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二人の面影

作者: ppppppp
掲載日:2021/06/07

「ぼくのお母さん。ぼくにはお母さんも、お父さんもいません。5年前、ぼくの入学式の日に交通事こでしんでしまいました。お母さんとお父さんのかわりに、そまちゃんがぼくを育てています。そまちゃんは、お母さんの親友です。」



 報せを受けたのは、桜もかなり散って、葉桜の緑緑しい季節の、日差しの柔らかな夕方だった。在宅勤務の傍ら、息抜きにコーヒーでも入れようと椅子から立ち上がった時、普段めったに鳴らないスマホの着信音が響いた。


「本山みのりさんと、そのご主人が亡くなりました。至急××警察署までお越しください」


 無機質なノイズに包まれた壮年の男性の声が脳内を反響する。


 みのりとは高校時代からの付き合いで、結婚や出産の節目を迎えても交流が途絶えることはなく、つい3日前にも、みのりの6歳の息子の創作ダンスの動画がチャットで送られてきたばかりだった。


 一気に全身の血が冷え、指先や足先の感覚が消え失せていく。暴れる呼吸や震える膝をなんとか叱咤し、どうか人違いであってくれと、ただそれだけを頭の中に反芻させながら、指定された警察署へ向かう。木造のアパートの扉を乱暴に閉め、月極駐車場の一角にひっそりと鎮座する愛車のもとへ慌ただしく走る。つい1か月前の平日の昼間、助手席にみのりを乗せてランチに行ったことが唐突に思い出された。あの時も学生時代と変わらない馬鹿な話や、こちらは仕事の話を、みのりは家族の話を、目の前の食事そっちのけで延々と喋り続けたのだ。目の前の世界が透明な薄い膜越しに湾曲し始める。慌てて一度、きつく瞬きをして、なんとか深呼吸を繰り返しながらハンドルを操作し、目的地にたどり着いたのはそれから20分後のことだった。


 どんなに祈ったところで、起きてしまった現実を変えることはできない。霊安室で見た二人の顔には擦り傷やあざが広がっていた。しかし確かに私の知る二人だった。一気に呼吸が荒くなる。吐く呼吸に自分の声が乗るのを抑えられず、無様にもその場にうずくまって泣いた。


 詳しいお話はこちらで、と案内されて霊安室を出るとき、外のベンチに見覚えのある小さな影があった。みのりの息子の圭太だった。いつも動画で見せてくれるおどけた笑顔は見る影もなく、泣きすぎて腫れた目もそのままに、自分の膝を見つめてただじっと動かずにいた。


「圭太?」


 圭太は自分を呼ぶ声に気づいて私を見た後、ふっくらとした口元やなだらかな眉間をぐにゃりとゆがめて、声も出さずに涙を数滴こぼした。圭太の右のこめかみから額にかけて、大きなガーゼが当てられていた。小さな体の横に添えられた、不釣り合いな大きさのランドセルの表面には地面に擦られたような鋭い傷がいくつもつき、胸につけられた赤いリボンのコサージュはつぶれていた。子供用のスーツの袖口には細かい砂がついたままで、その先にのびる小さな手のひらには擦り傷があった。


 こちらを見上げたまま声を出すでもなく、手を伸ばすでもなく、涙の道を増やし続ける丸い柔らかな頬に心臓が張り裂けそうになって、たまらず圭太を抱きしめた。


 家に遊びに行けばいつもパワフルな遊びを仕掛けてくる。母親に怒られて大声をあげて泣く。気に入らないことがあると癇癪を起すが、すぐに機嫌を直してまた「退屈だ」と騒ぐ。そんな、ある種暴君のようだった圭太がこんなにも力のない泣き方をする。しなければならなくなってしまった。


 抱きしめた腕の中で小さな体がびくりと震える。結局圭太は、いつものような力強い泣き声を聞かせてはくれなかった。




 警察の話によれば、親子三人が歩いていたところに、飲酒運転の暴走車が突っ込んだのだそうだ。車と接触する直前に圭太は両親から突き飛ばされ、ランドセルがクッションとなって軽い打撲と擦り傷だけで大きなけがはなかった。父親は大きく跳ねられて頭を打って即死、母親は事故発生時には意識はあったものの、車がその場から逃げて通報が遅れ、病院への搬送中に死亡した。その道に当時人通りはなく、目撃者は現場に設置されていた監視カメラだけだった。耳をつんざくような、子供の「助けて!」と何度も叫ぶ声を聞きつけた通りすがりの人が、救急に連絡してくれたのだという。


