対峙の時
「予想通り接触してきたね」
予備教室に入り、お弁当を広げながらそう言う真遊はどこか悲しそうであった。それも仕方がない。親友だった小鳥が梨理香の手先になって自分に接触してきたのだから。そう、龍十は小鳥と一芝居打ったことは真遊に伏せていた。小鳥に対しても真遊に真相を話すなと伝えている。お互いに芝居だと、作戦だと分かって決行するよりは心理的にリアルになるからというのがその理由だった。しかし小鳥にはそれを伝えている。だます小鳥が全てを知って罪悪感を持つのと、全てを知って安心して裏切られる真遊とではその心理的なダメージ表現が異なってくるからだ。あくまで小鳥に失望する真遊という図式だけはそのままにしたいというのが龍十の考えだった。だから龍十は小鳥が復縁を迫り、その後に絶交宣言をしてくると伝えているのみでその真意は伏せている。沈みがちの真遊を見て良心が痛まないのか、龍十は全て作戦通りだと言うだけで何もフォローしなかった。ただこの作戦が上手く行けば一気に情勢が動くとしか説明していない。それからは休み時間を小鳥と過ごす真遊だが、昼休みと放課後は龍十と行動した。そうすることで犯人に対する牽制は続けているのだ。メールや電話のやり取りも復活する中にあっても、これが作戦だとお互いには言えない。ぎこちなさがリアルさを誘い、2人は共に上っ面だけの親友関係を続けて一週間が経過した。梨理香からゴーサインも出ていよいよ今日、小鳥が真遊に絶縁宣言をするのだ。そして小鳥は梨理香の指示の元、龍十の計画通りの言葉を言う。そしてそれを受けて真遊もまた龍十の指示通りに反撃するのだ。両者に緊張が高鳴る中、昼休みになってズカズカと小鳥がやってくる。来たかと思う真遊をよそに、龍十は財布を持って立ち上がりつつ2人を見ることは無かった。見ているのは周囲の様子のみ。
「真遊・・・」
「ん?どうしたの?」
そう言った瞬間、小鳥は真遊が手に持っていた2つの弁当箱を払うようにして床にたたきつけた。驚く真遊、そして周囲の男子。騒ぎを見つつ、龍十はクスクス笑う梨理香たちの方へと目を向けた。
「な、なにするのっ!」
来るとわかっていても、これは予想外だ。本気で怒った真遊に気後れせず、小鳥はありったけの勇気を振り絞って真遊を小馬鹿にした表情を浮かべて腕組みをした。
「あんたさぁ、私が本気で親友に戻ったと思ったわけぇ?」
「え?」
「バッカじゃないの?」
そう言い、梨理香の指示ではなく龍十の指示通り心を鬼にして落ちた弁当箱を蹴り飛ばす。自分だけではなく龍十の弁当箱を蹴った小鳥に本気で怒る真遊の表情を見て胸が痛むものの、それは一切顔には出さなかった。
「何するのっ!」
「はぁ?イカれたビッチにゃこれぐらいされて当然じゃん」
「小鳥・・・」
「浮かれたあんたを見るのは最高に面白かったよ・・・・もう飽きたから、死んで」
そう言い、机を蹴って鼻で笑いながら梨理香たちの元へと戻る。大笑いする梨理香たち、さすがにやりすぎだと思う男子だったが、助け舟を出す者はいない。泣きそうになりつつ弁当箱を拾おうとした真遊だったが、先にそうしていた龍十を見てポロポロと涙を流した。
「こっちから絶交だよっ!友達なんかいらない!私には龍ちゃんがいるから!無視でも何でもしてればいい!怖くないよ!龍ちゃんがいるから!」
そう言い、泣きじゃくる真遊の肩をそっと抱き、龍十が教室を出て行く。冷やかしながらゲラゲラと笑う梨理香たちを一瞥しつつ、目で小鳥によくやったと告げた。おそらく廊下にいた野次馬の中に犯人がいただろう。そしてそいつは知ったはずだ。真遊がどれだけ龍十に依存しているか、真遊を完全に孤立させて精神的に追いつめるためにはもう自分を排除するしかないということを。龍十は泣きじゃくる真遊を抱えるようにして予備教室へと入った。無理矢理椅子に座らせ、それから真遊の肩に手をおいた。
