6話
今日の朝、私が入っている陸上部の朝練があった私は眠い目をこすりながら、朝早くに登校しなければいけなかった。まだ外は暗かったが、息をするたびに白い息が出てくるのが見える。家から出る前に忘れずマフラー、手袋を着けてきた私でも寒さは心の奥底に届くようだった。
隣の家の窓を見上げると、電気は未だに点いていない。そりゃあ、そうだよね。輝希は部活に入ってないんだから。
私も実のところ、陸上にはあまり興味はなかった。別に運動は苦手ではないけれど、高校に入ったら部活に入ろうとは特別思ってはいなかった。ただ、おばさん、輝希のお母さんが輝希が陸上をやるかもしれないと言ってたから入ったんだけども…。まさか、輝希が何の部活にも入らないとは…。
ただ、部活は嫌いじゃない。この半年で友達もできたし、記録も初心者にしては順調に短くなっていると顧問の先生も教えてくれた。それでも、やっぱり月曜の朝は辛い…。
そんな事を考えながら私は自転車に乗る。
「気を付けていてらっしゃいね」
「分かってるよお母さん。いってきます」
お母さんは私が暗い中学校へ行くのが心配なのか、月曜日の朝はいつも玄関に出てきて見送ってくれる。
隣には誰もいない。当たり前かもしれないが、周りに誰もいない時の私は静かで何も考えない。誰かがいるから私は明るく笑顔で振舞える。もちろん、明るく演技をしているわけじゃない。自然と周りに人がいると安心するからだと私は思う。
学校がある平日は毎朝この通りを自転車で走っているけど、一人で走る月曜日、私はこの通りが好きではない。横切る車の音は一年前の交通事故を連想させ、私を不安にさせるからだ。輝希は震え、泣いていた。徹くんと話していることで取り戻していた人間関係に対する自信をまた失った輝希は落ち込み、私は話をかけようとすることも出来なかった。
学校に着き、日が上り始めるとともに、周りの景色は鮮明に見えてくる。学校で会う友達の顔、灰色の雲に覆われた空、白い大きな校舎。私は日が昇り始めるのと同じ時間に友達と会い、他愛もない会話をしながら着替える。
練習の初めは体が震えるほど寒いが、動いているうちに寒さはなくなっていく。夢中に走り、タイムを見て、少し休憩する。休憩をしていると、ふと「よく私部活続けてられるな」と思う時がある。私は続けるのが苦手な性格で難しいことは投げ出してしまいたくなってしまうタイプだと自分でも自覚している。だから私には続けるための早期が必要なんだけど半年以上経ってもその答えは見つかっていない。
朝練が終わると私たちは片づけを済ませた後にすぐに着替えて教室に急ぐ。毎週毎週遅れそうになるのは絶対にコーチの長話が原因だと私たちはいつも笑い話にしている。
「セーフ…。はぁはぁ…。まだチャイム鳴ってないよね?」
私がこう聞くといつも誰かが答えてくれる。今日は後ろの席に座っている仲の良い友達が教えてくれた。
「まだチャイムは鳴ってないよ。てか結、また髪の毛ボサボサだよ。整えれば綺麗な髪なんだから大切にしないと」
「だって先生の話が長くって時間なかったんだよね…」
私はそう言いながら輝希の方をさりげなく見た。私が教室に入ったことも気にしてなさそうな様子で輝希は窓の外をつまらなそうな顔で見ていた。
「ちょ、結?私の話聞いてる?あ、また輝希くんの事見てるの?結も飽きないね~」
「ごめん、聞いてなかった。もう一回話してくれる?」
五分も経たないうちにチャイムはなり、授業が始まる。当然朝早く起きた私は授業に集中することは出来ず、目を開けようとするだけで精一杯だった。
