快晴
投稿するものとしては二作目ですが、二年ほど前に書いたものの再掲となります。
ぜひ評価・感想等お願いいたします。
ミルン――大陸の北端に位置する小さな町。冬になると水面は凍り、一日の間太陽が一回も地平線の上に昇ってくることがない極夜という神秘的な自然現象が見られるような町だ。
気分暗くなるような灰色の空の下、町の時計台にある展望台で、少女が佇んでいる。
高さ三十メートルほど。霧によって視界は優れないが、少女は何か確信を持って凝視しているかのように目を動かさない。
下の町景色に目を向けてみると前日に降った雪で屋根は真っ白だ。
そのまま佇んでいること十分ほど、霧の奥から微かにオレンジ色の光が零れた。最初微かだった明かりは次第にその暖かさを増していく。光は霧の無数の粒子に遮られながらも反射し、しまいには少女の視界全体が淡い橙黄色に染まる。
その光景が瞳に映り彼女の澄んだ青い瞳がほのかに橙黄色に染まっている様子もまた神秘的だ。
しかしそんな神秘的なワンシーンは長く続かなかった。太陽は地平線から顔を出すことはなく、次第に光の勢いに陰りが見え始める。
すると少女はそのわずかな変化を察知して諦めたかのように足早に階段を下りていった。
少女が時計台を去ってからすぐ、時計台の鐘が時刻を告げる。
真冬のとある日、正午だった。
午後零時、時計台の鐘の音が外から微かに聞こえる。
家の外の雪景色に反射して眩しい光をカーテンで完全に遮っている部屋は暗い。
唯一の光源はパソコンのディスプレイだけ。
その前に一人の青年が座っている。目では傍らにある文献を追いながらも、その手は熟練のピアニストのように、絶え間なくキーボードの上を踊っている。
文献の内容を見てみると、他国でいくつもの賞を取っている著名な小説だ。
時折語句や熟語を辞書で調べているあたり、小説や資料をミルンで使われている言語に翻訳するのがその青年の仕事のようだ。
壁にかかっているカレンダーには三日後の日付のところに何重もの赤い丸と『〆切』の殴り書き。その字には下からろうそくを当てられて溶けかけているようなイラストが添えられていて、まさに火であぶられるような緊急性を感じさせる。が、机上に散乱するメモ書きの山からは、青年にはそんなクオリティの高い落書きをできるほどの器用さはないことがわかる。彼が書いた落書きではないことは明白だ。
ふとカレンダーで存在感を放つ「〆切」の文字に目を向けたかと思うと、焦るかのように手を動かすスピードが早くなるが、そうして無理やり作り出されたものというのは質が伴わないと相場が決まっている。すぐにその文章は削除される。
一度手を止めて、はぁ、と深い溜め息をつく。
データを保存し、開いていたページを全て消してからすっくと立ち上がったかと思うとそのままそのひょろっとした身体をベッドへ投げ打つ。
しばらくうつ伏せのままでいるのかと思うとふいに起き上がり、台所の方に置いてあったローストポークをもそもそと食べ始める。
そこに食に対する充足感というようなものを感じることはできない。
薄暗い部屋を照らすのはデスクトップの美しい太陽が映った風景写真。まるで不健康をそのまま実行しているかのような暮らしぶりだ。
「お兄ちゃん、ただいま」
そこに少女――ミラが帰宅する。
「おかえり」
青年――ソルが小さく低い声で言う。
「またこんなに暗い部屋で作業して、目を悪くするよ?」
「そんなこと言って何年もたつけど全然悪くならないじゃないか」
「いつか眼鏡かける羽目になっても知らないんだから……っていうか温めてから食べてっていったでしょ!? よくこんなに冷たいもの食べれるわね」
ミラが皿をソルから取り上げると電子レンジに入れる。
「めんどくさいし早く作業に戻りたかったから。それで見れたのかい、太陽は?」
と言いながら、ナイフとフォークを持ったまま寂しそうに何もなくなったテーブルの上を見つめる。
