七 深緋と松葉
勢いで飛び出してきちゃったけど、どうしよう……。
迷路のような蛇長屋で私はまた迷子になっていた。
何も考えず飛び出しやみくもに走ったので、どこをどう通ってここまできたのかわからない。待っていればそのうち雪が迎えに来るかもしれないけど、今はまだ戻りたくなかった。このもやもやを何とかしないとまた雪に当たってしまいそうだったから。
「だいたい雪は私をどうしたいの!? 赦されたいから償うように守って、嫌われたくないから大事なことは言わない、で全部終わったらハイさよならって……もう、ほんとなんなの!! バカバカ雪の変態露出狂!」
「それは確かに馬鹿ね。いえ、馬鹿というよりヘタレかしら? しかも露出狂なんて救いようがないじゃない」
誰もいないと思って声に出していたのに、突然横から同意が返ってきた。反射的に声の方を見たら、ものすごい美少女がいた。見た目の年齢はたぶん私と同じくらい。青丹さんより上で雪より下って感じ。
深紅の巻き髪をツーサイドアップにして、胸元がレースアップされたふりふりのワンピースにケープと、その姿は職人が丹精込めて作り上げた等身大ビスクドールみたいだ。しかもこの子、眉毛もまつ毛も、もちろん瞳も深紅。こんなに綺麗な女の子、生まれて初めて見た。
「住人から通報があったのよ。人間が長屋に迷いこんで騒いでいるって。あなたでしょ、迷いこんだ人間って」
あ、なんだかものすごくデジャヴ。
「すみません。大変お騒がせしました」
素直に謝ると美少女は、それはそれは麗しい天使のような頬笑みを返してくれた。
「あなた面白いわね。いいわ、夕方になったら私が町へ送ってあげる。そうね、それまでは……私の家にいらっしゃいな。さっきのヘタレへの愚痴、続き聞いてあげるわ」
またもやデジャヴ。この子、昨日の雪にちょっと似てる。
と、微笑ましい気分になっている場合じゃなかった。いくらなんでも初対面の人について行くわけにはいかない。
「あ、いえ、ごめんなさい。私、ここでちょっとの間居候させてもらってる身なので、その人に連絡しないと。と言っても喧嘩して飛び出してきちゃったんですけど」
「居候? 人間をここに? 一体誰が……」
美少女が怪訝な顔をして首を傾げると、曲がり角の向こうから声がした。
「私です」
そこから現われたのは――
「雪」
「玉屑」
私たちは同時に名前を呼んだ後、思わずお互いの顔を見てしまった。雪はそんな私たちの前に来ると、美少女を一瞥してから私の方を見た。
「月乃、一人で行動するのは危険です。いちおうこの一帯の安全は確認してありますが、万が一ということもあります。それに朝食もまだでしょう? さ、戻りましょう」
まるで何事もなかったかのように振る舞う雪にさっきの怒りがぶり返す。私は咄嗟に美少女の後ろに隠れ、無言の抵抗を試みる。
「玉屑、私いまいち事情がわからないのだけど。一体これはどういうことかしら?」
美少女は私を背にかばってくれたまま雪を見上げる。すると雪はばつが悪そうに美少女から目をそらした。
「これには色々と事情がありまして……」
「だからその事情を聞いているんじゃないの。玉屑、許嫁の私に黙って女を連れ込むなんていい度胸じゃない」
許嫁……? この美少女と雪が?
驚きのあまり美少女の後ろから雪の顔を思いっきり凝視してしまった。
「嘘を言わないでください、深緋。貴女とは対ではありますが、番になるつもりはないと普段から言っているではないですか」
雪は苦虫をかみつぶしたような顔で、美少女の許嫁発言をきっぱり否定した。
それを聞いて、心のどこかにホッとする私がいた。でも何で? 私は何にホッとしたの? 私と雪は友達で、雪に許嫁がいたからってその友情に支障があるわけじゃないのに。
そんな私の葛藤など知る由もない美少女は、またしても爆弾発言を落とした。
「あら、私たちもう同棲もしているし、夫婦みたいなものじゃない。それにそもそも貴方は私の番候補として拾われたのよ。最初から貴方に選択権なんてないわ」
美少女が勝ち誇ったように宣告する。
「横暴です! 自分の番くらい自分で見つけます。それに同棲などと人聞きの悪い。だいたいあの屋敷に一体何人が住んでいると思っているんですか」
美少女と雪は私のことなどそっちのけで言い争いを始めた。
これ、私どうすればいいんだろう。
二人の言い合いを少し離れた所から見守っていると、不意に誰かに肩を叩かれた。青丹さんが来たのかと思って振り返ると、頬に指を刺すという古典的ないたずらをされた。
「こーんちは。ごめんねぇ、うちのお嬢様、玉屑様見るといっつもこうなんだよねぇ。なんてぇの? 好きな子ほどいじめたいってやつ?」
人の頬に指を刺したままへらへらと話しかけてきたのは、茶髪パーマで両耳にいくつものピアス、Tシャツにハーフパンツという軽そうな見た目の男の子だった。
でもこのチャラ男、どこかで見たことあるような?
