七夕の夜、僕は死んだ彼女に殺される。
数年前、彼女は死んだ。
若くして重い病を患った彼女は、日に日に衰弱していって、そして死んだ。
彼女は、僕の彼女だった。つまり、こんな僕と交際していた女性ということで。
昔も今も、そして未来においても、きっと僕の彼女は、彼女だけなのだ。と思う。
それは、あまりに僕がモテないというだけでなく、僕自身にその気がないということだ。
僕は、彼女以外の誰とも付き合いたくない。
彼女を忘れたくないから。
忘れてしまうのが怖いから。
彼女の肌は、死ぬ前から死人のように冷たく白く。長い髪は柳のように垂れ、夜のように黒かった。
今にも途絶えそうな細い声を震わせながら、ギリギリの死の淵を、彼女は生きていた。
僕は、そんな彼女を愛していた。
勿論今だって、愛している。
七月五日。
七月五日だ。彼女が死んだのは。
白い病室の白いベッド。
そこに横たわる白。
繋いだ手。
無音の部屋に、震える声が響いた。
「七夕の日に、星が見たい……」
僕は、涙を流しながら頷いて、彼女は、小さく微笑んだ。
それは当然、最後の約束になって。
そして当然、叶うことはなかった。
約束は果たすためにある。
その言葉には僕も賛成だが、この世界には叶えられない約束も、叶えられないと知りながら交わすしかない約束もあるのだと、僕は知った。
知ってしまったのだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
今日は、七月七日。
七夕の日だ。
つまりは、彼女と交わした約束の日。
叶えられなかった約束の日。
もう彼女は隣にいないけど、僕は毎年、一人で小高い山に登って星を見る。
他に人はいない。
環境が良くないからだと思う。
道なんてものはあってないような獣道しかないし、虫がうじゃうじゃ湧いている。蠢いている。
というか虫どころか、猪や熊すら軽く出てきそうな場所だ。まだ出会ったことはないけれど。
そして何より、暑い。
夜なのに、気温が下がる気配はない。ムシムシする熱さだ。
まあ、もう何回目って話だ。
さすがに慣れた。
ここで一応言っておくが、彼女をここに連れてくるつもりはなかった。いや、ここでなくても、彼女はどこに行くこともできなかった。
きっと、彼女があと二日生きていたら、僕たちは病室の窓から空を見上げただろう。
こことは違う、星なんて見えない空を。
山の頂上。
地面に直接胡座をかいて、僕は持ってきた望遠鏡を覗き込む。
今日の空は晴れている。星が綺麗だ。
望遠鏡なんて使わなくてもいいとは思いながら。
でもせっかく持ってきたから……。
どうせ綺麗な星空が見えるだけだけど。
僕は、それを見れるだけ幸せなのだから。
「……あれ?」
何も、見えない。
真っ暗だ。
望遠鏡を使う前にはあんなに、星が瞬いていたのに。
いきなり星がなくなった?
そんなわけはないだろう。
きっと、蓋をしたまま使ってしまったとか、そんな間抜けなミスだ。
僕は、望遠鏡から目を離した。
だけど、あったのは蓋じゃなかった。
真っ白な、手だった。
「久しぶりだね」
手だけじゃない。脚があって、胴があって、顔があった。そして、ちゃんと喋っていた。僕に向かって喋っている。
辺りは暗いのに、はっきりと見える。
蛍のように、淡い光を放っている。
「あなたのそんな顔は初めて見た気がするよ」
「え……」
「かわいいなぁ」
悪戯っぽく、それは笑った。
「……誰?」
僕は、答えを知っているのにそんなことを言った。
そうだ。僕は、この女性が、誰なのかが分かる。見間違う筈がない。
「私は私だよ。分かるでしょう?」
「……分かる」
目の前にいるのは、彼女だった。死んでしまった、僕の彼女だった。
こういうときは、双子の存在を疑うのが定石だが、そんな必要はない。
僕は彼女に双子の姉がいても、妹がいても、一目で判別がつく自信があるからだ。百つ子だとしても見分けられるだろう。
どんなに見た目を似せたところで、彼女以外は彼女ではないから。
「残念。私は彼女の双子の妹だよ」
「え」
「嘘だけど」
「……」
嘘なのか……。よかった。
「姉でもないからね」
「そんな心配はしてないよ」
彼女は、そっかぁ、と笑いながら、僕の横に座った。
体育座り。
真っ白なワンピースが揺れる。
「パンツ覗かないで」
「覗いてないよ」
「ほんとかなぁ」
ちょっとしか見てない。
彼女は、そんな僕の返答に安心したのか、明るく笑いながら言う。
「やっぱり少女にはワンピースが似合うよね」
「少女って年齢的にキツくない?」
「キツくないわい!」
なんだか、久しぶりに会った彼女は、少し幼くなっている気がする。
十歳若返ったかのようだ。
いや、元気なときはこんな感じだったか。
どうしても、病気で苦しんでいて、気力を無くしていた印象が強かった。
本当に、懐かしい。
「あ、泣くの? 泣くの?」
「……うん」
「……じゃあ、私も一緒に泣いてあげるね」
星を見るどころじゃなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「もっと驚いてもよかったんじゃない?」
「はぁ」
「幽霊になってさ、一生懸命働いて、ようやく休みを取って会いに来たっていうのに、それはどうかと思うよ」
「幽霊になっても働いてるの?」
「もちろんだよ。人間死ぬまで労働、死んでも労働。私は生きてる間にあんまり働けなかったから余計にね」
「ブラックだなぁ……」
「ほんとほんと。しかも上司が最悪でさぁ……って話を逸らさないで」
「今のは僕が悪いのか?」