「よくやった」
「・・・・・・・・ううん」
「あえて言ってなかったが、多摩のあれは俺の指示だ」
その言葉に目を見開いて龍十を見やる。今、何と言ったのか。
「多摩には前もってそうしろと言ってあった。渋谷の提案に乗っかり、お前と復縁したあとで絶交することを見越して。だからあいつも辛かっただろう。けれど、これで犯人自ら前に出てくるだろう」
「どういうこと?なんで?」
「犯人の先を読んでの指示だ」
「じゃぁ、小鳥は?小鳥だってこんな辛い目に?」
「親友に戻るためだ。あいつはあいつで悩んでいた。だから俺の案に乗っかったんだ」
その瞬間、パンという音が教室に響いた。龍十の左頬を打つ音が。そう、真遊は龍十を平手打ちしていた。自分に何の相談もなく小鳥を巻き込んだことを怒ったのだ。裏切られた気がしていた。犯人の裏をかくためとはいえ、何故小鳥を巻き込んだのか。彼女の立場も理解できる。だからこそそっとしておいたのに。
「全部、知ってたんだ?」
「ああ。俺たちのことも、全部話した」
「恋人なのに・・・なんで勝手に!」
「恋人?偽装だろ?」
「同じじゃないの!」
「違う」
氷の声に体をビクつかせた。もうどの涙かわからないものが真遊の頬を伝わった。信じていたはずだった。何でも話し合ってここまで来たはずだった。なのに裏で小鳥に指示し、自分には何も知らせなかった。だから腹が立つ。好きだったから尚更だ。
「俺はお前を救うと言ったが、馴れ合うつもりはない」
「でも恋人同士だって・・・」
「偽りのな」
それは理解していたが、真遊の中で何かが壊れる音がした。なんでこんな男を好きになったのだろう、そう思う。自分勝手すぎると思う。所詮はその程度の関係だったのかと。
「じゃぁ、さっさと解決して」
「するさ・・・年内にはな」
「さすが自信家ね」
嫌味たっぷりな言い方だったが、龍十は涼しい顔をしていた。
「落とされて蹴られた弁当だけど、どうぞ」
素っ気無くそう言い、真遊は自分の弁当を開けた。幸いぎっしり詰めていたためにほぼ原形は留めている。龍十は弁当を受け取るといつものように真遊の前に座った。真遊が自分に恋をしていることは理解していた。だからこその裏工作でもあったのだが。もう他人と馴れ合うのもこれが解決するまでと決めていた。自分を好きな真遊のことだ、解決すれば告白をし、ダメでも友達でいようとするだろう。自分に関わる者が周囲からの妄言で傷つくところを見たくない。そんな優しさから来る悪役を買って出ていたのだ。もうすぐ解決できるからこそ、今のうちに真遊の中から自分への気持ちを消してしまいたかったのだ。会話もなく昼食を終え、先に終えていた龍十への弁当箱をひったくって教室を出た真遊の方を見ず、龍十は冷たい目を中庭の方へと向けるのだった。
*
放課後もすぐに帰宅した真遊だったが、頭の中はぐしゃぐしゃだった。小鳥の真意は知れたものの、やはり龍十は許せない。信頼はもうなく、ただ惰性で恋人を演じればいい、そんな風に思った矢先に電話が鳴る。それは小鳥からのものであり、真遊は動揺しつつ電話を手に取った。おそらく、もう解決するまでは電話は無いと思っていたからだ。迷いに迷った挙句、真遊は電話に出た。
「も、もしもし」
『真遊?大丈夫?』
昨日までと同じ心底心配する声に涙が溢れていた。電話の向こうで泣く真遊をなだめつつ、小鳥は謝罪しながら今日に至る説明をしていった。龍十には堅く口止めされていたが、やはり心配になったのだ。犯人をいぶり出すために梨理香の案に乗り、自分に再接近しての絶交宣言をした経緯。龍十の来訪と作戦内容など、事細かく説明をする。
『台場君ね、きっと自分が悪者になる気なんだよ。だって、真遊のこと凄く考えてくれてるよ?』