「そんなこと言っていつ見えるのかわかってるんでしょ。何とか境界線っていうのとミルンの経度を照らし合わせると簡単に計算できるとか何とかって、天文学の専門書の翻訳をした時に説明されたの覚えてるんだから……あらウォルファートこんな狭い所にいたのね。相手にされなくて寂しかったでしょう」
ソファと壁の隙間に挟まっているような状態でじっとしていた一匹の猫――ウォルファートを、実の兄には決して向けることないほど明るい表情と共に抱き上げ、そのままそのベージュ色に輝くふわふわの体を頬に擦り付けるミラ。
一方のウォルファートはというと目を細めいかにも落ち着かないと言うような反応、あまりご機嫌ではない。
「明暗境界線だ。じゃあなんでその日だけ見に行かないんだよ。わざわざ一週間前から通い詰めなくてもいいじゃないか」
「ほんっとにわかってないんだから。こういうのは結果じゃなくて過程を楽しむものなの」
「俺にはわからないなぁ。寒いのに」
「お兄ちゃんめんどくさがらずに一回来ればいいのよ」
電子レンジがピーという音を鳴らして温め終わったことを知らせる。
「いやさすがに今年は締め切りが……」
「じゃあ早く終わらせて太陽が見えるようになる日だけでもいいから」
ミラが皿を取り出しソルの前におく。
「そう簡単に言うけど、今回ばかりは厳しいんだよ」
「今回はどんな本の依頼なの?」
「ボームでベストセラーの小説だよ。タイトルは訳したら『黒色の悪』かな。でジャンル的には児童書、というかそうやって作者が言い張ってるだけなんだけどね」
「言い張ってるだけって……作り出した本人が言うんだから間違いないじゃない」
「まぁ作家の言うことだから一番尊重されるべきだとは思うんだけどね。出版する時には出版社と一悶着あったらしい。ごちそうさま」
「なるほどね。食器、シンクで水に浸しておいてね」
「午後は何か予定があるのか?」
「いや外に出るつもりはないけど。自分の部屋でも本でも読もうかな、って」
「そうか」
「頑張って」
そう言うとミラが自身の部屋に入っていき再び静寂が訪れる。
ソルは伸びをして一度深呼吸を挟み再びパソコン前に腰を下ろすとその指はまた踊りだしたのであった。
二日後、町の東部、海沿いの港にミラは佇んでいた。流氷がそこらじゅうに浮かぶ海に船が出入りするはずもなく、漁が行われている時にはすごい盛り上がりを見せる魚市場にも人気がない。
飛び移りながら進んでいったらいつか雪の国の島があって、全てが雪と氷でできている、小説や映画に出てくるような世界にたどり着けるんじゃないかしら。水平線の向こうまで広がる流氷を見てミラは想像する。
潮の匂いを運んでくる冷たい海風で冷やされたのか、小さくくしゃみをした。しかし、その音は誰にも届かない。
その時、また周囲が明るくなった。流氷に埋め尽くされて白かった海が照らされ薄いオレンジ色を帯び始め、光はその強さをどんどん増していく。
そしてついに、その姿の一部がミラの眼前に現れた。数ヶ月ぶりにミルンの町に顔を出した彼はこの数ヶ月に溜めていた力を放つように眩しく光った。
小さい頃からダメと教えられてはいたが、我慢することができず直視してしまう。しかし、五秒と続かずすぐに眼がやられ視界がぼんやりとし始める。
でもそれでいい。今日は、まだその日じゃないんだから。
ミラは心の中でそう呟いた。いや、実際には声に出していたのかもしれない。
子連れなどがいる海沿いの公園の道を通って家へ帰っていく。
寒い地域だからか熱を吸収しやすい黒や紺と言った服を着てる人が多い中、細身の少女は一人、純白のダウンコートを纏っていた。
※
ある田舎の村に一人の少女がいた。
とても快活な性格で、家でおままごとをしているよりも外で木に登る方が好き。そんな子だった。
じゃあ、いつも一緒に遊んでいる子どもたちは男の子だけだったのか。そう聞かれると、答えはノーになる。
もう一人いたのだ。女の子が。
