三 真夏の昼の夢
雲ひとつないどこまでも青い夏空の下、私はあてもなく町を彷徨っていた。
さっき別れた時の、悔しそうな小倉君の姿がフラッシュバックする。傷つけた。私は彼の真心を傷つけた。
わかっている、これでよかったって。例え彼の心を傷つけたとしても、これが最良の選択だった。こんなわけのわからない、ましてや最悪命に関わるようなことに小倉君を巻き込めない。だって、彼はただの高校生で、特別な力もない普通の人。ただ優しかっただけの、善良な人間。
私は生きてるだけで周りを傷つける。小倉君は怒ってくれたけど、本当は私なんていなくなった方がいいに決まってる。きっとみんなだってそう思ってる。だけど臆病で卑怯な私は、潔く自ら命を絶つこともできない。だから待っている。私をこの世界から消してくれる、誰かを。
「ばっかじゃないの!」
そんな無責任で卑怯なことを心底願った馬鹿な自分に嫌気がさし、何も考えたくなくてがむしゃらに走りだした。
どれくらい走ったんだろう。
額を流れ落ちる汗を乱暴に拭い、乱れた息を整える。熱い空気を思いきり吸い込むと、むせて余計に苦しくなった。しばらくせき込んだ後ふと周りを見ると、私は知らない場所に一人ぽつんと立っていた。
気づかないうちにどこかの路地裏に迷いこんでしまったらしい。狭い路地に向い合わせで連なる古い木造家屋。引き戸の玄関前には植木鉢やじょうろなど雑多なものが無造作に置かれている。そのノスタルジックな風景は、昭和という時代を思い起こさせた。
炎天下の夏の午後、静まりかえった路地に降り注ぐ蝉時雨。真上から照りつける太陽が狭い路地を光と影の鮮烈なコントラストに彩り、白黒の世界にいるような錯覚をおこす。
――ふと、視線を感じた。
人の気配は一切しないのに、あちこちから見られているような気がする。窺うように周囲を見てみたが、相変わらず路地にも家にも人気はない。気のせいだったんだと無理矢理思い込もうとした時、視界の端で何か白っぽいものが動いた。恐る恐るそちらへ目をやると、今まさに路地を曲がる人影が見えた。
「すみません、待ってください!」
慌てて呼びとめたのだが、その人はそのまま角を曲がって行ってしまった。
入り組んだ人気の無い路地で迷子になり、途方に暮れかけていた私にその機会を逃すなどという選択肢は存在しなかった。当てなく彷徨い歩くのも、いつ通るかわからない他の人を待つのもごめんだ。さっきの人に大通りまでの道を聞いたら、今度こそちゃんと帰ろう。
私は再び走りだし、先ほどの人影を追って路地を曲がった。次の瞬間、私の目に信じ難い光景が入ってきた。
「う……そ、だって、あれは夢で……」
白い、雪のように真っ白な髪。その浮世離れした姿は夢の中だけの、私の想像の世界だけのものだったはず。
「待って! お願い、待ってください!!」
私の声が届いたのか、白い人が立ち止まってくれた。私はがくがくする脚を叱咤しながら、その人目指して走る。だけどあと少し、というところで足がもつれ、私の体は空を泳ぐ。
――転ぶ!
反射的に目をつぶり、きたるべき衝撃に構える。
しかし、いつまでも経っても衝撃は来なかった。恐る恐る目を開けてみると、私の視界は薄墨色に塗りつぶされた。
「大丈夫ですか?」
頭の上から声がした。
頭の上から?
