八 失われた過去
ためらいがちに伸ばした手は、力強い腕であっという間に引き上げられた。
誰かに助けを求めること、それに応えてもらえること――それがこんなに嬉しいことだったなんて。
それに助けを求められた彼らの満ち足りた笑顔。きっと小倉君に手を差し伸べられた時その手を取っておけば、彼もこんな風に笑顔で応えてくれたんだろうな。
「では、まず月乃の封じた記憶を呼び覚まします。でも、本当によいのですか? 幼い貴女は暗闇や夜をとても恐れ、深く眠ることもできず、ひどく衰弱して危うく儚くなるところだったのですよ」
雪はとても不安そうに私を見ると、本当にいいのかと再び確認してきた。でも私の意志はもう決まっている。だから今できる精一杯の笑顔で応えた。
「心配してくれてありがとう。でも私は、家族の最期を知りたい。それに、その時の私が何を感じて何を考えていたのかも知りたいの。だって、欠けたままの私じゃ雪を助けられないと思うから。雪たちが私を助けてくれるみたいに、私にもあなたを助けさせて」
雪は一瞬泣き笑いの表情を浮かべると、すぐに顔を伏せてしまった。
「玉屑、この子はあなたのために覚悟を決めたのよ。ここまで言わせるなんて男冥利につきるじゃない。照れてないで、あなたもさっさと腹を括りなさい」
深緋さんは美しい顔に艶然とした笑みを浮かべ、雪を促す。その言葉でやっと顔を上げてくれた雪の頬はうっすら赤く、瞳は潤んでいた。
もしかして本当に私の言葉に照れたの? え、私そんなに恥ずかしいこと言った? 友達とかいなかったから、こういうの慣れてなくて……。どうしよう、変なこと言っちゃったのかな。
雪は深緋さんを一睨みすると、一人オロオロしていた私に向き合った。
「月乃、これから見ることは全て過去の出来事です。いいですか、あれはもういません。それに、何があっても貴女のことは私が必ず守りますから」
「わかった。信じてるよ、雪のこと。だからお願い」
雪はうなずくと私の額に手を当てる。ほわっと一瞬暖かくなったと思ったら、私の意識は暗闇へまっさかさまに落ちていった。
※ ※ ※ ※
「おにいちゃん、こんなとこでなにしてるの?」
見上げた先にあったのは、ひどく驚いた雪の顔。きょろきょろと左右を見回した後、再び私を見る。その顔は戸惑いに揺れ、同時にどこか嬉しそうにも見えた。
「あ、あなたは私が見えるのですか?」
見える。それはもうはっきりと。
だから私が肯定の意でうなずくと、雪はわたわたと意味なく腕を動かし「どうしよう、どうすれば」と繰り返し呟いていた。
「その、私のことは誰にも言わないでください。秘密です。わかりますか?」
「うん。わかった、つきのとおにいちゃんだけのひみつだね!」
そして私たちは指切りをしてその日は別れた。
――そうだった。ずっと昔、私は雪と出会っていたんだ。
「おにいちゃん、みつけた!」
次の日、私はまた神社に来ていた。昨日は七五三のお参りで家族と来ていたのですぐに帰ったのだけど、今日は雪に会うために一人で来たのだ。
「そんな!? 今日はちゃんと隠れていたのに。ええと……お嬢さん、今日はどうしたのですか?」
「あそびにきたんだよ。おにいちゃんひとりでさびしそうだったから、きょうからつきのがあそんであげるね」
幼い私は扉の格子の間から手を伸ばし、社の中にいた雪を捕まえた。着物を掴まれ戸惑う雪は、困り顔なのに嬉しそうに見える。その後小さな子供のしつこさに折れた雪は、仕方ないと言いながらも私と遊んでくれた。
こうして通い妻の如き甲斐甲斐しさで毎日のように神社に押しかけ、毎回どこかに隠れている雪を見つけ出しては遊び相手にしていた。
しばらくそんな日々を送っていたのだが、いつからか妙な視線を感じるようになった。日が出ているうち、神社にいる間はさほど気にならないのだけど、夕方以降それの存在は顕著になる。特に暗がりから、絡みつくようなじっとりとした視線を感じるようになった。
おばあちゃんにそのことを言ったら、それとは決して目を合わせてはいけないと言われた。だから私は暗がりをなるべく視界に入れないように、夜は一人にならないように気を付けた。
ぎしっ、ぎしっ、かりかり、かりかり――
しかしそれは暗闇からこちらを窺いながら、徐々に近づいてきていた。
始めは視線だけだった。しかしそれはやがて自分の存在をしきりに訴えてくるようなった。廊下をうろつく足音、畳を爪でひっかく音、そして稀に聞こえてくるのは何かを呟く低い低いしゃがれ声。
