五 雪と玉屑
「蛇神……さん?」
目の前で微笑んでいるのは、ここにいるはずのない人だった。
なんで? 蛇神さんは町に住んでいるはずなのに、なんで今ここにいるの?
「失礼しますね」
ふわっと白檀の香りが鼻をかすめた瞬間、頬に冷やりとした布が押し当てられた。
「冷たっ……、ええ!? なんで蛇神さんがこんなところにいるんですか!」
呆然とする私を見て蛇神さんは困ったような笑いを浮かべる。
「ええとですね……その、こんなところがこちらでの私の家でして」
「あ、ごめんなさい! そういうつもりじゃ……って、もしかして蛇神さんってここの神主さんだったんですか?」
でも、ここの神主さんっておじいちゃんじゃなかったけ? そもそもこんな目立つ人がいたら今まで気づかないわけないし、村で噂にならないはずがない。
「いえ、神主ではありません。私は神使です」
「しんし……真摯……紳士?」
何かの冗談? ちょっと意味がわからない。
困惑する私を見て彼は苦笑すると、「あれです」と境内にある一対の蛇の石像を指差した。
「神の使い、それが神使です」
ますます意味がわからない。神使はわかったけど、それと蛇神さんがどう繋がるんだろう?
「名乗った時言いましたよね、蛇神と」
「はい。でも、それ名字ですよね?」
すると蛇神さんは「いいえ」と困ったような笑顔を浮かべた。
「蛇神というのは種族名でして、“人間”とか“蛇”のような通称です。ですので、今後は玉屑と名の方で呼んでください。もしくは――」
蛇神さん改め玉屑さんの荒唐無稽な話は私の常識ではとうてい理解できず、思わず眉をひそめてしまった。何か言いかけていた彼はそんな私を見ると、「当然ですよね」と少し悲しげに呟いた。
「このような話、にわかには信じられないのも当然です。ですから、これより証拠をお見せします」
そう言って玉屑さんは目を閉じ、深呼吸を一つした。すると次の瞬間、彼の頭がまるでゴムのように伸び始めた!!
私は目の前で起きている異常事態に悲鳴をあげることすら忘れ、飴細工のように変化する彼をただ呆然と見つめていた。縄のように細長くなった身体は瞬く間に白い鱗に覆われ、主を失った薄墨色の着物の中から現われたのは――――
「ゆ……き?」
さっきまで一緒にいたはずの、白蛇の雪。
そういえば手水舎の方に行ったきり戻ってきてない。入れ替わるように現われた玉屑さんに気を取られていて、雪のことをすっかり忘れていた。
『はい。貴女が雪と名付けてくださったこの姿が、蛇神である私の本性です』
さっきから夢みたいなことが立て続けに起き、私の脳はオーバーヒート寸前。蛇の雪が喋って、人だと思ってた玉屑さんが蛇になって、雪が玉屑さんで玉屑さんが雪で――。
でもちょっと待って。雪と玉屑さんが同一人物だったのなら、なんで昼間会った時知らんぷりしたの? まあ、確かにあの時の玉屑さんに「実は私、白蛇の雪なんです」なんて言われても信じなかったと思うけど。でもだったら、今みたいに目の前で変身してくれればよかったんじゃない?
「ゆ、じゃなくて玉屑さん」
『今まで通り雪で構いませんよ』
「じゃあ、雪。雪が玉屑さんだったんなら、なんで昼間会った時に教えてくれなかったの?」
『こちらにも色々と事情がありまして……。それに、まさか貴女があそこへ迷いこんでくるとは思ってもいませんでしたので、私も少々混乱していたのです』
たかが路地に迷いこんだだけなのに? 道があるってことは、誰でも来る可能性があるんじゃないの? それなのに雪は私が迷いこんできたことがまるでありえないことみたいに言う。
そんな私の疑問を察したのか、雪は居住い(?)を正して私に向き直ると話を続けた。
『月乃、貴女が迷いこんだのは蛇長屋という場所です。あの場所、何かおかしいと思いませんでしたか?』
おかしいか、と問われれば、ちょっとおかしかったと思う。大通りからすぐのところにあんなレトロな路地あるなんて今まで全然知らなかったし、村でも学校でも聞いたことがなかった。確かにこの町には古い建物の残っている地区もあるけど、あんな風に隙間なく庶民的な家が立ち並ぶ感じではなく、だいたいはもっとゆったりしたお屋敷が多い。そもそもあんな場所、本当にこの町にあっただろうか?