勢いよく顔を上げると、そこにあったのは――。
「桂男の、君」
そのつぶやきを最後に、私の意識は途切れた。
※ ※ ※ ※
七歳の誕生日、私の家族は突然消えてしまった。
父が車の運転を誤り、崖から転落したのだ。その日、父も母も祖母も、みんないなくなってしまった。
そんな一人ぼっちの子供に向けられたのは、同情ではなく嫌厭の情。理由はわからないけど、村の大人たちは私と関わることを拒んだ。そして子供は大人の鑑。私は子供たちからも徐々に避けられるようになり、いつしか独りになっていた。
そんな私にも、かつてはとても仲の良い子がいた。
優しくて、頼もしい、お人形みたいに綺麗な男の子。私たちはいつも一緒だった。
早雪、私の一番大切な友達。家族と同じくらい好きだった男の子。
子供のくせに大人みたいな喋り方をする変な男の子。
私を甘やかしてくれた、頼りになるお兄ちゃんみたいな男の子。
私の初恋の男の子、そして嘘つきな男の子。
「月乃、私が友達になろう」
「すまない、月乃。でも、月乃のことは私が絶対守るから」
「月乃、大丈夫。怖いことなんて何もないよ」
――月乃、月乃、月乃…………
でも、彼はいなくなってしまった。あの事故の後、消えてしまった。
誰に聞いても知らないと言われた。そんな子供は村にいないと言われた。私は嘘つきと言われた。
そして――私の世界には誰もいなくなった。
※ ※ ※ ※
遠くから蜩の声が聞こえる。
目を開けると、知らない風景が目に入ってきた。慌てて飛び起きると、掛けられていた夏布団がはらりと落ちる。
――ここ、どこ?
夕日で赤く染まる部屋には私一人。どうしたものかと思案していると、部屋に影が差し込んだ。
「お加減はいかがですか?」
夕日を背に立つその人の顔は、逆光のせいでよく見えなかった。でもわかる。そのシルエットは、とても見覚えのある人のものだから。
「驚きました。呼び止められて振り返れば、貴女が突然飛び込んできたんですから」
柔らかく微笑みながら枕元に腰を下ろすと、その人は「どうぞ」と麦茶を差し出してきた。全力疾走で喉がからからだったことを思い出した私は、お礼を言ってからそれを一気に飲み干した。
一息ついたところで改めてその人を見た。きらきらと艶めく白い髪に切れ長の赤い瞳、涼しげに薄墨色の着物を着こなすその姿は、私の夢の中の住人、桂男の君にそっくりだった。
「あの……、私の顔に、何か?」
どうやらまじまじと見入ってしまっていたようで、その人は困ったように微笑んでいた。
「ごめんなさい! あ、麦茶ありがとうごさいました。それで、その……、ここは?」
「私の家です。覚えてないですか? 貴女、私の目の前で倒れたんですよ」
そういえば、私はこの人を追いかけていたんだった。確かあの時は昼を少し過ぎたところだったはずだけど、外は既に日が暮れようとしている。初対面の人様の家で、図々しくも結構な間寝ていたらしい。
「暑さにやられたんでしょう。とりあえずこちらへ運ばせていただきました。しかし本来ならば、縁者や恋人でもない女性を誰もいない家に連れ込むなど言語道断の行い。それについては大変申し訳ありませんでした」
そう言ってその人は深々と頭を下げた。いきなり目の前で土下座されたので、慌てて私も土下座し返してしまった。
「こちらこそ申し訳ありませんでした。見ず知らずの方にご迷惑をおかけしたうえ、こんなよくしてもらって」
お互い土下座したまま謝りあっているこの状況がなんだか可笑しくなってきて、私たちはどちらともなく頭を上げると笑い出してしまった。
「いえいえ、こちらこそ行き過ぎた真似をしてしまいました。本当は救急車を手配したかったのですが、ここへは入れないのです。それでやむなくこちらへ運ばせていただきました」
なるほど。確かにあの狭い路地じゃ救急車なんて入れそうにない。あ! そういえばまだ助けてもらったお礼を言ってない。
「すみません、最初に言わなきゃいけなかったのに! 助けていただいてありがとうございました。あなたがいなかったら私、きっとあのまま行き倒れていました」
彼は少し驚いたように私を見た後、大輪の花がほころぶような、それはそれは麗しい笑顔を返してくれた。