授業が終わると元気が戻る。そしてまた授業が始まると眠くなる…。そんなことの繰り返しで気づけば一日が終わっていた。
「じゃあ結、また明日ね~」
「うん、また明日ね~」
その日、部活は大雨になるかもしれないという天気予報が原因で休みになった。輝希は授業が終わったというのにまだ窓を見ている。外のどんよりとじめじめした空を見上げていた。
「輝希!お待たせ。帰ろう」
「おう、行くか」
輝希は中学校の頃から相変わらず無口だった。いつもイライラとしているというか、他の事に無関心というか…。そんな雰囲気を持つ輝希は高校に入っても誰も話しかけようとはしなかった。
二人で廊下を歩く。他の人から見ると私たちは恋人同士に見えるのだろうか。だけど、会話が切り出せない私は自分の恥ずかしがり屋で気弱な性格にもどかしさを感じていた。
輝希の顔を見ると、輝希は何も思っていない様子だった。照れる様な仕草も、カッコつけようともしない。ただ私の事を幼馴染としか見ていないようだった。
「ねえ、何で俺と一緒に帰るの?前から別に他の子と帰ってもいいんだよ?前にさ、クラスのやつらが何で俺たちが一緒に帰ってるかって話してたんだよ。特に何で俺とかって」
輝希は前にも同じような事を私に聞いてきたことがあった。答えは決まっている。輝希のことが幼馴染としてではなく、一人の異性として好きだから。でも、そんなことを言えるほど私には勇気はない。この関係が壊れてしまいそうで、好きと言うことで輝希と話せなくなることが私にはたまらなく怖かった。
「私も前にそれ聞いたけどさ、一緒に帰ることに理由っている?」
だから、私の十八番はこれに決まっていた。これを言うと輝希は決まってこう言う。
「いや、そうだけどさ…」
そして、最後に追い打ち。
「だったら別にいいじゃん」
私が笑顔とともにこの言葉を言うと輝希は何かを言いたそうにするが口を閉じてしまう。
「ねえ、今日どうだった?私なんかさ、朝練のせいで眠くなっちゃって…」
他愛もない会話を私はする。何故俺と一緒に帰るの?という気まずくなるに決まっている質問の後の会話は何というか冷め切っていた。
いつも私は輝希とこういう話をすると私たち二人の間にある距離を感じていた。物理的な意味ではなくて、もっと心理的なもの。二つの椅子が違う方向に置いてある感覚。お互い、思っていることを本気で顔を見合って話し合えないような感じ。
近くにいる。誰よりも近くに私はいるのに、私は輝希の影だけを見ているようだった。
私たちは一緒に自転車に乗り、進み始めた。ゆっくりと感じる時間の中とは違い、私たちの自転車はスピードが出ていた。
また、輝希とあまり話せずに一日が終わってしまう…。明日はもっと話しかけないとな…。通りの一本道を区切る交差点が見えたところで私はそう思っていた。今日は調子が悪い日なんだ。明日話せばいい、と。
信号は赤。ブレーキに手をかけた私は異変に気付いた。止まる気配のない自転車、ブレーキは壊れていて、タイヤとは接触していなかった。
「え、何で?止まらないんだけど」
自転車が止まらない中、交差点の右側からは大きなトラックが走ってくる。このまま走り続ければ当たってしまう。わざとバランスを崩す?だめ、間に合わない…。私がブレーキが壊れていると分かった時にはすでに私達と交差点までの間に私が止まる距離は残されてはいなかった。
このまま死んでしまうんだろうか…。まだやりたい事たくさんあるのに…。輝希にも私の気持ち伝えられなかった…。
子供の時の私達二人の声が聞こえる。これが走馬灯というものなのかな?