ある日、少女は何日か続けて、知らない女の子がじっとグループの方を見つめていることに気づいたのである。少女が誘うと女の子はとても嬉しそうな顔をして遊びに加わった。女の子はすぐに馴染み、三日もするとまるでずっと一緒に遊んでいたのかと思うほど仲良くなった。
遊び仲間のなかで二人だけの女の子ということもあり、少女はいつしか外で遊ぶのと同じぐらいその女の子のことが好きになっていた。
しかし、月日が経つにつれてその女の子もやがて他の女の子など周りの視線を気にしはじめ遊びに加わらなくなった。いつしか二人の距離は出会う前以上に広がっていた。
女の子がパタリと来なくなった時、少女は気づいたのだ。
私はもう外で遊ぶことに対して魅力を感じていたのではない。彼女と一緒にいることが楽しかったのだ。
そのことに気づくと、少女も外で遊ぶことはなくなった。しかし、それまで他の女の子との交流がほぼなかった少女はいつまで経っても新しい環境に馴染むことができなかった。そして次第に誰とも遊ばなくなると、少女はいつしかこんなことを思うようになっていた。
私の中身は空っぽ。中にあるのは暗闇だけだ。
そんなことを思いながらも、少女の心の中ではそんな自分に嫌気がさしていた。性格の暗い自分と誰かと楽しく話したい、そんな二面性に板挟みになりながら生きていたのだ。
次第に内面の黒が外面にまで侵食しているようにさえ思えた。
しかし彼女は決して誰に対しても憎しみの感情を持たなかった。悪いのは自分だと。自己完結を善としたのだ。
数年後、少女は家を出て自立していた。いや、自立というほどの生活ぶりではなかったかもしれない。パートの仕事で細々と生計を立て、それ以外の時間は散歩したり、少し遠くまで景色を見に行ったりして。
仕事先の人々と人並みに付き合う程度のことならこなしていたが、独りでいることの方が気楽だとは感じていた。
その日、少女は砂浜を歩いていた。少女は海が好きだった。それも陸から見て北に面している海だ。北の海はどの海と比べても黒かった。底が存在しないようにも見えるほどに。
しばらくすると少し離れたところに少女より少し年上の女性がいた。その女性のことを少女は知っていた。仕事先でよく一緒になる人だ。しかしその女性は少女とは違ったタイプの人間だった。人当たりがよく、周りに人が集まるし、仕事でも頼られていた。
少女は最初、「制服を着ているわけでもないしわからないだろう」と思い少し俯いていたが、女性はこちらの方をちらりと見るとさりげなく近寄ってきてこう言った。
ここの海とても綺麗よね。まるで底がないみたいで心が飲み込まれちゃいそう。
少女は何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。女性はそのまま続けた。
毎日に疲れちゃった時とかにここに来るのよね。そうするとこの波に疲れとか思ってることとか持ってかれちゃうような気がして。あなたがなんでここに来てるのかはわからないけど、私と同じような気持ちだったりするのかな。
少女は答えようとしたがやがて口を閉じた。わからなかったのだ。
なぜ独りでいるのか。私はそれを望んでいるのか。
女性はこちらに微笑みかけると口を動かした。何と言ったのだろうか。よく聞こえなかったが、少女にはこう聞こえた。
「……」
この話は初版ではバッドエンドだった。少女は大人になってから女の子と再会、しかし対照的な存在になっていた二人の違いをまざまざと感じると、初めて嫉みという感情を覚え自己嫌悪の気持ちで心が飲まれていくというものだ。
しかし、出版社側としても児童書として出すことに対しては反対、結果的に短編集として組まれることになった。
その後作者が有名になったことで、作者の希望も汲まれて児童書として出版されることが決定した。その際に加筆修正されて書かれたのがこの物語だ。