あの時、私はせめて自分がどこにいるのかを確認しようとした。なのにあそこは町内地図はおろか、街区表示板さえ見当たらなかった。だから私は自分のいる場所がどこなのか見当がつかなくて、結果途方に暮れていたんだっけ。
それにあそこはなんていうか、人の気配というか生活感? そういうものが全く感じられなくて――
「うまくは言えないんだけど、なんか現実感に乏しくて……白昼夢でも見てるみたいだった。何て言うのかな、そう、まるで違う世界に迷いこんじゃったみたいに感じた」
私の答えを聞いた雪はどことなく嬉しそうにうなずく。
『さすが月乃、なかなか鋭いですね。そうです。蛇長屋はここ、現世には存在しません。貴女が迷いこんだのは隠世。私たち人ならざる者が住まう、まさに違う世界です』
ウツシヨとかカクリヨとか、またわけのわからない言葉が出てきて、思わず頭を抱えてうずくまった私を雪は心配そうに覗きこんできた。
『大丈夫ですか、月乃。私の説明、わかり難かったですか?』
小首を傾げながら円らな瞳で見上げてくる雪はとても可愛らしかった。いつもならここで頭をなでたり頬ずりしたりのスキンシップをとるんだけど……。私は伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。
そう、雪は玉屑さんだったんだ。それを知ってしまった今、もうあんなこと出来るわけない。だって、今は蛇の姿だけど、人間の姿の時はあんな美青年で……どうしよう、今までのこと思い返したらものすごく恥ずかしくなってきた。
『顔が真っ赤ですけど、本当に大丈夫ですか? もしかして、また具合が悪いのでは?』
「ううん、大丈夫。えっと、カクリヨ? だっけ。話、続けて」
私はこのいたたまれない恥ずかしさを紛らわすために、雪に話の続きを促した。
その雪の話によると、私は昼間――隠世――という雪たちが住む世界に迷いこんでしまったらしい。そこは普通、生きた人間が来ることができない世界、いわゆるあの世みたいなところだと雪は言っていた。ちなみに私たち人の住む世界は――現世――というそうだ。
蛇長屋は隠世の住人たちの住まいの一つで、主に雪の眷族という人たちが住んでいる。雪はこの辺の蛇神たちのまとめ役だって言ってたから、要するにあそこは蛇神一族の社宅みたいなものだったらしい。
で、そこに本来いるはずのない生きた人間が迷いこんできたため、住人たちは息をひそめながら様子をうかがっていた。そして知らせを受けた雪がやってきて、私を見つけて保護したらしい。
『本当に驚きました。人間が入り込んだという知らせを受けて見に行ってみれば月乃がいて、しかも目の前で突然倒れるんですから。その後もなかなか起きてくださらないので、本当に焦りました』
「ごめんなさい。その節は大変お世話になりました……って、何をそんなに焦っていたの?」
『逢魔時を逃すと、貴女を現世に帰すのが少々難しくなってしまうからです。今日を逃せば明日まで待つことになってしまったので。私は眷族神ですから、古き神々のような大きな力は持っておりません。色々と制約があるのです』
神様だからって万能ではないらしい。しかも察するに、どうやら雪は神様の中でも下の方っぽい。なんだかちょっとほっとした。
――ちりん
微かな鈴の音が聞こえた。最初は一つだけだったそれは瞬く間に数を増やし、境内はあっという間に無数の鈴の音に埋め尽くされる。
「何!? この鈴、どこで鳴ってるの」
周りを見てみても鈴などない。この不可解な現象に不安を感じとっさに雪を見ると、彼は参道の向こう――鳥居の先の階段をじっと見つめていた。
『どうやら招かれざる客が来たようです。月乃、私の後ろに』
慌てて雪の後ろに下がると同時にパリンという硝子が割れるような高い音がして、あれほどうるさかった鈴の音がやんだ。虫の音も風の音も一切聞こえない、怖いほどの静寂。
そんな無音の世界に、じゃりっ、じゃりっと誰かが階段を踏みしめる音だけが異物のように響く。やがて鳥居の向こうからゆっくりとその姿を現したのは、龍臣さんだった。私たちを見る彼の目は暗く澱み、全身から怒気のようなものが滲みだしている。
悠然と歩いてくる彼を見て私はさっきの事を思い出し、思わず身を竦めた。雪はそんな私をかばうように私の前でとぐろを巻き、赤い双眸で龍臣さんをじっと見据えている。
「それは俺のものだ。薄汚い蛇風情が、分をわきまえろ」
『そっくりそのままお返しします。悪霊に身を堕としたあなたが人を欲するとは、それこそ分不相応なのではないですか』
「お前だけには言われたくないな、蛇。御託はいい。そいつを寄越せ」
この人、本当に龍臣さん?