「でも・・・」
『きっとね、彼、人と馴れ合うのが怖いんだよ』
「・・・・でも」
『人を殺したから人と馴れ合うのを恐れてるんだと思う』
根拠などない、ただ自分がそう感じただけだ。周囲を気にしてきた小鳥だからこそ感じる部分。それが龍十の心の奥にある真相だ。
『真遊を救いたいって気持ちがなきゃ、ここまでしてくれないよ?』
その言葉に真遊は黙り込んだ。これらもまた優しい嘘なのだろうか。棘のある毒の優しさとも思えるが、それでも今日までされたことは信じたい。
『好きなんでしょ?』
その言葉に消え入りそうな声でうんと言う。それが嬉しくて、小鳥は小さく微笑んだ。
『なら信じようよ。私は彼を信じた。彼の真遊を助けたいって気持ちを信じた。だからあんなことまで出来たんだからさ』
「小鳥・・・」
『大丈夫、台場君はいい人だよ』
龍十が口にした真遊へのフォロー、それは小鳥との仲を取り持つフォローだった。自分のことよりも真遊のことを考えてのフォローに小鳥もまた胸が熱くなっていた。
「信じる」
『うん』
「信じるよ」
『そうしてあげて』
優しい小鳥の言葉に何度も頷き、電話は終わった。そのまま電話を握り締め、龍十にメールを送るのだった。
*
風呂から上がれば、スマホの画面が明るい状態だった。龍十は携帯を手に取ってアプリを開く。来ていたラインは2つだ。まず小鳥からのものを開いた。
『今日はありがとう。ゴメンね?真遊に全部しゃべっちゃったよ。あれじゃ台場君が悪者だし、後味悪いし。まだ協力できることがあったら遠慮なく言ってね』
ため息をついてもう一通の方を開こうとするが、なかなかそれが出来ない。『舞浜』と表示されたそのラインを開いたのは小鳥からのラインを閉じて5分後だった。
『今日はごめんなさい。言い過ぎました。同志として、フェイクの彼氏としてよろしくお願いします。まだいろいろ考えてしまうけど、それでもやっぱり龍ちゃんを信用しています。だから、私を助けてください』
いつもにはないかしこまった文章に苦笑し、ため息をついた。結局、小鳥のせいで全てが台無しだ。いや、計画自体は上手くいっているだろう、それは間違いない。しかし、真遊が自分と縁を切るという計画は練り直す必要があるのだ。再度大きなため息をつくと携帯を置いた。決戦は近い、そういう決意を持って気持ちを引き締めつつ、今はそれに集中することに決めたのだった。
*
あの昼休みの事件以来、真遊はまた龍十以外の人間とは孤立していた。梨理香たちはそれをネタに大笑いしつつ大声で真遊をバカにするものの、真遊は平然としていた。小鳥も吹っ切れたのか、真遊を馬鹿にする言葉を口にするようになっている。その裏ではメールも電話もし、相談にも乗っていた。小鳥は電話の履歴もメールも削除する徹底振りを見せ、梨理香に動きがあった際には龍十に連絡を入れるスパイ役を楽しんでいるようだった。そうして12月も半ばに差し掛かる。期末試験も終えて、相変わらず成績はトップクラスの龍十だが、真遊はそんな龍十と一緒に勉強したせいか中間テストよりは随分と順位が上がっていた。そう、あの喧嘩後も2人の関係に変化は無い。龍十は相変わらずだったが、真遊もまたいつも通りに戻っていた。半分程度に落ちた信頼度も3日もすれば元通りだ。やはり自分は龍十が好き、その気持ちがそうさせたのだろう。世間がクリスマス前で浮かれる中、偽装恋人の2人にはそれがない。実際のところ、クリスマスぐらいはまともなデートがしたい真遊だったものの、あの喧嘩の後ではそれも言いづらいのだ。結局、龍十は自分との一線を引いたままなのだから。そして今日は金曜日、母親の許しを得て9時にバイトが終わる龍十を待って2人で晩御飯をどうするかを話し合っていた時だった。背後の通りの陰から明らかに自分たちを見ている人物に気づいた龍十が真遊に合図を送る。