「いえ、どういたしまして。……ところで、貴女は私のこの姿に驚かないんですね。大抵、初対面の人間は私のこの姿を見ると、好奇や嫌悪の感情を抱くようなのですが」
「正直言いますと、最初にあなたを見た時はびっくりしました」
別の意味で。だって、夢で見ていた人が目の前に現われるなんて思わなかったから。
それにしても何だろう? さっきからこの人を見ていると、心の奥の方がざわざわしてくる。わからない。けれど、なんだか落ち着かない。私はこの人のことを知っている気がする。夢の中以外で、どこかで会ったことがある気がしてならない。
「あの、やはり私の顔に何かついているのでしょうか? そんなにじっと見つめられると、さすがに少々気恥ずかしいのですが……」
白い頬をほのかに染めてこちらを見るその姿は、男の人なのにそこらの女の子より可愛らしく見える。
どうやら私は自分の考えに没頭するあまり、またもや彼の顔を凝視してしまっていたらしい。
「ごめんなさい、ちょっと考え事をしていました。ところでその、つかぬことをお伺いしますが……。どこかでお会いしたことありませんか?」
言ってしまってからナンパか!? と心の中で自分につっこんだ。意識したらなんだか急に恥ずかしくなってきた。
「ごめんなさい、何でもないです、忘れてください。……そうだ! 自己紹介まだでしたよね。私は日月月乃といいます」
「私は蛇神玉屑です。さて、もうじき日も暮れてしまいますし……」
そう言って蛇神さんは私に手を差し出してきた。私はその差し出された手をどうしていいのかわからず、彼の手と顔を交互に見る。
「お手をどうぞ。少しでも明るいうちに大通りまでお送りします。少々急ぎますので、はぐれないように手を取らせていただきたいのですが」
そう言って困ったように微笑む顔は、やっぱり見覚えがある気がした。
そして今、私たちは夕暮れの路地を手をつないだまま歩いている。蛇神さんはきっと何とも思っていないだろうけど、私は落ち着かない。正直かなりドキドキしている。
でもドキドキだけじゃない。どこか懐かしいような、切ないような気持にもなる。前を行く蛇神さんの背中を眺めていると、やっぱり前にもこんなことがあったような気がする。
「そろそろ大通りに出ます」
蛇神さんの声で我に返る。どうやらあの迷路のような路地を抜け、無事大通りに戻ってきたらしい。
「さ、暗くなる前にお帰りなさい。もうここへ迷いこんでは駄目ですよ」
蛇神さんはつないでいた手を離すと、私を大通りへとそっと押しだした。その瞬間、このままここで別れてしまったらもう二度と会えないような気がして、私はとっさに彼の着物の袖を掴んでしまった。
「その……また、会えますよね?」
ちょっと驚いた顔で振り返った彼は私の手をそっとはずすと、まるで子供にするように頭をなでてきた。
「袖振り合うも多生の縁ともいいますし。きっとまたお会いすることになると思いますよ」
そんな意味深な言葉を残し、彼はそのまま薄暗い路地へと消えていった。
バス停へ向かって歩いていると、突然大声で名前を呼ばれた。顔を上げると、小倉くんがこちらへ走ってくるところだった。
「よかった! 月乃が行っちゃって、わりとすぐに追っかけたんだけど全然見つけられなくて。で、バス停で待ってたんだ。帰るんだったら、たぶんここ使うだろうと思って」
小倉くんは何事もなかったかのように明るく笑っている。
私は彼に色々ひどいことを言ったし、きっとプライドも傷つけた。それなのに――
「何で……だって私、小倉君にひどいことしかしてないのに」
「いいって、いいって。だって、俺が頼りないのはほんとのことだし、まだ友達でもない奴にいきなりあんなこと言われたって受け入れらんないよね。それはごめん! 俺、一人で盛り上がっちゃってた」
勢いよく頭を下げた小倉君は、すぐに下げた時と同じ勢いで顔を上げた。
「でも、月乃を助けたいって気持ちは本当だよ。それに、そう思ってるやつは俺だけじゃない」
「でも、私は……」
「俺たちじゃ直接は助けてあげられないかもしれない。でも忘れないでほしい。月乃は一人じゃない。月乃が助けを求めてくれれば、俺たちは覚悟できてるから」
一人じゃない――たったそれだけの言葉で目頭が熱くなる。