 三人は、小学校の入学式の帰り道だった。


 わが子の成長を喜び、きっと今日の夕飯はごちそうだったのだろう。幾度となく話を聞き、都合があれば参加した圭太へのお祝いの光景がありありと思い浮かぶ。そんな幸せな一日が一転、誰よりも不幸な一日に塗り替えられてしまった。


 女性の警察官は、静かな声で淡々と、「緊急連絡先に杉崎さんの電話番号が記載されておりました。誰かご親戚の連絡先などご存知でしょうか。登録がありませんでしたので」と問いかけてきた。


 みのりには家族がいなかった。高校卒業まで児童養護施設で育ち、高校卒業後は就職した。就職先で出会ったのが夫の雅也さんだった。


 高校でみのりは浮いていた。施設から高校に通っていることが周り中に知られていて、誰かが小物を紛失したとき、口には出さないものの皆みのりを疑った。


 私も、理由は異なるものの浮いていた。浮いたもの同士が仕方なく身を寄せ合ってみたら、案外気があったというわけだった。


 雅也さんには、高齢のご両親がいたが、圭太が2歳の時に雅也さんの母親が亡くなった。末期がんだった。それから雅也さんの父親はあっという間に体と脳が弱り、今は介護施設で暮らしている。


 二人とも頼れる親戚などいないも同然だった。その結果、緊急連絡先に血のつながりもない、ただいつも馬鹿な話をしあうだけの私の連絡先が据えられたのだ。


「圭太くんの後見人のお話ですが―」


 警察官が口火を切る。圭太にはもう、頼れる身寄りはいないも同然だった。まだまだ甘えたい盛りだったはずだ。たまに手土産をもって遊びに行くと、父親か母親のどちらかにべったりとくっつきながら、どのケーキを自分が食べるか、にこにこと吟味していたのだ。こんなふうに突然寄り添う先をなくしてしまって、圭太は壊れてしまわないだろうか。それだけが気がかりだった。


 後見人になるには家庭裁判所に申し立てをし、審議や面接などを行って決定されること。後見人が出ない場合には児童養護施設で圭太の身柄を引き取ること。今のところ、後見人の候補は私しかいないであろうこと。女性の警察官はまたも淡々と事実を並べた。小雨のような声が頭の中を撫でていく。非情な現実を突きつけられているのに、不思議といらだちは感じなかった。


 私は児童養護施設で育ったみのりの話を聞いていたから、施設で育つことがそれなりのハンデとなるであろうことは十分に理解していた。精神的にも金銭的にも頼れる当てがない。高校を卒業すればすぐに自活しなければならない。大学進学も運が良ければできるというだけで、実際にはかなり難しいことも、すべて高校時代に進路に悩むみのりから聞いたことだ。


 後見人になるということは、実質親になるということだ。デパートの一角で売り買いされる小動物を飼うのとはわけが違う。心に傷を負った子供の親代わりならなおさら、さらに傷を深めてしまう事態にもなりかねない。圭太を引きとることによってもたらされる圭太への悪影響が絶えず頭に思い浮かぶ。進学にもそれなりのお金が必要だろう。一人の収入でやっていけるのか。他人と暮らすことによる影響は。子供の扱いなどわからない。


 ぐるぐると頭の中を駆け巡るネガティブな想像の中に、ぽつんと小さな後ろ頭が見えた。警察署の廊下のベンチに座る圭太をひとしきり抱きしめた後、「警察のお姉さんと話してくるから、もうちょっと待ってな」と圭太の頬をぬぐいながら言った。圭太は少し間をおいて、力なく体の側面に腕をぶらんとぶら下げたまま、うなだれるようにがっくんと頷いた。その時に見えた後頭部のつむじは、赤ん坊の、まだ髪の毛も生えそろっていない時に見たつむじと同じ右巻きだった。


 窓から差し込んだ燃えるような夕暮れの橙色が、うなだれた圭太の顔に影を作る。頬に落ちたまつ毛の影の形は、雅也さんに似ていた。鼻と唇の形はみのりだ。脳裏によみがえったつい15分前の光景に、急に胸が苦しくなり、涙をこらえる。