とうとう犯人が次の手を打ってきたと睨み、2人は通りを曲がったところで隠れるようにしつつ、大型の自動販売機の陰に身を潜めた。そしてその人物が近づいて来た瞬間、龍十が飛び出す。背の低い男が不意に右手を突き出した。それも龍十の背後にいる真遊に向かって。とっさに真遊を庇った龍十が右手を伸ばすものの、その右手に男の左手に持った何かが触れた。暗くて分かりにくかったものの、バチバチと電光を瞬かせるそれがスタンガンだと気づいた時にはその電撃を浴びた後だった。全身を駆け抜ける強烈な電流に筋肉が麻痺し、痛みが脳天を駆け抜ける。倒れこんで気絶寸前となった龍十を見下ろす男の口元が笑みを形取った。倒れる龍十の顔面を踏みしめつつ。
「め、目黒君?」
怯えた声でそう名前を呼ばれた目黒は血走った目を真遊へと向けた。
「なんのためにここまで頑張ったかわかりゃしない」
低い、そして邪念に満ちた声に全身が震えてくる。この間昇降口でぶつかった際の目黒とはまるで別人だったからだ。
「・・・・な、なんで?」
「こんな人殺しに依存しやがって・・・しかもやっかいな男を」
そう言うと、なんとか腕を動かそうともがく龍十の手に再度スタンガンを浴びせた。その絶叫が何事とかと騒ぐ通行人を呼んだが、それすらお構い無しの目黒は動かなくなった龍十を無視して真遊の腕を掴んだ。暴れる真遊の目の前でスタンガンをバチバチさせて黙らせる。
「痛いのはイヤだろ?ん?」
「なんでこんな・・・なんであんな噂をっ!」
「俺はね、精神的に疲弊した者にしか興味が無いんだよ。そういう人間はみな従順で俺を崇める。クソな母親もそうだった。さんざん虐待しておきながら反撃してボコったら泣きながら許してって・・・快感だったね。だから追いつめて追い詰めて、俺の従順な下僕にした。その快感はもう忘れようが無い」
「だからって・・・」
「俺は脳や精神論に興味があってね・・・しかも俺の声には特殊な催眠音波のようなものが含まれているそうだ。聞いたことあるだろ?その声を聞いているだけで赤ん坊が泣き止むとかいう声を。それに暗示に関する書物も見つけた。こと細かく書かれたそれを実践しただけ。噂ってのは人を信じさせる。話術とSNS、そして暗示。あのアイドル舞浜真遊が俺に心を支配されるんだ・・・最高じゃん!」
特異な能力と話術を駆使して噂を広め、無意識下でみんなを洗脳していたのだろう。暗示は噂を利用すれば簡単だった。真遊を憎む梨理香を扇動して女子を支配し、男子に至っては真遊の体目当てを利用していったのだ。下準備も完璧に真遊を追い込んで快感を得ていた。そしてもうすぐ自分に従順な女を手に入れられるといった矢先、こともあろうに真遊は龍十と付き合い始めたのだ。これは大きな誤算だった。相手は本物の人殺しであり、周囲との係わりを断っている男だ。どんなに巧みに言葉で従わせようとしても人間嫌いでは不可能だ。逆に自分の立場が危なくなってしまう。だからいろいろと策を練ったがことごとく失敗してきたのだ。そしてあの小鳥との大喧嘩で真遊の龍十への依存度の高さを知った。逆に言えば龍十さえ排除すれば、真遊の目の前で叩きのめせばその恐怖で彼女は従順になると踏んで今に至っている。そう、最悪、龍十を殺しても効果は覿面なのだから。真遊の依存度が高ければ高いほどに。
「さぁ、俺と行こう」
「ヤだ!」
脳に響く甘い声も今の真遊には響かない。ただ倒れて動かない龍十のことだけが気がかりなのだ。
「こいつはもう死んでる!」
その言葉にビクッと体を硬直させるものの、それでも真遊の目から光は失われていなかった。
「この改良スタンガンを2発浴びて動けるヤツなんかいるもんか」
そう言った目黒の足首を誰かが掴んだ。ギョッとして振りほどくようにしつつそっちを見れば、龍十の右腕が自分の左足首を掴んでいるではないか。だが龍十は倒れ付したままの状態だ。
