4話
夢、いや夢というにはあまりにも現実的に感じられた。また、頭の奥そこに眠っている記憶に近いもののような気がする。天気、周りの風景、気温。真っ暗だったにも関わらず、俺には手の取るように感じられた。だが、俺には今の夢の中で何が起きて、何を示していたのかは分からなかった。
俺の額には汗がじんわりと出てきており、俺の体を濡らしていた。暖房はついている。昨日に比べると俺の部屋は北極とインドのような差があると思う。
横では携帯のアラームが正常に作動し、うざったらしい高いピッチの音が俺の耳元で鳴っている。
また違う朝。違う日。なのに、あの夢以外は同じように感じられる。
「ったく。朝から変な夢見たな…。トラックに轢かれて夢から覚めるってどんだけ気持ちのいい朝なんだよ」
俺は頭痛のする頭を片手で抑えながらベッドから立ち上がった。ゆっくりと腰を上げ、少し猫背で洗面所へと向かう。
洗面所の鏡で見た俺の顔は熱を持ちながらも必死で学校に来るような人のように酷かった。顔は普段よりも白く、目元にはうっすらとクマが出来ていた。それに加えて髪はボサボサというサービス付きだ。
意識がもうろうとする中、半目を開きながら俺は歯を磨き、顔を洗った。
「くっそ~、頭痛薬はどこだっけ」
俺は一歩ずつ、確実に、ゆっくりと階段を降りた。
一階のリビングルーム。いつもならいない、そして昨日帰ってこなかった母さんがそこにはいた。
「おはよう、母さん昨日はどこ行ってたんだよ?」
ダイニングテーブルの椅子に腰を掛けている母さんは俺の質問に耳を貸す様子はなかった。ただひたすらに沈黙を続け、下を向くばかりだった。顔は見えなかった。だが、母さんが出す雰囲気は疲弊という文字が当てはまるほど疲れ切っており、負のオーラが深く感じられた。
「母さん、大丈夫?なんかあったの?」
どの問いかけにも母さんは答えるどころか聞こえてもいないみたいだった。俺の声だけが部屋に残り、他の音は部屋の保つ静寂に飲み込まれていた。
俺は母さんの肩をつかみ、優しく揺する。だが、反応はなく、こっちを見る事さえもしない。
一体どうなってるんだ…。何で反応もしないんだよ…。
俺は母さんがとる行動に理解が出来ないまま、時間は過ぎ、時計の針は七時十五分を指していた。まるでこの部屋だけが外の世界から隔離されたように、流れる時間は長く、遅く感じられた。
母さんは依然と下を向きながら、机に両手をつき立ち上がった。もう俺には母さんに声をかける勇気はなかった。これ以上話しかけても母さんは一切反応することはないんじゃないかと俺は恐れていたからだ。
母さんは肩を小刻みに揺らし、鼻をすするが涙が目から流れることはなかった。乾いている。母さんがとる行動はもう涙も出ないほど乾ききっているという表現を母さんは体現していた。
母さんは自分が座っていた椅子の横にかけてあった紺色のジャケットとバッグを手に玄関へと歩き出した。俺は母さんが俺の横を通り過ぎるまでリビングに漂う異様な雰囲気に体の自由を奪われ、動けなくなっていた。
何が原因なんだ…。
その一言が頭の中を支配していて、もはや俺の中に学校へ行くという選択は宇宙の果てに消えていた。
「母さん、俺もついていくよ」
案の定、母さんは俺の言葉に反応はしなかった。だが、それでいい。たとえ母さんが俺の言葉に返事をしたとしてもアヒルが親についていくように俺は迷わず母さんについていくだろう。
外へ出ると、白く輝く雪が空から降ってきていた。まだ道路には積もってはいないが、一つ一つの雪の粒が大きいため、数時間後にはかなり積もっているだろう。
そんなことは母さんには関係のないことのようだった。雪なんてただの天気。空から降ってくるただの冷たく白い物質。なんの面白みもないんだよ。そう母の背中は俺に教えているようだった。
母さんの後に続き、俺は車に乗った。暖房が効いてはいなく、外とあまり変わらないほどの寒さに母さんの口からは白い息が見える。
エンジンをかけ、暖房が出てくるまで少し待つ。
「手が冷たくて運転できないと困るでしょ」
そう母さんが俺が小さいときに教えてくれたのを思い出す。母さんの手は寒さで白くなっており、どれだけ車内が冷え切っているかが分かる。
「ふぅー」
母さんは深くため息をつくと、暖房のおかげで少し赤くなった手でハンドルを握った。俺はどこへ行くかもわからないままだった。母さんは駐車場から車を出し、雪がしんしんと降ってくる中車を走らせる。