ソルはこの本をその短編集で読んだことがあったのだが、その時少女とミラを重ねずにはいられなくて覚えていたのだ。二年前、女手一つでここまで育ててくれた母親がいなくなってしまい二人とも生活するために自由な時間が一気に減った。友達との関係も薄くなってしまっただろう、そんな状況にも不満ひとつ言わずに家事や世話をしてくれたミラにソルはとても感謝しながらも兄としての罪悪感も感じていた。
今回この依頼があった時にこの修正があったと知り嬉しいと思った。
そして今このラストシーンで立ち止まっている。ソルが一度原稿を読んだ時にどう訳せばいいのか迷った唯一の箇所だ。
直訳すると「あなたは誰?」というような意味だが、それでは文脈に沿わない。
最後のセリフとなる重要な部分だ。作者の意図を残しながらもわかりやすく、しかし直接的な表現では美しくない。
数年後の「少女」は一人で殻に籠っているような状況で、それに手を指し伸べることになるのが「女性」だ。女性は初版には登場せず、そこに登場したのはかつての「女の子」だった。
一見すると女性の「あなたは誰?」というセリフは冷酷なものに聞こえるかもしれない。ただ、それをどう解釈するか。あるいは少女はどのように解釈するだろうか。その結果が読者の解釈に直結してくる。
そんなことがソルの脳内で慎重かつ迅速に脳内で巡る。
まず、女性の最後の言葉はポジティブなものでなくてはいけないだろう。
その時、ソルの直感で湧いた言葉を即座にキーボードを叩く。
「あなたはあなただけだから」
文字を打ってしばらく見つめた後、自然と口から溜め息の音が聞こえた。そして削除キーを長押しすると、ふたたび思考へと戻る。
そのままウォルファートがごそごそ動く音以外が家の中から消えること数分――ミラが帰ってきた。外がずっと暗いので気づかなかったようだが時刻はいつの間にか午後の八時頃だ。
「おかえり、ミラ」
「ただいま」
あまりにもありふれたそのやり取りはソルの視線を動かさない。
「すぐに出来るからキリのいいところにしておいてよね」
買ってきたものを冷蔵庫にしまいながらミラが言う。
「最後の一言だしもう休憩とするよ」
そう言うとソルは重そうに立ち上がるとウォルファートを抱え上げてそのままソファに身を置き、穏やかそうな垂れ目をさらに細くしうとうとし始めた。
ミラは食事前にうたた寝をされると起こすのが面倒だから止めて、と言いたいところだったが締め切り直前いつもこのように尋常ではない集中力をもって乗り切る自分の兄を思ってそっとした。そして音が出ないように部屋中のカーテンを閉めると、夕食の準備を始めた。
案の定半目で食卓についたソルは味わっているのかわからないが、美味い美味いと言いながら口いっぱいに頬張ってあっという間に食べてしまった。ミラはそんなソルを、兄と同じ穏やかな海のように青い瞳で見つめると、ふと思い出したかのように言う。
「今日はお土産買ってきたの」
「本当? 嬉しいなぁ」
「帰ってきた時バレるかと思ったのにお兄ちゃんこっちの方全然見ないんだもん……ヒント、今日は何日でしょうか」
そう言うとミラは冷蔵庫から白い箱を取り出す。
「えーと、締め切りの日だから……」
ソルの視線がカレンダーの日付を追い、『〆切』の文字とろうそくを見つけるとちょうど電気が消え、部屋が暗闇に包まれる。
ごそごそという物音が続いてからしばらく、ソルの目の前に現れたのは一つの炎だった。すると手拍子とともにハッピーバースデイトゥーユーと聞こえてくる。
「ろうそく消して!」
ミラが歌い終わり、火がソルの息によって吹き消されると電気がつけられる。
「お兄ちゃん、誕生日おめでとう。いつも大変かもしれないけどありがとね!」
そう言いながら微笑むミラを見てソルは何か胸に熱いものが込み上げてくるのを感じる。そして同時に、最後の一言が思い浮かぶ。
「君だけじゃないよ」
ここまでお読みくださった方、本当にありがとうございました。
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