「…………わかった! 青丹さんだ」
そう、青丹さんだ。雰囲気はまったく似てないけど、顔はそっくり。
私が一人納得してうなずくと、チャラ男くんはとても嫌そうな顔をした。
「ちょっ、やめてよ! オレとあんな枯れた堅物とどこが似てんのさ。オレあんなジジ臭くないし、無表情能面ヅラじゃないし、女子に優しくがモットーだし――」
「それはこちらの台詞です。あなたのような猥褻物と一緒にされるなど心外です」
いつの間にか背後に青丹さんが立っていて、こちらも無表情ながら嫌そうな雰囲気を醸し出していた。どうやらこの二人はあまり仲が良くないらしい。こっちでも言い争いが始まったら、もう私じゃどうしようもない。
「青丹さん、喧嘩してる場合じゃないです。あの二人止めてください。今ここで頼りになるの、青丹さんしかいないんですから」
なんとかこの状況を打破しようと青丹さんに縋る。すると、なぜかチャラ男くんが張り切りだした。
「カワイイ女の子の頼みならオレに任せろ! ちょっと待ってて、すぐ止めてくるから」
そう言って元気に飛び出していったチャラ男くん。なんだかよくわからなくて隣の青丹さんを見ると、彼は呆れたように彼を見送りながらため息をついた。
「本人がああ言っているのですから任せましょう。大丈夫ですよ。あれが行けばすぐ終わりますか――」
青丹さんの言葉が終わらないうちにサンドバッグを殴ったような重い音が響き、直後チャラ男くんが盛大に宙を舞った。
「さて、深緋様の憂さ晴らしも終わったようです。今なら安全ですので、お二人のところへ参りましょうか」
そう言った青丹さんの顔は、今まで見た中で一番生き生きとしていた。
チャラ男くんの尊い犠牲のおかげで二人の口論はおさまったらしく、雪は疲れたような、美少女はすっきりした顔で立っていた。チャラ男くんは青丹さんが回収してきて、今は彼の足下で転がされている。
「まったく。お二人とも上に立つ者としての自覚をもう少しお持ちください。このような場所で騒ぎを起こすなど、どういうおつもりですか。御覧なさい、住人たちがすっかり怯えてしまっていますよ」
青丹さんのお説教に雪と美少女はきまり悪そうに目をそらす。二人とも、お母さんに叱られている子供みたいでちょっと微笑ましい。
いまいちみんなの立場が分からないけど、たぶん公に偉いのは雪や美少女で、実質強いのは青丹さん。チャラ男くんは……ムードメーカー?
「でも、玉屑がいけないのよ! 私というものがありながら浮気するんだもの」
「だから! 浮気も何も、私たちはそういう関係ではないでしょう」
再び二人が言い争いを始めようとしたその時、地の底から響くような声がその場を凍りつかせた。
「わかりました。どうやらお二人とも神使としての自覚が足りないようですね。これは再教育が必要でしょうか」
その言葉に雪と美少女は即座に口をつぐみ、間髪を容れず土下座した。気のせいか足下のチャラ男くんも微かに震えているように見える。
三人をここまで従順にさせる青丹さんの再教育って、一体何をされるんだろう……。
一連のやり取りを見ていたら、さっきまでの怒りがすっかり治まってしまっていた。あの時は何とも言えない悔しいような悲しいような気分だったんだけど、一度冷静になると何であんなに怒っていたのかわからなくなった。
そもそも私と雪はただの友達――雪の方はどう思ってるかわからないけど、少なくとも私は友達だと思っている。それにさっきは拒絶されたって思ったけど、普通に考えたらあれは私の為を思っての言葉だ。ここの食べ物を食べてしまったら、私はもう二度と元の世界に帰れなくなる。
私だって雪の立場だったらそんなこと勧められない。さっきは何であんなに悲しかったんだろう。何が悲しかったんだろう。雪が言ったことは正しい。それの何が嫌だったんだろう。
自分の気持ちがわからなくってもやもやしていると、突然美少女が目の前に立った。
「いい、本妻は私よ。いくらあなたが玉屑とただならぬ関係だったとしても、妻の座は譲らないわ!」
美少女がびしっと私を指さしながら、何か意味のわからないことを言っている。私はその言葉が即座に理解できなくて、ぽかんと口を開けたまま、ただただ彼女を見ていた。
「ななな、何を言い出すんですか! 私と月乃はそんな関係ではありません!!」
呆けている私の代わりに、雪が頭を壊れそうなほど振って必死で否定してきた。
そこまで否定されると、それはそれで年頃の乙女としては少々傷つく。
