一
ふわりと風が吹いて、微かな芳香が漂ってきた。それは森の奥の花園に偶然居合わせたような、そんなどこか陶酔とした感覚を抱かせた。どこか濃厚な、それでいて、さらりと鼻先を撫でるような特徴的な香り……。
僕はそっと頭上へと視線を向けて、目の前をひらひらと赤い雪が落ちていくのを確かに見た。赤い、雪だった……優雅に、それはくるくると円を描きながら落ちていき、やがてそれは地上へと降り立って朱色の斑点を刻んだ。
その雪は吸い込まれることなく染み付き、強い色彩を持っていた。その雪は次々と校舎から降り注ぎ、僕はその信じられない光景を見て、そっと手を差し伸べたのだった。ちょうど掌に収まるように、そのチクリとした感触が舞い降りてきたのだ。
チクリ、とした感触……。それは赤い雪ではなかった。花弁が絡み付いて、甘い香りを運んできた。薔薇だ……薔薇が降ってきたのだ。それは有り得ない光景であるはずなのに、その屋上に小さな影が立っていることに気付くと、すぐに心が冷水に触れて張り詰めていくようでもあった。
彼女は屋上の柵の前に立ちながら、薔薇を降らせていたのだ。その赤い雪は、登校する生徒達の視界の中で深紅に瞬き、彼らの周囲に芳香を漂わせて幻覚の中に囚われさせていた。それは間違いなく幻のはずなのに、同時に、間違いなく現実のことでもあった。
彼女が赤い雪を降らせて、そしてすぐに歌い出した。
「私はあなたがこの世から去っていっても、その約束の為に、赤い雪を降らせようと思ったのです」
その凛とした声が響き渡ると、立ち竦んでいた生徒達がそっと頭上を見上げて、何あれ、と目を丸くして彼女を見つめた。僕も同じように見上げながら、ただそっと微笑んで、彼女の晴れ舞台を眺めていたのだった。
彼女は薔薇を握っては離して、を繰り返しながら、そのセリフを全く読み違えずに高らかに語り出した。
「その雪は薔薇の芳香を漂わせて、丘には赤い絨毯が敷き詰められるでしょう。私はそこに彼女の亡骸を横たえて、頬に接吻するでしょう。彼女は赤い月の下で輝き出した後、やがて星となって、夜空へと消えていくでしょう……私はその星の道標を信じながら、彼女の為に赤い雪を降らせるでしょう」
そうして彼女は歌声を風に含ませながら、薔薇を一斉に降らせた。
消えることのない粉雪が降ってくると、生徒達は悲鳴を上げてたじろくけれど、そのうちの誰かがぽつりとつぶやいたのだ。
――綺麗……。
そう、確かにそれは綺麗な雪だった。薄い青の伸ばされた空から真っ赤な花びらが降ってくるのだ。それは風の中に消えた彼女の息吹を、再び朱色に息づかせてこの目に映らせる、文字通りの魔法だったのだ。
そこで、その屋上に立っていた彼女がじっとこちらを見下ろして微笑んだ気がした。
僕はその月の光を浴びたような煌めく笑顔を見ながら、彼女と初めて会った時のことを思い出す。それは平穏な時間の流れる、本に囲まれた場所で交わした一つの約束から始まったのだ。
僕は誰かに向けて、独りごちた。今、彼女の物語を開かれた心でそっと聞いてくれますか。その話は薔薇のように鋭く尖った棘があるようで、そして花びらのように甘く、心地良い香りをもたらしてくれるだろう。
だから、僕は唇を開いた。その歌声にメロディを溶け込ませようと、自分の歌声を奏でる為に。