ひとやらい
ひとやらい
「くそ、またか!」
よく分からない涙をボロボロ流しながらヒロシはもう1時間もアイツと鬼ごっこをしていた。
ヒロシの趣味は釣りで特に今熱中しているのが渓流釣りであった。渓流釣りの魅力にはまったヒロシは最上級の渓流釣りを楽しむため、社会人になってから自動車教習所に通いつめて中型バイクの免許を取得し、新車のオフロードバイクを購入した。
おかげでヒロシは土曜日ともなると夜更け前から余り人の入らない山の奥深くの渓流に出かけていってヤマメやイワナを釣ることが毎週のライフワークになっていた。
「また、先回りかよ!」
1時間前、ヒロシは絶好調の釣果にホクホクしながら渓流を登っていた。ヤマメが面白い様に釣れる。良い型のヤマメをもう九匹は上げていたのだ。楽しくて仕方がないヒロシはもう少し上流に行きたいと思ったのだが、既に腕時計を見ると午後3時を過ぎようとしており、暗くなって山中で道に迷い帰れなくなるリスクを恐れた。渓流の闇は足が早い。月が出ていない夜の山は人間の目では何も捉えることができなくなる漆黒の闇となる。ヒロシはあと1匹釣り足して釣果10匹にして帰ろうと決心した。
その時、自分の位置から下流側の方で強い視線と荒い息づかいを感じた。
熊だ。
驚きと恐怖のあまりヒロシの髪の毛はスポーツ観戦のときのウエーブのように頭の先の方に向かって逆立った。
遠目で見ても自分と同じ大きさか、立ち上がれば少し大きいであろうツキノワグマがヒロシをジッと見ている。
マズイ!
(ドクドクドク)心臓が早打ちを始める。
ヒロシは暫し硬直した後、ゆっくり大きく息を吸い込み、落ち着け落ち着けと強く念じながら、熊から目を逸らさずに思考した。
熊とはまだ距離がある。熊は渓流の開けた左側にいる、熊を刺激しないで川の右側の高い方から回ってもう一つの獣道を降りていけば、オフロードバイクの所まで降りていける。
(ヨシッ!)
と、ヒロシは静かに決意し、熊から目を放さずに川を渡り、川の右側に回り込んでクマザサの藪の生茂る獣道を降りて行く。
ヒロシを見ていた熊はヒロシに興味がなくなったのだろうか、ヒロシから視線を外して左側の藪にノロノロと入っていった。
イェース!イェース!
ヒロシはその光景に声を上げずに歓喜した。ヒロシは転んでケガをせぬ様に細心の注意を払いながらサクサクと最速で山を降りて行く。
バイクまであともう少しだぞ。
先ほどの場所からバイクまで半分近く山を降りたところでヒロシはギョッとした。自分の藪を掻き分ける音とは明らかに違う別の歩行音と呼吸音が前方から聴こえて来たのだ。
ガサガサ
10メートル先で熊がヌッと藪から顔を出した。
「くそ、またか!」
ヒロシは雷に打たれたかの様に全身の毛という毛が逆立った。
(ドクドクドクドク)脈が早くなるのが分かった。
熊は藪から出てくるとヒロシの行く手を遮る様に獣道に陣取りヒロシの動向を伺っている。ヒロシが大声を上げて逃げようものなら、飛びかかろうかと待っている様だ。
どうする?
(ドクドクドクドク)
ヒロシは恐怖に混乱した思考を何とか押さえ込もうと、熊を凝視したまま大きく何度か息を吸った。
もう一度引き返そう。
引き返せば別の下り道もあるんだ。
ヒロシは熊を刺激しないよう、背中を見せぬよう、熊を見ながら後ろ歩きで距離を取っていく。
ある程度熊と距離を取れたところで、山頂に向きなおって足早に歩き始めた。
チクショウメ!
振り出しに戻るだ!