それのせいで私は眠れなくなった。眠ったらそれに捕まってしまう気がして、幼い私は泣きながら眠ることを拒否し続けた。そんな私の様子を見かねて、おばあちゃんが神社からお札を貰ってきてくれた。それ以降、それは家の中に入ってくることはなく、ようやく私は眠れるようになったんだっけ。
平和な日はそれから四年ほど続く。一時期あれだけ悩まされていた視線や音は今やその鳴りを潜め、私はそれのことを幼いころの妄想として忘れてしまっていた。まさか雪がずっと守ってくれていたなんて思ってもいなかったから。
私は相変わらず神社に通い、雪と毎日のように遊んでいた。雪はそんな私に合わせる為に子供の姿になってくれていたのだが、その姿こそが早雪の正体だったというのを今やっと思い出した。こんな大切なことまで忘れてしまっていたなんて……。そうだ、私の大切な幼馴染は神社のお兄ちゃん――雪――だったんだ。
――そして、運命の日を迎える。
あの日、真っ黒な塊が異臭を放ちながら私たちを追いかけてきた。
腐った肉塊を撒き散らし、パンパンに膨らんで網のような血管が浮かび上がった鼠色の無数の腕。それは生まれるそばから腐り落ち、赤黒く汚れた骨だけになっても私を求めて次から次へと生み出されていった。
父はそんな化け物から必死に逃れようとアクセルを最大限踏み込み、トップギアで崖道をひた走った。けれどそれも私たちを逃すまいと狂ったように追走してくる。徐々に距離を詰めてくるそれがついにバンパーに手をかけた時、その衝撃で私は振り返ってしまった。あれほど目を合わせてはいけないと言われていたのに、見てしまったのだ――――それの、目を。
底なしの井戸のように暗く冷たい、魂が引きずりこまれそうな二つの空ろ。私は呼吸することすら忘れ、ただただ魅入られたようにそれを見つめていた。
そしてそれは笑った。そう、確かに笑ったのだ。その瞬間、先程より大きな衝撃が私たちを襲い、次いで不快な浮遊感が襲いかかってきた。
お母さんは私を守るように抱きしめ、それをおばあちゃんがさらに抱きしめる。崖から車ごと転落して、今まさに死へと向かっている状況だというのにも関わらず、私はその時とても安心していたことを思い出した。
鳴り響くクラクションの音で目が覚めた。
とにかく体中が痛かった。
「つぅ……う……、いたい、よぅ。お母さん、いたい。くるしい、うで、きつい」
抱きしめてくれているお母さんの腕の力が強すぎて、呼吸もままならない。私は必死にお母さんに訴えかけたのだけど、お母さんからは何の返答もない。
私は今にも閉じそうになる重い瞼を無理矢理開き、痛みをこらえながら顔を上げた。
目を開けて最初に見たのは、何も見ていない虚ろなお母さんの目。次は赤く汚れた天井や窓。
私は何が起きているのか理解できなくて、ううん、理解したくなくて。力なくだらりとうなだれるお母さんに何度も何度も声をかけた。お父さんとおばあちゃんも呼んだ、何度も何度も。
でも、誰からも返事が返ってくることはなかった。
「やだ……やだよ、ねえ、起きて。ねえってば! お母さん、おばあちゃん、お父さん!! やだ、やだやだやだやだやだやだ、起きてよ、やだよ、何で……」
本当はもうみんなが二度と目を開けないことはわかってた。だって、私を抱きしめるお母さんの顔はありえない角度で私を見ていたし、おばあちゃんの頭は背中の方を向いていた。そしてお父さんの座っていた座席のリクライニング部分とヘッドレストの間からは、真っ赤に濡れた木の枝が生えていた。
赤、赤、赤――――
目の前に広がるのは、真っ赤な地面。
温いそれは私の顔を濡らし、手を真っ赤に染め、目の前の彼の温もりを奪っていく。
「薬鷹、ねえ、返事してよ。お願い、目を開けて! やだよ……ねえ、起きてったら!!」
誰かが叫んでいる。ここはどこ? 私は車の中にいたはずなのに、いつの間にか地面に座っている。しかも血まみれの男の人をかき抱いて泣き叫んでいた。
わからない。一体何が起きているの? 今まで見ていたのは七歳の頃にあった事故の夢……、そう、夢だ。私は夢で過去の記憶を見ていたんだ。
それなのに、これは何? 知らない、私はこんなの知らない。見たことない景色、見たことない人たち、知らない体。…………待って、本当に知らない景色? 人?