「私、この子から直接聞いたのよ。玉屑、あなたこの子の前で脱いだんですって? 私だってまだ見てないのに、ずるいわ!!」
そういえば言ったっけ、美少女の前で雪のこと露出狂って。さっき私が玉屑さんのこと雪って呼んだから、その露出狂が玉屑さんのことだってわかっちゃったんだ。誤解を招くような言い方してごめん、雪。あの時はまさか誰かに聞かれてるなんて思ってなかったんだよ。
「あ、あれは不可抗力だったんです! それに蛇の姿の時は着物なんて着ていないんだから仕方ないでしょう。しかもあの時は緊急事態で、着物のことなんて忘れて変化してしまったんですよ」
そうだったんだ。私はまたてっきり、蛇の時は裸だから人の時も裸でいるのに抵抗ないのかと思ってた。よかった。普段はちゃんと服着てるんだ。
それに頬や耳が赤くなっているところをみると、恥じらいも感じているらしい。本当によかった。
「お二方とも、いい加減場所変えません? ここ暑いんで、オレとしては青丹ん家かお屋敷に戻りたいんスけど」
さっきまで転がっていたはずのチャラ男くんがいつの間にか復活していた。
「そうですね。わたくしもお二方には色々と申し上げたいことがございますし。月乃様のこともありますので、一度お屋敷の方に戻りましょう」
うっすら微笑んだ青丹さんの言葉に雪と美少女は絶望の色を浮かべ、結局そのまま有無を言わさず連行されることになった。
昨日から私がお世話になっていたあの家は、実は青丹さんの家だったらしい。そして今、目の前に広がる長い長い塀に囲まれた広大な日本家屋、これが雪の家だそうだ。
「……すごい。池ならともかく、川まで流れてる庭なんて初めて見た。こういうの何て言うんだっけ……寝殿造り?」
ただ、私が教科書で見た寝殿造りより随分と奇怪な作りになってるみたいだけど。そもそもここ平屋じゃないし、なんかちらっと石造りの塔みたいのも見えたし。一体どうなってるんだろう……。
「よく知っていますね。ここを建てた当時の流行りだったようですよ。私も生まれる前なので当時のことは知りませんが、先代の趣味だそうです。ただ……」
「先代、私のお母様の趣味で時代時代の流行を取り入れては増改築したせいで、今は迷宮と化しているわ。住んでいる私たちでさえたまに迷うのよ」
雪と美少女は遠い目をしながら何かを思い出しているようだ。この迷宮、もとい家で暮らすのはきっと大変だったんだろう。
そんな迷宮をものともせず、青丹さんはすたすたと迷いない足取りで進む。長い廊下をしばらく進むと、庭に面した大きな部屋に通された。
猫足のクラシカルな応接セット、シャンデリア、寄木細工の床と、そこは完全なる洋室だった。さっきまで襖がずらりと並ぶ廊下を歩いていたのに、急にドアが現われたと思ったら洋室だ。これは戸惑う。なんていうか、カオスだ。
そんな私の戸惑いをよそに、青丹さんはお高そうなコーヒーテーブルの上にコンビニ袋から取りだしたものを次々と並べてゆく。
「月乃様、朝食はしっかり召し上がらないとお身体に障ります。そして玉屑様、深緋様、お二方はまず落ち着いて話し合いをなさってください。現状の確認が終わり次第これからのことを考えましょう」
青丹さんに言われて体が急に空腹を思い出した。そういえば昨日の夜から何も食べていない。
テキパキと青丹さんがお皿にサンドイッチを並べ、コップにお茶を注いでくれる。そして、それを並べるそばからチャラ男くんが口に放りこんでゆく。
「松葉、これは月乃様のお食事です。まったく、あなたときたらいやらしいうえに卑しいなんて、本当に救いようがないですね。このような阿呆と同じ血を分けているかと思うと、本当に自分の出自を呪いたくなります」
「うっせ、クソ青丹。オレだって好きでお前の兄ちゃんやってんじゃないやい。あ、たまごサンドもーらい」
チャラ男君改め松葉さんは、青丹さんのお兄さんだった。どうりでやたら顔が似ていると思った。まあ、性格は正反対みたいだけど。
私と松葉さんが和やかな朝食を取っている傍ら、青丹さんと雪と、美少女こと深緋さんが今までの出来事のすり合わせをしていた。しばらくするとその話し合いも終わったらしく、深緋さんが大きなため息をつきながら頭を抱えていた。
「要するに、玉屑がうっかり幼女に手を出したせいで余計なモノを呼びよせて、挙句その子の人生を狂わせ、その罪滅ぼしとか言いながらストーカーしてたら、今度は別のモノが出てきて今に至る、と」