もう時計は午後4時を過ぎていた。
ヒロシは何とか最初の熊に出会った辺りまで戻って来ると震える手でリュックからポカリスエットを出して喉に流し込んだ。
ゴホゴホ、緊張から少し器官に流し込んでむせた。むせる中、涙目で渓流をみると右手の大岩の後ろに黒い大きな塊があるのを認識した。
奴だ。
熊はヒロシよりも早く先回りをしたのだ。
「また、先回りかよ!」
ヒロシは股間が自分の小便で生暖かくなるのを感じた。
熊はヒロシを見つめたまま数秒(数時間もあったのでは?)止まった後、ゆっくりヒロシの方に歩を進め始めた。
ヒロシとの距離が10メートルも無くなったところで、ヒロシは大きく息を吸ってあらん限りの大声で「うおおおおおおおおおお」と叫んだ。
熊は驚いて固まって歩を止めた。
しめた!
ヒロシは肩から掛けたヤマメが9匹入ったクーラーボックスをその場に放って、ゆっくり後ずさった。
熊の興味はクーラーボックスに移ったのだろうか、熊はクーラーボックスをジッと見ている。
いまだ!
ヒロシはくるっと身体を反転させると、先程よりも早い速度で、もう一度今登ってきた山道を下り始めた。
後方でバキバキとクーラーボックスが壊れる音がしている。
ヨシッ!ヨシッ!
お前に俺の夕食をやるよ!
腹一杯食えよ!
チクショウ!チクショウ!
ヒロシはさきほど熊に待ち伏せされた近くまで無事降りて来ることが出来ると、更に歩を早めてその場所を過ぎた。
バイクまでもうすぐだ!
その時だった。
ガサガサ、ガサガサ、ガサガサ
ヒロシのすぐ左側から藪をかき分けて近づいてくる音がする。
ヒロシは恐怖のあまり立ちすくみカラカラに乾いた口で無い唾をゴクリと飲んだ。
自分のすぐ左側に何かいる。
(ドキドキドキドキドキドキ)
心臓が早鐘のように鳴り響いた。
自分の心臓の音を自分の耳で聞くなんて10年前に好きな女の子に告白した以来だと、どうでも良い事がボヤーッと頭に思い浮かんだ。
その時それと同時に“ゴフオオオオオオオオオオ!”という恐ろしい唸り声がヒロシの左手から聴こえ、次いで黒い鉤爪がヒロシの脇腹めがけて飛んできた。
ヒロシは唸り声に驚いた事で瞬間的に身体を捻ったため、黒い鉤爪は直接脇腹には届かず、背負ったリュックのポケットを掠めた。
「ぎゃあああああああぁ!かあちゃあああああああん!」
ヒロシは人生で初めてのセリフの悲鳴を上げ、その場から駆け足で逃げた。汗と小便の臭い、自分の心臓の音、転んだら死ぬ、捕まっても死ぬ。
死ぬ?
死ぬのか?
死にたく無い。
死にたく無い。
(ハアハアハアハアハアハア)
どの位の時間が過ぎたのだろうか。
ヒロシは山道から自分のオフロードバイクの前にヨロヨロと出て来た。
何時間にも感じたヒロシであったが腕時計を見ると午後5時になったばかりだった。
山に闇がすぐそこまで近づいていた。
ハアーハアー逃げられた。
ハアーハアー助かった。
ヒロシは震える全身でバイクに跨り、リュックをガソリンタンクの上に下ろしてリュックのポケットに入れているバイクの鍵をブルブルしている両手で探した。
えっ!
無い!
無いぞ!
あっ!
リュックのポケットの下部があの黒い鉤爪に破られていた。
ヒロシはバイクの鍵を今降りてきた山中の道のどこかに落としてきたことを悟った。
ウグッウグッヒッウウウウ...
ヒロシはポロポロ涙を流しながら「もう二度と釣りなんかしねえよ」と嗚咽交じりに呟いた。
赤いような青いような闇がヒロシの足下を暗く包み込み始めていた。
山の中腹で何かがヒロシを笑うように啼いていた。
了
ホラー第二作のアップデート版バージョン2.0