知らないはずなのに、妙に懐かしい。ずっと昔、私はどこかでこの景色を見たことがある。でもどこで? わからない、わからないけど知っているはず。
「お前の所為だ。お前さえいなければ、弟は……、薬鷹は死ぬことなんてなかったんだ」
龍臣さんと同じ顔を持った男の人が近づいてきた。右手に日本刀と包丁の中間のような刃物を持ち、刃からは血を、瞳からは涙を流しながら、ゆらり、ゆらりと。
「連翹! あなた、自分が何をしたかわかっているの!?」
レンギョウ……って、もしかしてこれ明け方に見た夢の続き? そうだ、このレンギョウって人見覚えがある。確かにあの夢に出てきた人だ。
そして私の腕の中には血塗れの青年が横たわっていた。こちらも龍臣さんと瓜二つの顔。でも呼ばれていた名前が違った。刃物を持って憎しみを滾らせながらこちらを睨みつけてくるのがレンギョウ。私の腕の中で動かないのがクスタカ。
私が抱いている方のクスタカという人は、もはやピクリとも動かない。だらんとした体は既に魂が抜け出た後なのだろう。しかしこの体の持ち主は彼の死を拒絶し、温もりを失いつつある体をひたすら揺さぶり、何度も何度も呼びかける。
「千歌、全部お前の所為だ。お前が俺になびいてりゃ、こんなことにはならなかった」
「ふざけないで!!」
二人は悲しみと憎悪の炎を滾らせ、涙を流しながら互いを罵りあっていた。
流れ込んでくる彼女の怒りと悲しみで心が焼き付きいてしまいそうだ。聞きたくない、見たくない、もう嫌だ。私の心が悲鳴を上げ始めたその時、ついに彼が動いた。
彼は右手に持っていた刃物を振り上げ――――
※ ※ ※ ※
「やめて!!」
振り下ろされる刃から身を守ろうと腕を滅茶苦茶に振り回し、私は死に物狂いでもがきながら叫び続けた。
「月乃、大丈夫です、もう大丈夫ですから。落ち着いてください、全ては過去のことです。今はもうあれはいません、もう大丈夫です。だから……」
気がつくと私の両腕は大きな手に掴まれていて、目の前には泣きそうな雪の顔があった。
まだ心臓がどきどきしている。黒い塊に捕まり、刃物が振り下ろされた瞬間、殺されると思った。むせかえるような鉄錆の臭い、血のぬるりとした感触、焦点の合わない瞳、体の痛み――。
違う、違う違う違う。事故の記憶と変な夢が混じり合ってる。
「私は、私は月乃。日月月乃、十六歳、高校一年生。今は七歳じゃない、黒いのはもういない、レンギョウなんて、クスタカなんて知らない。私は月乃、チカじゃない。私は…………」
「月乃、一体どうしたというのですか!? もしかして何か別の記憶が混濁してしまっているのですか」
気持ち悪い。胃の中のものがせりあがってくる。慌てて口を押さえようとしたけど、私の手は雪に掴まれたままだった。
「どいてください、玉屑様!」
青丹さんの鋭い声が飛び、反射的に雪が私の手を離す。それと同時に私は胃の中のものを全て吐きだした。
背中を優しい手が何度もさする。胃の中のものを全部出したからかその手の心地よさのおかげか、気持ち悪さがだいぶ和らいできた。
「う……、ごめんなさい…………」
「月乃が謝ることなんてないわ。悪いのはそこで転がっている玉屑なんだから」
そう言った深緋さんの視線の先には、なぜかうつぶせで転がっている雪がいた。そういえば青丹さんの声と同時に目の前から雪の姿が消えたような気がする。
「ひっでぇ、さすが青丹。邪魔だったからって自分の主を蹴り飛ばすとか、オマエ鬼かよ」
「蹴り飛ばしてなどいないですよ。嫌ですね、一体何を言っているんですかあなたは。わたくしが玉屑様に危害を加えるなどあるはずないではないですか。今のは玉屑様が自ら飛ぶようにどいてくださったのです」
うん、何となく状況はわかった。
そうするとあまりの雪の不憫さと、青丹さんの冷徹さというか鬼畜さに思わず笑いがこみあげてきてしまう。悪いとは思ったんだけど、こらえ切れなくなってついには吹き出してしまった。もう顔中、涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃだ。
私の笑いの発作が治まるのを見計らったかのように青丹さんが蒸しタオルを差し出してくれた。
「どうぞこちらをお使いください。お召し物の方はすぐに代わりをご用意いたします」
テキパキと片づけてゆく青丹さん。いつの間にか吐瀉物の入った洗面器は綺麗に片づけられていて、床も染み一つなく磨きあげられていた。
「何から何までありがとうございます。それと色々汚して、不快な思いをさせてしまってごめんなさい」
「月乃、あなたは本当に馬鹿ね。友達ならそんな些細なこと気にしないわ。それにね、そんなことよりあなたの体の方がよっぽど気になるし心配だわ」
今、友達って言われた。
ぽかんと深緋さんを見ていたら、怪訝な顔をされてしまった。
「何? そんな鳩が豆鉄砲食らったような顔しちゃって。当たり前のことでしょ」
この人、ものすごくいい人だ。あれ、いい神様かな? まあいいや。いきなり本妻だなんだと言い出した時は正直どうしようかと思ったけど。ライバル視していたのに意地悪されるわけでもなければ、反対にものすごく気遣われてるし。どうしよう、しかも友達って言われた! 初めて女の子の友達できた!!