「無意識的なのか?」
そう言いながら腕を振りほどこうと龍十の頭を蹴りにいった時だった。凄まじい握力で目黒の足首を砕きにかかる。痛みで龍十を蹴り損なった目黒が絶叫する中、倒れたままの龍十が渾身の力で足首に指をめり込ませた。肘を地面に付け、そこを起爆点として技を放ったのだ。まずは大地を踏みしめろ、力を込める起爆点を持てと言った師匠の言葉を思い出しての行動だった。ただ怯えるしかない真遊のすぐ目の前で絶叫する目黒が倒れこんで血を流す足首を押さえている。龍十は痺れる体を何とか動かそうとするが、さっきので力を使い果たしたのかもう動くこともままならない。それでももがき、精神力で痺れた筋肉を動かしにかかる。あの日、美由紀をケア出来なかった自分を思い出す。結果として人を殺すことしかできなかった自分を恥じたことを。あれからさらに技を磨き、こんなヤツなら倒せるほどに成長した自分を信じて。ガクガクした足を大地に付け、よろめきつつ立ち上がった龍十は口から流れる血をそのままに笑っていた。まだ自分は動ける、あの時とは違う、そういう思いから笑ったのだ。その凄惨な笑みに背筋を凍らせた目黒がスタンガンを構える。だが立つ事がやっとの龍十を見て少しだけ余裕を取り戻した目黒が何とか立ち上がり、再度スタンガンを構えた。
「お前よりかは動けるぞ」
そう笑う目黒を見ても龍十から笑みは消えない。
「真遊、よく見てろ・・・今からこいつを殺すから・・・お前の好きなこいつは死ぬんだ・・・・俺が殺すんだ!」
その言葉を聞いた真遊に恐怖がにじみ出る。龍十が殺され、自分を救ってくれる人が、愛する人がいなくなる恐怖。そんな真遊を見る龍十だが、内蔵にもダメージを負っているのか全身が痛みに軋んでいるものの、動ける力は少しだけ回復していた。だからか、余裕を見せてバチバチさせたスタンガンを突き出すそのゆっくりめの動きを見つつ、渾身の力で一歩を踏み出しながら左手の人差し指を相手のスタンガンを持った手に突き出した。相手の中指に触れた瞬間にそこが折れ、痛みでスタンガンを落とす目黒が見たのは目の前に迫った悪魔だった。殺気に満ちた目をしたまま、それでも麻痺と痛みで膝から力が抜ける龍十を見た目黒がスタンガンを拾おうとした瞬間だった。顎にすさまじい衝撃を受けて一瞬で意識が飛んだ。脳を揺さぶる強烈な衝撃は脳天を突き抜け、軽く1メートルは宙に浮いた体がドッと地面に倒れこんだ。顎が砕けたのか、変な形状になっている。鼻血も垂れ流し、白目を向いた目黒を見た龍十もまたその横に倒れこんだ。
「台場君っ!」
遠のく意識の中で真遊の絶叫が聞こえたが、霞む目で近づく警官の姿を見て微笑んだ龍十はそのまま意識を失ってしまったのだった。
*
通りかかった男性がすぐ近くの交番に駆け込んだため、すぐに警官がやってきた。目撃者もいたことですぐに目黒が逮捕され、救急車が呼ばれる。見た目に酷い目黒だったが命に別状はなく、龍十もまた軽症であることが判明した。ただ、目黒を診た医者が言うにはスタンガンを2発浴びた人間にされたとは思えないとコメントするほどに、龍十の状態は良くないものだった。全身が痺れて麻痺しつつも、真遊を助けたいという精神的な力で体を動かしたなど信じがたいと言う。それでも真遊は無傷であり、全てを解決してくれた龍十に付き添った。警察から連絡を受けた真遊の母親も駆けつけ、真遊は泣きながら龍十の安否を心配する他なかった。目黒に関しては母子家庭であり、自宅に警官が駆けつけても家に上げようとせずに暴力を振るったために公務執行妨害で逮捕されている。後に精神科医が診察した結果、重度の洗脳状態にあるとの診断を下すほどの状態にあったらしい。犯人がこれでは事情聴取もままならない上、龍十もまた動ける状態ではないためにそれは明日ということになった。真遊は母親に付き添われて龍十のお見舞いに行くと、ベッドに横たわった龍十がいた。意外にも軽症らしいものの、やはり電撃による麻痺が続いていた。母親はそっと真遊の背中を押し、廊下で待っているとだけ告げて気を利かせてくれた。顔を赤くしながらも頷いた真遊が一度深呼吸してから扉を開いくと、眠っているのか龍十は目を閉じている。