深緋さんは一息でそこまで言うと再び大きなため息をつき、うなだれる雪を呆れた表情でねめつけた。
「まったく。ここ十年、何かこそこそ動いているとは思っていたけれど……。あの日突然、神堕ちと戦ったので力を失いました。とか言われた時はふーんとしか思わなかったけど。そう、女がらみだったのね。まったく、何で私の周りには色惚けしたフヌケ男しかいなのかしら」
深緋さんが虫けらを見るような目で雪たちを見ると、うなだれていた雪が不服そうな顔で深緋さんをうかがう。
「深緋、言い方に何か悪意が感じられるのですが。それに、色惚けではないです」
「色惚け男って他に誰がいるんスか?」
「あなた以外いないでしょう、松葉。阿呆なんですか? ああ、阿呆なんですね」
雪に続き、空気を読まない松葉さんが小首を傾げながら深緋さんに不思議そうに尋ねると、今度はそれに青丹さんが嫌味を言う。この人たちは放っておくと、こうしてどんどん脱線していくような気がする。
頼りの青丹さんも、松葉さんがいるとどうにもぐだぐだになってしまうようだ。だったらここは、当事者である私が動かなくては。
「あの! ええとですね、これからのこと……なんですけど。私、ここにいてもいいんでしょうか?」
声をかけたはいいものの、最期の方は蚊の鳴くような声になってしまった。
だって、私なんかがここにいても迷惑でしかないはずだ。呪いは解けたって言ってたし、あとは雪が記憶を返してくれれば彼の償いはとりあえず終わるはず。雪が何と言おうと、私としてはもう十分によくしてもらったし、これ以上の償いなんていらない。ましてや龍臣さんのことは雪とは関係ないんだから、雪が私を守る必要はない。
それがわかっているのにわざわざ質問した私はずるい人間だ。雪は優しいから、きっとここにいていいって言ってくれる。それを見越して質問したんだから、本当にずるくて臆病で嫌になる。
「ごめんなさい、今の無しで! 私、記憶返してもらったら帰ります」
自分の図々しさに恥ずかしくなって、私はすぐに前言撤回した。しかし一度発してしまった言葉は取り消せない。案の定、雪たちはなんとも微妙な表情をしていた。
「月乃、それは私が頼りないから助けはいらない……ということですか?」
雪の声がいつもより冷たい。やっぱり怒らせたんだ。
「違う、違うよ! 雪はいつだって私を助けてくれたし、誰よりも頼りになるよ。でも、これ以上は迷惑かけられないから……」
「私は貴女に随分と見くびられていたのですね」
どうしよう、雪が何で怒ってるのかわからない。こんなところで自分の対人スキルの低さを思い知らされるなんて、本当にどうしようもない。
「ごめんなさい、でもそんなつもりじゃ――」
「月乃、私は貴女に謝ってほしい訳ではないのです」
「でも……、じゃあ、どうすれば」
どうしていいかわからずオロオロする私のおでこに、深緋さんのデコピンがおとされた。
「馬鹿ね、月乃は。簡単じゃない、たった一言『助けて』って言えば、このヘタレの矜持は満たされるのよ」
呆然とする私に笑いかけてきた深緋さんの目は、まるで出来の悪い娘を見守る母親のように優しかった。
――助けて
いつも言いたかった。誰でもいい、誰か助けて、って。でも言えなかった。だって、それを言ったらその誰かが傷つくから。でも本当は、私がその誰かに嫌われてしまうのが怖かったんだ。だからみんなから距離を置いた。そうすれば少なくとも直接拒絶はされないから。そうすれば、かろうじて人の輪に引っかかっていられる気がしたから。
怖い。今までちゃんと関わってこなかったから、今さらきちんと人と関わるのがとても怖い。心をさらけ出すのが怖い。信じるのが、怖い。
「ツッキーは考え過ぎなんだよ。人間関係なんて一期一会、出会いがありゃ別れもあるんだから。そん時そん時で楽しんじゃえばいいんだよ。裏切られたらそん時はそん時だって」
「松葉、あなたは少々刹那主義すぎますがね。月乃様、この莫迦の言うことですが、あながち間違いでもありません。それに、貴女はもう少し御自分に自信を持たれた方がよろしいですよ」
雪、深緋さん、松葉さん、青丹さん――――
まだ会って間もない私に、迷うことなく手を差し伸べてくれる優しい人たち。この人たちになら、たとえ裏切られたって後悔しない。だったら、初めて助けを請うならこの人たちがいい。
「お願い、私を……助けて!」
初めて口にしたその言葉に返ってきたのは、四つの満面の笑みだった。