「後見人の申し立ての、手続きはどのようにすれば…」


 私がその一文をやっと口に出したとき、それまでまるでロボットのようだった女性警官がほっと息を吐いたような気がした。




 圭太を引き取って一週間、圭太はぼうっとしていた。突然起こった残酷な現実に心が壊れてしまったのではないかといろいろと調べてみたところ、子供が「死」について理解するのは大体10歳以上なのだと知った。小学校に入学したての圭太にとって、目の前で起こったことや両親の死を受け入れたり、結びつけることは難しいのだろうと結論付けた。10日を過ぎたころに、「そまちゃん、お父さんとお母さんって死んだあとどこにいったの?」と質問してきたので、できるだけ幸せな天国を描いた絵本を購入して読み聞かせた。


 1か月が過ぎると夜泣きが始まった。「もう会えない」と気づいてしまった圭太が夜な夜な「お父さんとお母さんに会いたい」と泣くようになった。小学校に通い始めていたが、このころから朝起きられなくなって遅刻が増えた。私も仕事の効率がぐんとさがって納期に遅れることがあった。圭太が泣くたびに、唯一無二の親友を思って私も泣いた。


 圭太が小学3年生になったある日、図書室で借りた料理の本を見ながら、オムライスを作ってくれた。めちゃくちゃ殻が入っていたけど、味は悪くなかった。その日から土曜の夜は圭太が料理当番になった。




「今では週に三回はぼくが料理当番です。そまちゃんは家でもずっと仕事をしているので、助かると言ってくれます。とてもうれしいです」




 あるとき圭太が学校から帰ってきて、深刻な顔でこう告げてきたことがあった。


 「そまちゃん、結婚するなら、俺のこと気にせずしていいからね」


 心当たりもなく、一から十まで説明させると、クライアントと打ち合わせをして二人で歩いているところを、圭太の同級生が見かけ、「彼氏じゃないの?」と言われたのだそうだ。小学生の女の子の想像力はすさまじいもので、「子供がいちゃあ彼氏も結婚渋るよね」だの、「そまさんも逃がしたくないんじゃない?イケメンだったし」と昼休みに口々に言われたのだそうだ。


 たった一場面目撃されただけでそこまで尾ひれがつくのかと内心感動したが、決して私と目を合わせようとせず床をじっと見つめる圭太の握りこぶしを見ると、とてもからかう気にはなれなかった。

「れいかちゃんが見たのは私の仕事のお客さんだよ。彼氏じゃない。大体、私ずっと家にいるじゃん。彼氏作ってデートしてる感じなんかなかったでしょ」


「じゃあ、俺と一緒にいるせいで、彼氏できないんじゃないの」


たまらず大きくため息をついた。多少ネガティブなところは、私の思考をそのまま受け継がせてしまったかもしれない。環境って大事だ。


「あのねえ、」




「『わたしは圭太を引き取る5年前から彼氏いないから。大体、み力的な人は子どもがいたって関係ないの。わかった?』と言われて、ぼくは今後一生彼氏の話をするのはやめようと思いました。」


教室内にクスクスと笑い声が飽和する。「僕のお母さん」がテーマの作文にきっちりオチを付けるところは、雅也さんそっくりだ。しかしそのエピソードは授業参観では持ち出してほしくなかった。


 恥ずかしさを隠したくて目元を片手で覆う。感動的な作文になるかと思いきやまさかの仕打ちだ。担任の先生の「素敵なエピソードでした!」という空虚な感想に力なく笑みを浮かべる。別にいいけど、この後保護者懇談会があるんだぜ。せめて子供を、彼氏ができない言い訳にしない人だと、いい印象になってくれていればいいなと願う。


 中学に上がると、圭太にも例にもれず反抗期が訪れた。口数が急に少なくなり、些細なことでイライラしているように見える。一度あまりにもな態度に耐えかねて苦言を呈したところ、「親でもないくせに知ったような口をきくな!」と逆切れされた。「知らないかもしれないから一応言っておくと、もう実の両親より私と過ごした時間のほうが長い」と告げると「そういうことじゃない!」とさらに激高させてしまった。