見た目の雰囲気も、言葉遣いも……。この人は、私の知っていた龍臣さんとは似ても似つかない。この短時間で一体彼に何が起きたのだろう。
彼はうつむくと肩を震わせ、静かに笑い始めた。その声は段々と大きくなり、ついには狂ったような哄笑となった。
私が雪に声をかけようとしたその時、壊れたような笑い声がぴたりと止んだ。鳥居の下、彼はうなだれたまま微動だにしない。
――ごぷり
澱んだ沼に浮き上がる気泡のような音と共に、周囲を強烈な生臭さが包み込む。
『気を付けてください、月乃。……きます!』
雪が言い終わると同時に、真っ黒な何かがこちらに飛びかかってきた。私は反射的にしゃがみ、目をつぶって頭を抱える。
「我の邪魔をするな! 九年だ、九年も待ったのだぞ。今度こそ……」
「この気配、あなたはまさか……」
べしゃっという何かが潰れるような音に、くぐもった龍臣さんの声が重なる。恐る恐る目を開けてみると、私の真上に真っ黒なコールタールのようなものがいた。それはべしゃべしゃと不快な音をたてながら、何もないはずの空間を叩いている。まるでそこに見えない壁でもあるかのように。
龍臣さんから出ているその黒い泥人形のような何かは、一定の距離からこちらには近づけないようだ。その範囲は丁度お碗をひっくり返したような半円形。
こんなことが出来るのは、今この場所には一人、というか一匹しかいない。
「ゆ…………」
雪を見た瞬間、私は絶句した。
いつの間にか玉屑さんの姿になっていた。それは問題ない。さっき変身するところを見たし、いちおうは理解したから。でも、問題はそこじゃない。そこじゃないよ、雪。
そんな私の気持ちなど知る由もない雪は、私が怖がっているのだと勘違いして、一生懸命慰めようとしてくれる。
「この神域の中でなら、例え神堕ち相手でも後れをとることはありません。大丈夫です。月乃のことは必ず守ります。それでも怖いと感じるのであれば、しばらく目を閉じていてください。すぐ終わらせますから」
私は壊れたおもちゃのようにぶんぶんとうなずき、目の前の刺激的な光景を遮るために、両手で顔を覆って固く固く目を閉じた。
なななな、何で裸なの!?
そう、雪は全裸だった。後姿だったけど、それはもうばっちりと見てしまった。どうしよう、もう玉屑さんの姿の時の雪の顔が見られない。ていうか、ほんと、何で裸なの!! 目を開けた瞬間、お尻が目の前にあるなんて思わなかったよ!
「……の」
でも、結構綺麗だった、かも? 筋肉質で色白だったから、まるで大理石の彫刻を見てるみたいだった。雪ってば顔だけじゃなくて、体も綺麗だったんだなぁ。
「……きの」
って、そうじゃなくて!! 何思い出してるの、私!? 忘れろ、今すぐ忘れろ、私!
「月乃!」
大声で名前を呼ばれて顔を上げると、目の前に雪の顔があった。
「大丈夫ですか? 何度もお呼びしたのですが返事がなかったので、やはり気分が悪くなってしまったのかと心配しました」
慌てて周りを見渡すと、龍臣さんもあの泥人間もいなくなっていた。
「あれ? 龍臣さんとあの黒いのは?」
「追い返しました、ひとまずは。怖かったですよね。もう大丈夫ですよ」
……言えない。
私のことをこんなに気遣って慰めてくれている純粋な相手に。
あなたの裸に気を取られていて、龍臣さんのことなんてすっかり忘れていました。なんてとても言えない。
「今、あの家に帰るのは危険です。月乃さえよければ、とりあえずは我が家にいらっしゃいませんか?」
そう言って立ちあがり手を差し伸べてきた雪は未だ全裸だった。しかも今度は後ろ姿じゃなくて、私と向かい合っていたわけで――
「二……本!?」
目の前の衝撃映像に私の精神はとうとう限界を迎え、そのままブラックアウトした。
※ ※ ※ ※
ここ、どこ?