「龍ちゃん?」
静かに声を掛けるとゆっくりと目を開く。体の痺れはあるものの脳や内蔵にダメージはなかったおかげで明日には退院できる状態だ。今日は念のための入院になっていた。
「大丈夫?」
その問いかけに無表情のまま微かに頭を動かした。それを見た真遊はホッとしてベッドの脇にある簡素な椅子に腰掛ける。そうしてそっと龍十の手を握った。
「ありがとう。助けてくれてありがとう」
それは全部の意味を込めたお礼だったが、果たして龍十に伝わっただろうか。龍十は再度首を動かし、そして小さく微笑んだ。そんな龍十を見て握った手に力がこもる。知らないうちに流れてくる涙が頬を伝い、顎を通してその手の上に落ちた。
「ここから先はお前の頑張り次第だな」
かすれた声でそう言う龍十に強く頷く。そう、龍十の役目はこれで終わりだ。噂を流して真遊を精神的に追いつめた上で手に入れようとしていた犯人は逮捕された。おそらく既に学校にも連絡が行き、これによって真遊の名誉は回復するだろう。そうなれば、今度は真遊が本当の友達を探すという目標を実行するだけだ。
「着替えとかいい?いるものあれば取ってくるよ?」
「どうせ明日には退院だし、今日は寝てるだけだ、いらない」
相変わらず素っ気ないものの、それが龍十だ。真遊は微笑み、最後にぎゅっと握った手に力を入れてから立ち上がった。
「じゃぁ、明日ね」
「ああ」
そう返事をするかしないかのタイミングで真遊はそっと龍十の傷のある右頬にキスをした。驚いて目を見開き、明らかに動揺している龍十に悪戯な笑みを浮かべて見せた真遊はおやすみなさいとだけ口にして部屋を出て行った。呆然とする龍十だったが、徐々に口元に笑みが浮かんでいった。それは真遊が見たならばきっと感激するような優しい笑みだった。
*
翌日は事情聴取となった。学校側からも責任者が呼ばれて目黒に関しての聞き取り調査が行われ、おかげで職員室はてんやわんやの大騒ぎ状態になっていた。目撃者の証言と真遊、龍十の説明が一致しているために2人への聴取はすんなりと進み、その上で目黒の異常性が浮き彫りになっていく。母子家庭で育った彼は幼少の頃から虐待を受け続けてきた。だがある時、彼の声質に気づいた校医の指摘によってそれに関する勉強をするようになったそうだ。脳の仕組み、精神論にまで手を伸ばし、やがてはその特異な声と話術を磨くことによって徐々に友達を増やしていった。だが虐待がエスカレートし、耐え切れなくなった彼は決死の反攻に出た。そうしなければ殺されると思ったからだ。しかしそれによって母親が屈服し、それを見たことによって快感を得た目黒はさらに精神的に母親を追いつめ、やがては従順な下僕へと落としていた。話術と精神論を駆使して母親を洗脳することで自身の能力を飛躍的に上げる一方で、暗示に関する書物を見つけて母親を実験台にしてそれを磨いた。やがて家出少女を話術と暗示で誘い込み、快楽を得ていたという。そんな中、ご当地アイドルとなった同級生の真遊に興味を示すようになっていく。家庭以外ではごく普通だった彼だが、ある時に友達と喧嘩をしてしまった。そこでも話術と暗示を持って相手を徹底的に追いつめた挙句に屈服させて下僕扱いにすることに成功していたことが今の彼の人格を確定付けたのだ。