【第一話】 鳥居に願いを
――何が、起こった?
鋼の捩れる音、轟く大地の悲鳴。草木の騒乱、肩を打つ時雨。
混濁する意識の中、散らばる情報を掻き集めようと躍起になる。
...それだけがこの理解不能な現状で自我を保つための術なのだと、彼の本能がひた叫んでいるからだ。
――ここは、何処なんだ?
酷く軋む身体を起こし、今一度神経を尖らせる。どんなに些細なことでもいい。とにかく集めろ、集めろ、集めろ、集めろ。舌を転がる礫の味、脚下に滴る血の臭い。瞼を透く陽光、か細くも流麗な歌声。――歌声?
――誰か、居るのか?
突如、先行きの見えない現状に光明が差した。それは旗から聞けばひどく曖昧で頼りない光だが、今の彼には恐懼感激、昇る朝陽のようにすら感じられるものだった。
「...よし」
微かに弛む頬を引っぱたき、拡がる未知に終止符を打たんと歩み始める。
破砕著しい大理石、雨水も阻めぬ高い天井。靴音を打ち消す紅い絨毯、落ちてひしゃげたシャンデリア。晴れた瞳で一瞥して得られた情報をまとめ上げれば、置かれた場所にも大方見当がついた。
「大きなお屋敷...いや、“元”お屋敷ってとこか」
その華々しさこそ散ってはいるが、そこらに転がる像や絵画の造形はまさに上流貴族や大尽の趣味といった感じだ。が、やはりそれ以上の手掛かりは見つかりそうにない。...ここは一体どこで、自分は何故ここにいるのか。その答えは歌声の主に頼るしかないらしい。
そして彼は屋敷の最奥、とびきり大きな扉の前に辿り着いた。
先の流麗な歌声がいつの間にか途絶えていたことに気づき一抹の不安を覚えはしたが、「今更何だ」と首を振り、取手を握る。
そして、
「......いた!人が、いた!」「――ようこそ。我が主、トーヤよ」
第一村人の発見に思わず安堵の声が上がり、少年はその場にへたり込む。
『歌声の主』はだだっ広い部屋の一番奥で周囲の惨状に見合わぬ清潔感を携え、端の欠けた豪壮な玉座に据えていた。
見たところ歳は十三、四、五?...六?......から二十までのいずれかといったところか。幼さと妖艶さ(この場合は低い背丈と大きなバスト)を兼ね備えているため、判断が中々難しい。
「おーい、教えてくれ!ここは一体どこなんだ?」「そして私は君の案内役であるゼッカ...」
声が重なった。ぼんやりとだが「そして」と始まっていた気がするので、もしかしたら先程も何か言っていたのかもしれない。
彼は「もう一回聞くか」と小さく呟いて、
「おーい、今、なんて言ったー?最初から頼むー!」
「ここは正に、お前の望んだ世界そのもので...」
「ああ、だめだごめん、もっかい!」
「ああもう仕方ない、この世界は...」
「すまない、今のも自分の声で聞き取れなかった!もう一回だけ言ってくれないかー?」
「要点だけ話す!つまるところはお前はここに住まう民となり、驚天動地の生活を営んで...」
「って、うるさいわっ!少しは黙って聞けんのか!?」
「うわ、ごめん」
......かくして、彼の望んだ『退屈しない世界』はその幕を開けたのだった。
「全く...」
――すっかりへそを曲げてしまった、『白い女』との逢瀬とともに。
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裏門燈也は齢十八の高校三年生だ。
その頭髪はこれといって整えられているとは言えない様子(本人曰く「無造作スタイル」)で、また吸い込まれるような深い黒を湛えている。模範を通り越して染髪を疑われる程に不自然な黒だと言えば、もう少しは想像に易いだろうか。
彼の短い人生の中でで最も大きな功績は、過去にトライボーディアン(チェス・将棋・オセロの三種目を競う競技)の最年少チャンプとなったこと。
それは彼の性分である「突発性完璧主義(妹銘々)」の骨頂で、当時は空いた時間には四六時中...否、それらのためだけにズル休みを決め込んだこともあるのは当人のみぞ知るところである。