 高校生になると進路に悩むようになった。半ば絶望したような面持ちで進路調査票を見つめる横顔は、あの日誰もいない教室で見たみのりそっくりだった。「お金の心配ならいらないから」と言っても「でも」「だって」を繰り返す。血のつながりがあれば、こんな遠慮をさせることはなかったのだろうか。


「いいから、大学四年間、遊びながら勉強しといで。留年したらちょっと困るけど。」


そういって、ずいぶん長いこと言い聞かせた結果、進路希望調査票の第一希望から第三希望まで、家から通える範囲の国公立の四年生大学の名前で埋まった。


進学費用は、もし圭太が大学進学と同時に一人暮らしが必要になってもいいように中学生ごろから副業も始めて稼いだ。そのせいでコミュニケーションがおろそかになってしまったせいか、圭太の反抗期はかなり長かった。私はそのことにうすうす気づきながらも夜遅くまでノートPCにかじりつき、一つでも多くの案件をこなそうと躍起になっていた。


 進学の話になるたび、圭太の暗い表情があの日のみのりと重なる。みのりには臨床心理士という夢があったのに、断念せざるを得ないと笑っていた。しょうがないと笑うみのりといっしょに笑ってあげることは私にはできなかった。




「蘇馬さんは、俺が大学に入学するときのために、朝から晩まで寝る間も惜しんで働いてくれて、でも俺には何も言いませんでしたね。結局俺が大学院まで行くことになっても、『おーけー、まかせな』とだけ言って、俺には家にお金を入れさせてもくれませんでした。血はつながってないけど、蘇馬さんは俺にとっては二人目のお母さんです。俺の未来を守ってくれた、最高のお母さんです。俺は夢を叶えました」


 目の前でスポットライトを浴びた圭太の目から涙がこぼれる。あの日のような頬の丸みは見る影もない。目の前にいるのはうなだれる小さな小学生ではなく、独り立ちした精悍な青年だ。隣の新婦は微笑んでいる。ふと目が合うと、新婦の目からも涙がこぼれた。たまらず私は上を向く。せっかくのお祝いでアイラインがにじんでは格好がつかないし、それにこの黒留袖はレンタルなのだ。涙で汚すわけにもいかない。


「俺はあの日、何が自分の身に起こったのかわからなくて、父も母も傷だらけで動かなくて、途方に暮れていた時、蘇馬さんが助けに来てくれたと思ったよ。友達の子どもを引き取って育て上げるなんて普通出来ないよ。感謝してもしきれません」


 ついにこらえきれなくなって、圭太の顔がぐにゃりとゆがむ。柔らかな頬はなくなってしまったけど、表情はあの夕焼けの中で見た小さな圭太のままだ。マイクを通さない嗚咽が私の鼓膜を揺さぶる。手紙を持つ圭太の手が、嗚咽に合わせて震えている。もうアイラインなどどうでもいい。ハンカチで目元を押すようにぬぐった。


 二人は見ているだろうか。本当ならここに立つのはみのりだった。雅也さんは声も抑えられず泣いていたんじゃないだろうか。私はきっと、それを親族席に座って笑って眺めていたんだろうと思う。


 いつも圭太の顔に残る二人の面影に救われていた。圭太がふと見せる、雅也さんの快活な笑顔に、みのりの諦めたような微笑みに、正しい道はこっちだと、二人に言われているようだった。


「これからきっと恩返しをします。蘇馬さん、これからもずっと俺のお母さんでいてね」


当り前よ、というと、圭太はほとんど笑い泣きのような表情で手紙を封筒にしまい、私に差し出す。受け取ると今度は新婦が、こちらもきれいなパールの入ったファンデーションにいくつも涙の道を作りながら花束を差し出してくる。化粧直し待ったなしの顔に少し笑ってしまったけれど、こちらの顔もおそらく同じようなものかと恭しく花束を受け取る。


 圭太を引き取ってから怒涛のような日々だった。50もとうに越え、人生の折り返しも10年以上前に過ぎ去っている。親友亡き今、圭太を一人前に育てなくてはと、ただそれだけを目標に頑張ってきた。これからはゆっくりと、趣味でも探しながらのんびり生きよう。結婚式が終わってしばらくたち、今後の人生計画を考え始めたころ、圭太から電話があった。



 来年の春、私はばあばになるらしい。


 当分楽しい生活は続きそうだ。

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