「俺がいつまでも結と一緒にいるよ。ずっと一緒にいてあげる」
そう輝希の声変わりする前の可愛らしくも逞しい声が私の頭を横切った。その声と同時に後ろからガシャンという音とともに衝撃が伝わってきた。自転車がぶつかる音。後ろを振り返ると目を瞑り、今にも泣きそうな輝希がいた。
そんな、ダメだよ。何で輝希がそこにいて、私の自転車にぶつかってんの?ダメだよ、そんなことしたら輝希がトラックに…。
私は横断歩道をギリギリ抜け出したところでバランスを崩し、自転車とともに倒れこんだ。それと同時に私の耳にはガッシャーンとさっきの音とは比べ物にならない程の音が届いた。
他に走ってきていた車は一目散に止まり、トラックの運転手は青ざめた顔で携帯を耳に当てていた。そして、トラックの前に倒れていたのは自転車と分からなくなってしまったほどにグシャグシャになった自転車と血に染まった輝希の姿だった。
私は体に負った傷なんか気にしている時間はなかった。輝希は大丈夫なのか。ただそれだけを私は知りたかった。
ゆっくりと近くに寄ると事故によってできた傷が鮮明に見えた。血はコンクリートの破片と混じり黒ずんでいた。
「輝希、何で…。」
私の口からはこの言葉以外かけられることは出来なかった。ただ単純に声が出ない。誰かに首を絞められるように呼吸をすることも出来ないくらい苦しく、輝希の傷ついた体を見るたびに苦しさは増していった。
私は輝希にそっと手を触れた。ピクリとも動かない輝希は冬の冷たさを感じさせないほど血で暖かかった。
数分もしないうちに救急隊員が輝希をタンカーに乗せ、私も傷を負っていたために病院へと搬送された。
病院に着くと、私達は別々になった。病院の人が事情を教えてくれたのか、お母さんがすぐに病院に駆けつけ、私をぎゅっと抱きしめた。しかし、暖かかったのは表面だけで、目を瞑っている輝希のイメージが私を冷たくしていた。不安に駆り立たれ、何をしていいのか分からない。泣くことさえ私は出来ないかった。
「輝希は?大丈夫なの?」
私はお母さん以外聞き取れないほどの声でお母さんに聞いた。
「輝希くんは強い子よ。大丈夫。心配ないわよ」
その日、親族以外の面会は許されなかった。後にお母さんがおばさんに電話で話すと手術はなんとか輝希の一命を取り留めたみたいだったが、意識が戻らないという状態だということが分かった。また、最悪そのまま死んでしまう可能性もあるという。
私のせいだ。私が輝希を事故に巻き込んだんだ。私がブレーキが壊れていることに気付いてれば…。
お母さんとお父さんは私のせいではないと言い続けた。誰のせいでもない、結のせいでもないんだよと。
しかし、私の心にあったのは輝希に対する罪悪感と後悔だけだった。もし輝希が死んでしまったら…。考えたくなくても、私は無意識に考えてしまっていた。夜には自転車のぶつかる音、トラックが衝突する音、目を瞑った輝希の顔、血に染まった輝希の体、事故が起こった数分が私の頭の中で録画されたビデオのように繰り返し流されていた。
「……。輝希、私…」
真っ暗になった部屋で私は泣いていた。いくら泣いても、モヤモヤした気持ちは一切洗い流されることはなく、ただ不安だけがその大きさを増していた。
火曜日、私は学校を休み、両親と一緒に輝希の病院へと向かった。
輝希が私の身代わりになったせいで事故にあったのに、私はおばさんとおじさんに何を言えばいいんだろう。
そんな自問自答が走る車の中で永遠とも思えるほど長い間続いた。
三一三号室、そこが輝希の病室だった。お母さんがドアを開けると、疲れた様子のおばさんとおじさんが出迎えてくれた。部屋の奥にはベッドに横たわっている輝希の姿も見える。呼吸器をつけ、ただ輝希は寝ているように見えた。
「村山さん、来てくれてありがとうございます。ほら、そんなに固くならないで座っててください。すぐにお茶入れますから。結ちゃんも来てくれてありがとね」
おばさんは笑顔で私にそう言ってくれた。そして、黙っていた私におばさんは言ってくれた。
「結ちゃん、話は聞いたけどね、気にすることないよ。輝希がこうなったのは誰のせいでもないからね。もし、それでも責任感じてるっていうなら、輝希が起きるときに笑顔で迎えてあげてね。そうするとこの子絶対喜ぶからさ」
「はい、おばさん…」
なぜだろう。何故おばさんは私を責めないんだろう。輝希はもう帰ってこないかもしれない。それなのにどうして。
私はソファから立ち、病室を出ていた。罪悪感、恐怖、後悔、寂しさ、責任感、正義感、そして優しさ。私は必死に病院を抜け出し、走るとともにそれらから逃げていた。ごめん、輝希…。こんなに弱い私を許して…。
泣きながら、叫びながら、私は走る体力がなくなるまで走り続けた。息が切れ、歩いても涙だけは止められない。どうあがいても、私は心の底に残る事故への恐怖からは逃げられないと思った。