齢五歳にして自称“どれも割と強い”母親が相手にならなくなると同時に「ネット対局」なるものに出会うのだが、その後の話は一先ず割愛。
その後も燈也の性分はトライボードに限らず、多彩な場面へその牙を向けることとなる。
生まれてこの方面倒臭がるということを知らぬ燈也だ。運動・楽器・日曜大工etc..多岐にわたって積み重ねたどの趣味も一流と呼ばれるに相応しいと、近所の爺婆から隣町の爺婆まで、数多の爺婆に太鼓判を押されている。
まさに『好奇心と探究心の権化』。自らの欲気にどこまでも真っ直ぐで、その過程に在る努力故に歩む道程に墨を落とさない。
それこそが燈也の性根であり、今までも、そしてこれからも決して揺らぐことのないものである。
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――刻は、数時間前まで遡る。
曇天を透いた淡い月影が町に降り、街路には柔い冷気が満ち始めている。そこに、軽やかな呼気と靴音で静寂を叩いて回る影がひとつ。それは深く入り組んだ街路を巡り巡り、『裏門』と記された標札の前でぴたりと止まった。
扉横の小窓からは白熱灯の暖かな光が漏れ出し、お馴染みの香辛料の香りが微かに外に漂っている。...どうやら本日の献立はみんな大好きカレーライスらしい。因みに昨日はカレーライスで、一昨日はなんと、カレーライスだった。
首に掛けた銀鍵を挿し込み、がちゃりと半回転。開けば、先ほど嗅いだものとは比にならないひどく芳醇な香りが少年の嗅覚を蕩かした。
「おかえりなさい、燈也」
「たーだいま」
キッチンから顔を見せたのは御年十三になる妹だ。姓は裏門、名は風花。大きな猫目とそこから時折放たれる鋭い眼光は母譲りのもので、気色の良い肌もまた然り。
二つ結びにした深い黒を見るに、彼女もまた燈也同様、頭髪検査の尊い犠牲者であるのは想像に易い。彼と真っ向に異なるのはその艶やかさくらいか。
因みに裏門家は燈也と風花の二人暮らしである。祖父母はとうに他界し、その数年後には母・裏門春がその後を追った。...未だ幼い二人を支えるべく孤軍奮闘したが故の過労死だった。父・裏門利一に関しては二人が物心つく以前に亡くなっていて面識は無いのだが、燈也同様に極度の凝り性であったことは母から幾度も聞かされていた。実はこの一軒家も利一お手製なのだとか。
また先日開かれた『第二十回裏門家兄妹会議』における風花の言――「風花はママそのものだけど、燈也は髪色以外ママに似てるとこ無いよね」――によって、父の容姿は「燈也のクローン的な感じ?」というなんともいい加減な結論に至った。いや、息子のクローンて。
そんなこんなで夕餉の支度は済み、食卓につく。味噌汁、サラダ、そしてカレー。なんと、昨晩から楽しみにしていた献立そのものではないか。
「いただきます」
「いただきまーす」
「今日は私お昼遅かったし、いつもより沢山食べていいよ」
「おっ、やったね」
そう言って、燈也は未だ山盛りのカレーライスを貪り始める。普段テレビを点けない裏門家における食事は、食器同士が奏でるリズムが会話という拍を置きながらゆったりと、そして忙しなく続く。
「...ねえ燈也、おいしい?」
「ああ、めちゃくちゃ美味いぞ!」
「よかった、嬉しい」
これは裏門家の食卓で知らず知らずのうちに習慣となっていたやり取りだ。
交わされる言葉は連日変わらないが、「美味しい」と耳にする度に照れくさそうに含羞む彼女の表情はいつも新鮮で、この上なく愛おしい。
とは言うものの、風花の作るカレーがとんでもなく美味いというのは事実だ。先程まで棚で安売りされていたはずの玉葱が、牛肉が、そして人参までもが舌上でとろけていく様はまさに絶品と言う他ない。
風花の言うことには「同じ食材・同じ調理法をもってしても同じ味にならない」、「燈也が私と肩を並べるには秘密の魔法が足りない」ということらしく、それを聞いた彼の懸命な検証の結果も然りであった。