嬉しくて泣きそう。そう思っていたら突然肩を叩かれ、振り返るとしたり顔の松葉さんがいた。
「ツッキーも気づいちゃったね、うちの深緋様の可愛さに。なんならファンクラブ入る?」
思わず二つ返事でうなずいてしまった。そんな私たちのやりとりに深緋さんが顔を真っ赤にしながら割って入る。
「ば、馬鹿じゃないのあんたたち!! それにファンクラブって松葉、あんたまだそんなものやってたの!? ああもう、どや顔でにやつくな!! 腹立つのよ、その顔」
真っ赤な顔で一気にまくしたてると深緋さんは松葉さんの襟首を掴み、そのまま庭に通じる大きな窓めがけて投げ飛ばす。そこへタイミング良く現われた青丹さんが窓を開け放ち、二人の流れるような連係プレーにより、松葉さんはいい笑顔とともに池の中へと消えていった。
その後私はお風呂をいただくことになり、その間に別の部屋に昼食が用意されることになった。私の分は池からサルベージされた松葉さんがそのまま買いに行ったらしい。
さっきのどたばたのおかげで悪夢の恐怖はだいぶ薄まり、なんとか気持ちも落ち着いてきた。それにしてもひどい夢だった。確かにあれはトラウマになる。忘れていたおかげで私は今まで生きてこられたんだ。だって、もしあれをそのまま憶えていたら他のことと相まって、きっと私の心は壊れていた。
思い出したら自分のことを許せなくなるって雪は言ってたけど、やっぱりそんなことはなかった。確かに原因の一端は雪にあったかもしれない。でも、雪と友達になるのを望んだのは私。だからそもそもの原因は私だ。そうだ、むしろ私のせいで家族が巻き込まれたんだ。
ごめんなさい、お父さん、お母さん、おばあちゃん――。
「月乃、湯中りなんかしてないでしょうね」
返事しようと口を開けかけた時には、既に扉は思いきり開け放たれていたけど。
とりあえず体洗い終わっててよかった。丁度湯船に浸かっているところだったから、裸は見られずに済んだ。
「ねえ、あなた着物一人で着られる? 青丹が用意した代わりの服って着物なのだけど」
深緋さんは呆然とする私にお構いなしで話を進める。
「無理です。浴衣くらいならなんとか着れなくもないですけど、着物は無理です」
すると深緋さんはふふんと得意気な笑みを浮かべ、何か呟いた。私の聞き間違いじゃないなら、「着せ替え人形ゲット」と聞こえた気がしたんだけど……。
「じゃあ、次からは私の服を貸してあげるわ。とりあえず今は青丹の用意した着物着せてあげるから、のぼせないうちに早くあがってらっしゃい。あ、下着は新しいもの用意させたから安心して」
言いたいことだけ言うと、彼女はさっさと引っ込んでしまった。
何かよくわかんないけど、扉開けっぱなしだしとりあえず出よう。この状態で長湯とか出来るほど神経太くないし。
よくわからないまま湯からあがり脱衣所へ行くと、深緋さんが待ち構えていた。あれよあれよという間に着付けられ、髪の毛を乾かされまとめられ、私は引きずられるようにお風呂場を後にした。