作品に対する楽しみ方やそこに求めるものというのは人それぞれだと思いますし、極端な事を言ってしまえば、そもそもざまぁというのは、「主人公の活躍を追っていくもの」ではなく「敵役の凋落を楽しむもの」だと思ってます。主人公の活躍の具体的な内容は二の次なのです。というかいっそ、主人公の物語は完全に無視して勇者サイドの話だけで全話構成してしまったとしても、特に問題はないとさえ思います。
もし主人公の活躍を描きたいならメインの方向性をざまぁ以外にしたらいいと思いますし、その方が読者も「ああ、そういう作品なんだな」とキーワードタグやあらすじですぐに理解できます。「ざまぁ」というキーワードタグがメインな感じで設定されているにもかかわらずざまぁが半端でもやもやさせるくらいなら、そもそも「ざまぁ」タグをつけずにいれば、「少しだけざまぁっぽいのもあったな」くらいに思ってもらえてがっかりさせずに済むかもしれませんし。
いずれにせよ、こういったリスク管理を読者側が密に行うこと自体は決して悪ではないはずですし、作家と読者の双方にとってwin-winだと言えるとも思います。
ただ、もし作者の方がそういった読まれ方を極力避けたいと思うのであれば、読者視点に立ったうえで、物語が読み手に与え得るストレスの分析や管理を徹底した方が良いのかもしれません
勇者がヘイトをとにかく溜めさせるような描かれ方をしているのならそれを明らかに上回るほどのざまぁになるよう常に心掛けて展開を紡いでいくとか、どうしてもざまぁが甘めになってしまうならそもそも「ざまぁ系作品」という方向性で連載するのを止め路線変更を試みるとか、あるいは主人公のホワイトな性格を根本的にグレー寄りに修正するとか、恐らくいろんな手法があることと思います。
とにかく良くないと思うのは、先の展開まで知っている作者の視点から脱却できず、読者がその時々においてどのような心境で話を読み進めるのかという見方を無視してしまうことでしょう。そういう意味では、ざまぁというジャンルは他のジャンルに比べ、作者が独りよがりになってはいけない側面が結構強いのかもしれません。なにしろ、読者の中のストレスやヘイトといった「負の感情」を巧みに操る必要性のある、とても繊細かつ危険なジャンルのはずですから。個人的に気持ちのいいざまぁ作品は好きなので、もし自分も書いてみたいと思うようなことがあれば自身に戒めておきたいところです。
ちなみにですが、自分にとっての「ざまぁ」と「復讐」の線引きに関してはもう少し細かい話になるので、この場では割愛させてもらいます。
一応簡単に言ってしまうと、復讐ものは敵側だけでなく主人公側の性質も悪に寄りがち(あるいは極端にネガティブな感情に囚われがち)だということくらいでしょうか。相手に対する甘さ云々の次元を飛び越え、読者が思わず引いてしまうくらいの容赦のなさがそこにあるかどうかが精々の差異であり、そこまで大きく違いを意識しなくてもいいかなくらいに考えてます。どっちかと言うと共通点の方が多そうですしね。
さて、以上かなり長くなってしまいましたが、「こんなことを考えながらざまぁを呼んでますよ~」というようなことをつらつらと書かせて頂きました。
基本読み専で、しかもなろう利用自体が普段そこまで多くないので完全に不定期になってしまいますが、またエッセイを書くことがあればその際はまた読んで頂けると嬉しいです。ここまでお読み下さり、ありがとうございました。