「そうだ燈也、片付け終わったらあれ行くの?いつもより戻るの早かったってことは、まだ行ってないんでしょ」
過去に思いを馳せる燈也に、風花が嬉々として切り出した。すると燈也は寸刻置いて、
「ああ、俺も今日で千回目だしな。もう千回迎えてる風花と一緒に行った方が御利益あるかなって思って行かなかったんだ。どう?」
「うーん、一通り終わったのにまた顔出して、神様に怒られたりしないかな?」
「大丈夫、神様の器もそこまで小さかないよ」
「本当にそうならいいんだけど...。うん、行こうかな」
「よっしゃ、決まりだ!」
そう言い、各々外出の支度を始めた。
ちなみに「あれ」やら「これ」やらと言われていたのは、『御百度参り(ここと決めた寺院や神社に百度と通い、心願成就を祈る行い)』と呼ばれるもののことだ。
風花の提案に始まったこの行事は裏門家の質と相俟って、いつしか裏門家の習慣のひとつとして根付いてしまっていた。
「うちの場合は『御千度参り』ってことになるかな。しかも祈る場所は人っ子一人来ない場所の鳥居だし...おかしなところだらけだ」
そんなことを呟きながら自転車(裏門家の自転車は兄妹兼用の一台しかないため、二人での移動時は後部に風花を乗せて走るスタイルが定石だ)に跨り、見慣れた町並を抜け、虫の音絶えぬ畦道へ。電灯の数が極端に減るため夜応分に暗く、自転車に付属する黄みがかった灯りが他の何よりも頼り甲斐を発揮する場面だ。
――出発から数十分。たわいもない会話も底をついた頃、ふと腰に回された風花の細腕が締まった。
「ん、どうした。この辺りはトイレないぞ?」
「もう、そんなんじゃないよ!ほら燈也、空。見てみてよ」
「空?......うお、すげえ...」
言われるがままに空を仰げば、そこには満天の星空が広がっていた。
そして、その中でも燦然と輝く三つの星がある。まとめて一般に“夏の大三角”と呼ばれるものだ。
「あれがデネブであれがベガ、そしてあれがアルタイルだよ」
「へえ......。え?ど、どれがどれでどれ?」
「もう。ほら、あれがデネブで...」
自然、物理的な距離が詰まる。空に夢中な燈也は、頬に微熱を帯びた風花に一瞥もくれない。が、今はそれでいいのだ。気づかれれば最後、その後の燈也との距離の測り方を誤ってしまいかねないから。
「――なあ、風花」
「ひゃい!?」
不意に呼ばれ、声が裏返る。その反応に燈也が疑問符を浮かべているのを見るに、頬の紅を照らすには星々の瞬きでは力不足だったようだ。
幾度か安堵の息を吐きながらぱたぱたと手で顔を扇ぐ風花に、燈也は怪訝になりながらも言葉を続ける。
「あの星はなんて言うんだ?あの白くて大きいの」
「へ?あ、あれは、ええと...コリン!コリンっていうお星様なの」
「へえ、コリンか。風花は物知りだな...」
これでも燈也は男の子なので動植物、特に危険生物などの知識には富んでいたりするのだが、話題が星のそれとなるとめっぽう疎い。
同時に風花がその手の知識に富んでいるという認識も無かったため、その博識さに素直に感心してしまう。
「そうそう、あはは...コリン、コリン...」
「――?」
勿論のことだが、コリンと名のつく星などこの空の何処にもない。それでもその在り処を問われるとするならば、地上波に乗って現れた“自称異星人”の記憶にのみ存在するとでも答えることになるだろう。
風花は燈也が芸能にも疎くて助かったと、再び安堵の息を吐いた。
――それからどれくらい経ったのだろう。数分か、はたまた小一時間か。一人は天工の成す緻密な美に、そしてまた一人は甘酸っぱい禁忌に、未だ見惚れていた。
「...ねえ、燈也」
「......ん、ごめんごめん。なんだ?」
空に奪われていた関心が、寸刻挟んで風花へ向く。すると彼女もまた同じだけの時間を置いて、
「...やっぱり何でもない。...来年もまた、一緒に見に来ようね」