舗装されていない狭い路地に連なる木造の平屋。入口は簡単な引き戸だけしかなくて、しかもその上半分は障子になっている。こんな建物、時代劇でしか見たことない。
目の前の景色のことを考えていたら、急に私の意志とは関係なく体が動き出した。慌てて止まろうとしたけど身体はどんどん歩き続ける。まるで意識だけが誰かの体に閉じ込められているような感じだ。
仕方がないので、とりあえず成り行きに任せることにした。どう足掻いても体を動かすどころか言葉も発っせないのだから、今の私にはどうすることもできないし。
そうこうするうちに一軒の家に辿り着いた。体の主は躊躇することなく戸を開け中に入る。
「ただいまー」
どうやらこの体は若い女性らしい。
小さな土間から続くのはこれまた小さな板敷きの部屋。そこへ彼女が腰かけると、どこからともなく一匹の小さな白蛇が現れた。
「おまえ、また来たんだね」
彼女が笑いながら声をかけると、白蛇は小さな赤い瞳で見上げてきた。
大きさは全然違うけど、まるで雪みたいな蛇だった。だからか、蛇とじゃれあっているこの人に親近感を覚える。
「千歌」
少女が戸口の方へ顔を向けると、そこには着物姿の青年が立っていた。
「連翹……」
龍臣さん!?
彼女にレンギョウと呼ばれた青年は、見れば見るほど龍臣さんにそっくりだ。違うところは、この人の方が日に焼けている事、着物を着ている事、そしていわゆるちょんまげな事だろうか。周囲の風景も相まって、完全に時代劇だ。
「貴女に話があります。場所を変えたいので、ついてきてください」
「ここじゃ出来ないの?」
「下衆な噂がたっても構わないのならば。私は別に構いませんが、妙齢の女性である貴女にはよろしくないのでは? それに……」
物言いは丁寧だけど、冷え冷えとした青年の言葉に彼女は諦めたように立ち上がる。
「わかった。だから薬鷹には手を出さないで」
彼女の返事にどこか見下したような笑顔を浮かべた青年がうなずく。のろのろと彼女が立ち上がったところで急に目の前の景色が滲みだし、抗う間もなく私の意識は暗闇に沈んでいった。
※ ※ ※ ※
変な夢を見た。
妙に懐かしいような、でも知らない風景。
まとわりつく既視感を振り払い体を起こすと、そこは昨日介抱されていた部屋だった。どうやら気を失っている間に運ばれたみたいだ。
布団から出て障子を開けると、窓の向こうに小さな庭が見える縁側に出た。その窓を開けると、少しひんやりとした夏暁の空気が流れ込んでくる。そのまま空を見上げると、そこにはまだ夜の名残の群青色が広がっていた。
人様の家を勝手に歩き回る訳にもいかないので、ひとまず部屋に戻ったのだが……。
トイレ行きたい。
一度意識してしまうと我慢できなくなってきて、前言撤回でトイレを探しに部屋を出た。
障子と反対側にあった襖を開けて廊下に出る。こちらは窓がないのか、灯りがないととても暗かった。とりあえず襖を開けたまま部屋を出る。
ここから左に進むと玄関だったはず。私は昨日の記憶を頼りに暗い廊下を進み、なんとか目的の場所を発見することができた。
用を済ませすっきりとした私は、さっきの部屋に戻るため来た道を引き返し始めた。
あれ?
さっきまで何もなかったはずの暗い廊下に、細い光の筋が浮かんでいた。それは私のいた部屋とは別の部屋から漏れている。もしかしたら、雪がいるのかもしれない。
部屋の前に立ち襖に手をかけ声をかけようとしたその時、部屋の中から誰かの話し声が聞こえてきた。