周囲には知られず、だが確かに従順な奴隷を持つことに快感を得つつ、それでも純粋に真遊のファンとなって握手会にも参加していた。目黒にとって真遊は神聖化された女神だったという。だが、中学卒業と同時にアイドルユニットも解散となり、同時に真遊は有明と交際を始める。真遊を神格化していた目黒は処女信仰もあってか、そんな真遊を汚れた存在へと変化させていったのだ。つまり、彼にとって真遊もまた快感を得るための道具に成り下がったのだ。だが精神的に追いつめた状態の真遊でないと彼の理想にはなりえず、自分以外の者に汚しぬかれる真遊を見たいと欲した。そこで綿密な計画を練ってそれを実行したのだ。まずは彼女にとって絶対にありない方向での噂を流す。巧みな話術と声を駆使し、まずは学校でもカリスマ性を持つ梨理香を暗示にかけて懐柔していった。匿名の電話でありながらも真遊をライバル視していた梨理香は洗脳しやすく、これによって一部の女子よる真遊への無視が開始された。実際に会い、強い暗示をかけた上で自分の存在を隠すことも忘れない。それと同時に今度は男子の中で噂を浸透させていった。これは噂話に加わることで多数を扇動し、それによって真遊に関するありえない情報までを流すことに成功していた。以後は度々噂話に乗っかることでそれを真実として真遊の疲弊具合を監視していく。完全に孤立させるために中学時代の連絡網を駆使して他校の女子を洗脳し、これによって真遊の孤立を完成させたのだ。下品な教師である九段下一郎も言葉巧みに懐柔させ、あわよくば彼に真遊を汚さそうとまでしていたものの、極端に龍十を恐れた彼の深層心理に介入することは結局出来なかった。とにかく心も体も壊れた真遊を自分だけのものにしたいという欲求が最高潮に達したとき、目黒が想像だにしなかったイレギュラーが発生してしまう。それが真遊と龍十の交際だった。龍十は過去に人を殺しており、目黒としても敬遠していた男だ。また一匹狼であり、他人に興味も示さず干渉もしないために完全にノーマークだったことも災いした。そこで目黒は龍十の弱点を探すものの見つからない。孤立を自ら望んでいる龍十に対しては近づくことすら出来ない。仕方なく梨理香を扇動して真遊に対してさらに揺さぶりを掛けるものの、真遊は龍十という心の支えを得てしまい、壊れかけていた精神は安定を取り戻してしまう。ますます焦った目黒は真遊の元彼である有明騎士を扇動して過去の古傷を抉る行動に出たがこれも龍十によって阻まれてしまった。残った手は梨理香の扇動しかなく、小鳥を使って再度揺さぶりをかけることにする。それはほぼ成功したと思われたが、またしても龍十の存在が邪魔をして失敗に終わった。ここで目黒の中で何かが壊れた。ならばいっそのこと龍十そのものを直接排除すればいい、そう考えたのだ。真遊の目の前で龍十を殺せば心の支えを失って心を壊すだろうと。そのための襲撃であり、過去の事件も調べ尽くした目黒は龍十が真遊をかばうことも予測していた。そしてその計画はほぼ達成されたかに思えた。惜しむらくは、龍十の精神力が肉体の限界を超えたところにまで達したということだろう。強化されたスタンガンを2度浴びて立ち上がるなど、ましてや反撃するなど完全に想定外だった。しかも相手の動きは実に最小限だったにも関わらず、自分は重傷を負ってしまった。完全に心が壊れたのは目黒の方であり、そのためか警察の追及にも素直に応じていた。様々な物的証拠や龍十に対する明確な殺意を持っていたこともあって、傷害と殺人未遂の罪でさらなる追求が行われるようだ。これによって真遊の噂に関することが校内でも問題視され、またイジメの事実があったことを認めざるを得なくなった。目黒が精神破綻者だということにするにも無理があるため、学校側は正式に真遊側に謝罪して事の全てを月曜日の臨時緊急全校集会で明らかにすると決めたのだった。