「あなたが悪いの。……あれ、どこまで話したんだっけ。ワールドカップが盛り上がってる話はしたっけ?」
「やけにタイムリーだな」
しかも、そんな話は少しもしていなかった。
「私はもう、あれ、あのスポーツが好きになっちゃった」
「サッカー」
「そうそれ」
サッカーという単語が思い出せない程のにわかファンらしい。残念過ぎる。
「で、幽霊になってまで来たのになんで驚かないの?」
「いきなり話題が戻ったな」
これも昔からだけど。
「えーと、驚いたは驚いたよ。そりゃあ。びっくりしたよ」
「でも」
「でも、その気持ちより嬉しいっていう気持ちが勝ってたし、それに」
「それに?」
「ずっと、また会えることを考えてたっていうか、妄想してたから、ついに幻覚見ちゃったのかなって……」
「……ありがとう」
僕の顔を覗き込むようにして、彼女は言う。
「でも、幻覚じゃないよ。幽霊だよ」
真剣な顔だった。
僕は、その言葉を確かめるように、彼女の頬に触れようとする。
けれど
「触れない」
何の感触もなかった。まるで、立体映像が映し出されているみたいだ。
「まあね。見えるだけなの」
彼女の細い眉毛が歪む。
悲しそうな表情。
きっと僕も、同じような表情をしているに違いない。
「でもね、いいことを教えてあげようと思って、私はここに来たんだよ!」
「いいこと?」
そう言われるとなんだか、悪い予感しかしないけど。
「そう、いいこと。あなたと私が一緒にいられる方法。私とあなたが、また手を繋げる方法がわかったの」
「……それはつまり、君が生き返る方法なのか?」
それができるなら、僕はどんなことだってするけれど。
「ううん、それはできない」
「……そっか」
そうだよな。そんなに、甘くない。
でも……。
「そんなに悲しまないで。それよりもいい方法があるんだから」
足元に寄ってきた虫を踏み潰した僕に、彼女は優しく語りかけた。
「あなたが死ねばね、あっちでまた一緒に暮らせるらしいよ」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
汗が吹き出る。
ぐるぐると、視界が回っているような感覚。吐き気。
「私ね、知ってるんだよ。あなたが何回も何回も死のうとして、死ねなかったこと。毎年この山に登って、首を吊ろうとしたり、飛び降りようとしたり。でも、一度も最後までやらなかった」
思い出す。
恐怖。
死。
僕は、一度も。
だから、無様に生きている。
「自殺しようとしたのは、生きているのが辛いからでしょ? それは私を愛している証拠でしょ? だから私ね、凄く嬉しいの」
僕は、彼女を愛している。
「それでも死ねなかったのは、死んでも何も起こらないと思ったから。死んでも私には会えないと思ったから。そうだよね。そんなネガティブな気持ちじゃ死ねないよね。でも大丈夫。死んだら私と一緒に楽しく暮らせるから。死んだら楽しいから。だから、お願い。死んで?」
……死んだら、また彼女と暮らせる。
死んだら、元気になった彼女と……。
「…………でも」
「でも?」
「僕は、怖いんだ。嫌なんだ。死にたくないんだ。死のうとした度に死んだ君を思い出して、その度に生きていることの素晴らしさを」
「素晴らしくなんてないよ」
「素晴らしく」
「ないよ。死んだらずっと楽だもん。苦しみなんて感じない。疲れなんて感じない。私の病気だって治ったもん。生きてたって辛いだけ」
「……」
「あなたは死んだことがないから分からないんだよ。ねぇ、考えてみて。最初から死体として生まれたら、きっと私たちは生を欲しがったりしなかった。そう思わない? 生きている意味なんて、ないんだよ」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
僕は、満天の星空の下で、立っている。
そんな星空は一切見ないで、遥か下を見下ろしていた。
深い、深い闇を。
「私ね、満天の星空って、満点の星空って書くんだと思ってたんだよね。まあ、どっちだって同じだと思うんだけどさ」
ツッコミをする余裕はなかった。
「さあ、後は飛び降りるだけだよ」
足が、自分の足じゃないみたいに。
細かく震えている。
あともう一歩前に踏み出すだけで、僕は死ぬ。
「…………」
「私は押せないからね。自分の力で飛んでね。大丈夫、痛いのは一瞬だよ」
「…………」
「じゃ、先に行って待ってるから」
「ぁ」
彼女は、僕に手を振りながら、背面から飛び降りた。
笑っていた。
そして、見えなくなった。
きっと、あっちの世界とやらに帰ったのだろう。
「…………」
彼女は、僕を信頼しているから先に行ってしまったのだろうか。
それとも、さっきまでのは、本当に全部幻だったのか。
「…………」
僕は、そんなことや、その他色々、会社とか家族とか友人とかを思い出して。
最後に、彼女の笑顔を思い出して。
結局、飛び降りなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
翌朝、僕は普段通りに目覚めた。
また、いつもと同じように会社に向かう。
駅までは徒歩だ。
昨日は、いつもより早く帰った。
逃げるように。
昨日のことを、誰かに話すことはないだろう。
彼女には申し訳ないけれど、僕はもう少しだけ生きていたい。生きなくちゃ駄目だと思ったんだ。
もう少しだけ、待ってもらおう。
「……よし、今日も頑張るぞ」
頬を叩いて、再び歩き出した。
すると。
不自然なぐらいの、嘘みたいな偶然が重なって。
僕は、空から落ちてきた鉄骨に、押し潰されて死んだ。