「母さん、これからどこに行くの?」
なんて野暮な事は俺は聞かないようにした。反応してくれないからじゃない。じっと静かに座っていれば、いずれは地球上のどこかに着くことが分かっているからだ。
車の外を見てみると、制服を着た学生たちが学校へ登校していた。楽しそうに笑い、今を最高に楽しんでいる感じだ。どこかから来る不安やストレスなんて関係ない。彼らはそんな表情をしていた。
車の中で寒さなんて感じなくなっていた頃、母さんはラジオの電源をつけ、音量を上げた。
「時刻は七時三十分。いや~、今日も寒くなりましたけど、雪が降るとは思いませんでしたね~。私は今窓のない部屋の中にいるんですけどね、このスタジオに来る頃にはもう雪が降り始めてたんで、スタジオを出る時が結構楽しみなんです」
名前も知らない女性の声がする。心に話しかけているようなで冷えた心を暖めてくれるような落ち着く声の持ち主だった。
「それでは、今日のお手紙読んでいきましょう。今日のテーマはバレンタインもあと一ヶ月を切ったということで恋となっています。それでは読んでいきます」
「マイさん、おはようございます。いつも電車で登校する時に聞いています」
「ありがとうございます」
「私は去年の春に高校生になったばかりで、昔から好きだった人と同じ高校に行けるようになりました。その時はすごくうれしかったのですが、何もできないまま今に至ります…。また、クリスマスの一週間ほど前に彼が一年生の終わりには海外へ引っ越してしまうことを知ってしまいました。彼の事は小学生の頃からずっと好きでいたのでどうしたらいいか分かりません。恋愛経験豊富なマイさんはこんな時どうしますか?」
「そうですね~。私は好きだった人が引っ越してしまうってことは経験したことがないんですけど、もし私の好きな人が近くからいなくなるってなったら私は積極的に思いを伝えちゃうかな~。もちろん、話しかけるって勇気もいるし不安だと思う。だけど、最初の一言、次の一言、もう一言、この積み重ねが好きっていう感情を深くすると思うの。だからね、一回思い切って話しかけてみると良いと思うよ。思いが強ければ強いほど、距離なんて短くなるって感じかな。その好きな人が行っちゃう前にたくさん話せるよう頑張ってくださいね!」
「それでは次のお手紙読んでいきます…」
そんなに簡単に話しかけられればどれだけ恋愛は簡単だろうか。俺は積極的になるという事を軽々しく言っていたこのラジオの女性に少し苛立ちを覚えた。いや、正確にはこの女性に対してではなく、図星をつかれた自分自身に腹を立てているのかもしれない…。
手紙を出した女の子のように、俺は結に何もできていなかった。小学校の頃から一緒にいるはずの結に何も。これほどの時間があっても俺の臆病な部分が前に踏み出ることを強制的に拒絶させていた。影が光になれないように、俺は結の光になったことは一度もないのだ。
俺は外を見ながら、ラジオを聞き流していた。どこへ行くのだろう。俺は目の前に見えた公園、通称スイートピーの公園を見かけて徐々に分かってきていた。春にはスイートピーが綺麗に咲く公園には近くの病院から多くの患者が散歩に来る。
俺の読みは当たっていた。目の前には大きな病院。一昨年に改装され、綺麗になったその病院は病院とは思わせないほど近代的な設計だった。
母さんは慣れた様子で駐車場へ向かい、病院の正面玄関からは少し離れたところに車を止める。ワイパーが止められ、エンジンも切られた車の正面窓には雪が落ちてきて、車内の暖かさを原因に溶けていく。
母さんと俺は外へ出て、母さんは後ろの席から花を持った。綺麗な花。名前は分からないが、今俺たちの頭上に輝く雪のように白く、手に乗せれば溶けてしまいそうな柔らかさを持った綺麗な花だった。
俺たちは少し歩き、正面玄関に入る。マスクを着けた人が多い中、母さんは誰にも興味を示さずに歩き続けた。母さんの歩く速さを見るとどこへ行くかは分かっている様子だった。というよりも、熟知していると言った方が合っているかもしれない。
エレベーターを上がり、三階につく。白い壁に白い床。天井についている電灯が眩しく反射する廊下を俺たちは歩いた。
三一三号室。その病室の扉の前で母さんは数秒立ち、息を整えから扉を開けた。
そこは個室になっていて、綺麗な白い部屋だった。この時間には会社にいるはずの父さんもベッドの横には座っていた。
そして、ベッドに目を瞑り、呼吸器をつけ寝ていたのは紛れもなく俺だった…。