とだけ伝えたその大きな瞳が、燈也の目には何故だかとても寂しげに映っていた。
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「キタ!鳥居!」
何やかんやで一行が鳥居に到着した頃には、刻は既に午後十時半を回っていた。
普段九時頃に寝付いてしまう風花にとっては真夜中と言っても過言ではない時間だ。その証左に、自転車から降りた風花の機嫌がすこぶる良くなっている。いわゆる「深夜テンション」というやつに突入したと見ていい。
「これで千回目か、なんだか不思議な気分だな」
「だよねだよね。その気分、私はもう体験済みなのです」
「そりゃまあ、風花の方が何日も前に始めてたからな」
「むー。まあいいや、とりあえず今は千回目おめでとうって言わなきゃだね。...ところでさ、燈也のお願いってなんだっけ?」
「ああ、ありがとう。俺のお願いは......って風花、それはお互い聞かないってルールだろ。もし俺が言ったら風花のお願いも言わなきゃいけないんだからな」
「うっ...ちぇーっ、惜しかったなぁ...」
過去に自分が立てたルールをちゃっかり破ろうとする風花の言に、燈也は危うく応えてしまうところだった。
上手く躱された上に諭され、すっかりぶうたれてしまった風花を背にした燈也は鳥居へ視線を戻す。そしてゆっくりと近づき、その脚に触れたその時、ふと疑問が過った。
――こんなに大きかったか?
思えば初めてここへ来た時、鳥居は燈也の腰ほどの大きさしかなかった...はずだ。「こんなのよく見つけたな」と、風花に言ったこともある気がする。
誰かに一言「そんなワケがない」と言われれば、そちらへ傾いてしまいそうなほどに確実性と現実性を欠いた推論。だが、今はそんな気がしてならない。
「なあ、風花――」
「お祈り、しないの?」
訝しげに思う声と、上目に気遣うような声。二つの声が丁度重なった。
「あ、すまん」
「あ、ごめんね。いいよ、燈也から言って」
「いや、いいんだ」
この澄んだ眼はいつも燈也に冷静さを与えてくれる。ああそうだ、生き物ですらない「鳥居」が「育つ」なんてことは有り得ない。
これはきっと思い違いで見当違いの記憶違いなのだと、燈也は自身を無理くりに納得させた。
「...よし、やるか」
鳥居の脚から掌を外して数歩下がり、鳥居を正面に見据えて始める二礼二拍手。...今や体に染み付いた作法、計一千回の集大成だ。
――どうか、叶いますように――
絞るように願いを込めた後、最後にもう一礼。...これにて燈也の御千度参りは終了だ。
深く息を吐いて振り返ると、参拝を終えたと見た風花が傍まで駆け寄ってきた。
「どう、どう、叶ってる?」
「どうかな。無理も承知のお願いだから、今頃神様も困り果ててんだろうな」
実のところ、燈也の御百度参りは神様がいると信じきっている風花のそれとはその期待値が根本から異なっている。故に彼の願いは「例え叶わなくてもどうということはない」、「仮に叶うのなら有難くその恩恵に与っておこう」というような、かなり都合のいいものにしていた。
...「叶えられるなら叶えてみろ」という、無駄に挑戦的な意図があったというのも確かだが。
何にせよその事実は風花には秘密だ。知られて嫌な顔をされるのは、とてもじゃないが耐えられそうにない。
「...ねえ、燈也」
最悪の事態を想像し苦笑する燈也を、風花が下から呼んだ。
「ん?ああ、悪い。もう夜も遅いし帰ろうか」
「いや、そうじゃなくて...」
「――?」
意図が察せず疑問符を浮かべる燈也に、風花は彼の居る...否、鳥居のあるちょうど真上、星空のあるべきところを指し、
「綺麗」
とだけ、言った。
――そして場面は、冒頭の一節へと舞い戻る。
第一話、読んでくださりありがとうございます!
拙い文ではありますが、楽しめていただけたならこの上なく幸いです。
第二話はだいぶ先になってしまいますが、また読んでいただけたら嬉しいですm(_ _)m