「あり……が、とう。ほんと、に、ありが……とう!!」
私の意志とは関係なく、私の目から温い涙がとめどなく溢れ出る。それは干天の慈雨のように、ひび割れ乾ききった私の心を潤してゆく。
「うん。月乃のSOSだったらいつでも受けるからさ。……と、なんか拭くもん、拭くもん」
小倉君はごそごそと鞄を漁っていたが、出てきたのはくしゃくしゃに丸まったハンカチ一枚だけ。
「あー……、ごめん。さすがにこれで涙拭きなよとは言えないよねぇ」
「うん、私もそれは嫌かな。大丈夫、自分のがあるから」
私が泣き笑いで自分のハンカチを取り出すと、小倉君は「ほんとしまんねぇな、俺」と苦笑いしていた。そんな彼につられて私も笑う。いつぶりだろう、誰かと一緒に笑うなんて。それがこんなに嬉しいことだなんて、ずっと忘れてた。
でも彼の安全のためにも、明日からはまた距離を取らなければならないけど……。今日だけ、ううん、今だけは見逃してほしい。
「月乃はさ、やっぱり笑ってる方がいいよ。あんま一人で抱え込むなよ。たまにでいいからさ、こうやって息抜きデートしようよ」
「ありがとう。でも、もう大丈夫。だから明日からは――」
「あーあー、聞ーこーえーなーーい。あ、バス来た! とりあえず今日のとこは帰ろっか」
私は帰りのバスの中でも必死に小倉君を説得した。しかし彼は一向に聞く耳持たない。ほとほと困り果てた私は、今まさに頭を抱えていた。
「だからね、私はもう誰かを傷つけたくないの。だから本当に私のことを思ってくれるなら、これ以上は私にかまわないでほしいの」
「だから、原因調べようよ。いずれは何とかしなきゃいけないんでしょ? 呪いとかそーゆーオカルト系? 強いヤツ心当たりあんだよね、俺」
「無理だよ。私だって何もしなかったわけじゃない。龍臣さんに頼んでそういう人たちに視てもらったことあるけど、全員に断られた」
そう、私だって何とかしようとはした。このままだといつかまた人を傷つける。だから原因を取り除こうとした。だけどだめだった。お祓いをしてくれた人たちはことごとく事故や病気に見舞われたし、何人かはそもそも相談する前に断られた。
「そういやさ、イケメンは平気だよね。なんでだろ? あれかな、マンガみたいな強力な守護霊とか憑いてんのかな?」
確かに龍臣さんだけは私の影響を受けない。私を引き取って八年、彼は一度も事故や大病に遭っていない。小倉君の言うように、よっぽど強い何かにでも守られているんだろうか。
「さあ、どうなんだろうね? それはともかく、小倉君はこれ以上危ないことに首を突っ込まないでね。プロでもだめだったんだから」
「待ってよ! イケメンみたいな例外がいるんなら、俺だってその例外かもしれないじゃん。ちょっとお試しさせてよ。つーわけで、俺たち今日からとりあえず友達な」
「嫌だよ!! そのお試しで小倉君が大怪我したら、私、今度こそ立ち直れないよ! そうしたらどうしてくれるの!?」
私の剣幕に一瞬たじろいだ小倉君だが、すぐにいたずらっ子の笑みを浮かべて「じゃあ……」と私を見る。
「その時は月乃が責任とってよ。俺、いつでも嫁に行く用意できてるから」
「ばっかじゃないの! そもそも小倉君は嫁にはなれないでしょ。それに何で私が小倉君の勝手な行動の結果の責任を取らされなきゃならないの」
小倉君の軽口についむきになって言い返してしまった。その私の言葉を聞いた途端、小倉君は満足げににやりと笑った。
「うん。俺の勝手な行動に月乃が責任なんて感じる必要ないよ。だって、これは俺のわがままだもん。だからもちろんその結果も俺のもん。もし万が一これから俺に何かが起こったとしても、それは月乃とは関係ないことだよ」
やられた……! 彼は私を挑発して、この言質を取りたかったんだ。まんまと彼の掌の上で踊らされてしまった。
「ずるい! そんなこと言われたって責任感じないはずないでしょ。小倉君のバカ! ストーカー! 私は絶対口きかないからね!!」
「はいはい。でも俺ストーカーみたいだから、明日からもガンガン話しかるね。つーわけで、よろしく」
ああ言えばこう言う。結局何を言っても返され、私は小倉陽成という友人を押し売りされてしまった。