先生、家から出られないんですか
誤解を生まないように言っておくと,病気の類ではない。したがって,寝込んでいるわけでもなければ,発作が起こるわけでもない。ただ,秋から冬に変わろうとする,いつもより少し重めのコートを羽織ってドアノブに手をかけた瞬間,あぁ,ここから出られないな,という不思議な確信があっただけ。学校に連絡を取り,状況を淡々と説明すると,あれよあれよという間に教頭が現れ,私を精神科・心療内科のある病院へ押し込んだ。それだけのこと。
うん,段々と思い出してきた。コートと共に脱いだスーツの代わりに黒のパーカーを羽織り,グレーのスウェットを穿いて,教頭の車に乗せられて……到着してすぐに問診票を書いたか。症状はなんですか,どのような治療をお望みですか,などといったことが書かれていたように思うが,定かではない。受診者がリラックスできるようになのか,アロマミストがたかれていたが,そのこびり付くような匂いは好きになれなかった。待合室の椅子もほとんどが個室のように壁際で1席ずつ区切られていて,誰かと話して待ったり,付き添いがいるような人たちが4人掛けソファに座っている,そんな静かで不気味な空間だった。待合室では,ほとんどの人が寝ているか,スマホをいじっている。寝ている人の中には,床に直接寝ている人もいたが,通勤してきた看護師は何事もないようにその人を跨いで受付の机に向かっていった。一人だけ,
「大丈夫?寝てないの?」
と話しかけたようだったが,寝ている方はピクリとも動かなかったので,ため息を吐いて診察室の準備へ向かっていった。周りで座って知らんぷりを決め込んでいた人たちも,やはり気になっていたのだろう,そのやり取りの時だけは面倒くさそうに顔を床に向けていた。
こうして文章に起こすと淡々としているが,当日,実際の私はもっと慌てていたのだろうと思う。あの多忙な教頭が一瞬で飛んできたことを加味しても,おそらく職場へ連絡した私の声色は,通常の様子ではなかったことが伺える。だが,事実としてはこのように実に単純で,頭が全く回っていなかった訳ではなかった。ただ,回していた頭は,体を思った通りに動かしてくれなかった。それだけの話なのだ。
「5番の方,事前診察を行います」
上品なような,気取ったような,高い声で呼び出しがかかる。診察室には,声から想像した通りの,50は超えているであろう,些か雰囲気に合わないほど鮮やかな紅を引いた看護師が待っていた。
「おはようございます,どうされました?」
話しながら検温・血圧測定の準備をする看護師に,私は何を言っていいのか分からなかった。
「家を出ようと思ったら,出られなくなりまして」
「まぁ,それでどうしました?」
「出られなくなったことを職場に言ったら,上司にここに送られました」
「あらまぁ,それはそれは」
漫画やアニメで見る,お金持ちの奥様のような話し方だなぁ,と思いながら,訥々と返事をする。
「何かそうなった心当たりはおあり?」
「どうなんでしょう,よく分かりません」
急にボールが来たので,という関係ないフレーズが頭をかすめる。
「そうだったの,辛かったわね」
看護師はカルテに何やらメモをしながら,しかしこちらを見てそう言った。
辛かった。私は辛かったのだろうか。急に胸が痛くなる。そうじゃない。そうじゃないんだ。
『可哀想にねぇ』
小学生の頃,入院することになったときの看護師の一言を思い出した。ベテランらしく,親切な人だな,と思っていた。そしてまた,この言葉が本心なんだろうなぁ,と分かってしまった。僕は可哀想なんだろうか。病気になってしまった人は可哀想なのか。今治療しているこの投薬などは,検査は,可哀想なのか。もしこの病気が治ったら,僕は可哀想じゃなくなるのか。僕がどう感じているかを,この人が決めているのか。
「榎木さん?榎木さんったら」
顔を上げると,丸眼鏡の看護師がこちらをのぞき込んでいる。自分では少し考え込んでいただけだと思ったが,どうやらある程度の時間が経っていたようだ。
「事前診察は終わりましたので,先生に呼ばれるまで待ってて下さいね」
「あぁ,はい」
特に気に留めた様子もなく,看護師は次の患者を呼ぶ。
「6番の方,事前診察を行います」
そっと頭を下げ,診察室を出る。アロマミストの匂いに内側から自分を塗り替えられるような不快感を感じた。