十九 雨夜の月
「雪」
難しい顔をして何かを考え込んでいる雪に、私はなるべく明るく声をかけた。その声で初めて私の存在に気づいたようにはっとすると、ぎこちなく微笑む。なんだか笑顔が固い。
「その……、皆の所へ行く前に、少し二人で話しませんか」
「うん、いいけど。どうしたの? なんか変だよ」
「少し疲れているだけなので気になさらないでください。では行きましょう」
雪に案内されたのは廊下の突き当たりで、池に張り出している場所だった。釣殿というらしい。すぐ下には蓮の花が咲き乱れていた。
それにしてもこの風景、どこかで見たことあるような気がする。どこだったか、すごく昔にどこかで……。私はなんとか思い出そうと、半ば睨みつけるようにその風景を眺めていた。
そんな私の思考を断ち切るように、不意に雪が口を開いた。視線は池に落とされたままで。
「月乃……。出会ってから今日まで、色々なことがありましたね」
だから私も池を眺めながら答える。
「うん、本当に色々。辛い時も楽しい時も、私の思い出の中にはいつでも雪がいるからね」
そして私たちの間に再び沈黙がおちる。でもその沈黙は長く続かず、にわかに発せられた雪の言葉によって破られた。
「今日、貴女たちを現世に帰します」
やっぱり。でも、この言葉にはきっとまだ続きがあるはず。ただ帰すだけじゃない、これで私との繋がりを断つつもりなんだろう。
雪は決して嘘はつかない。だから都合の悪いことは黙る癖がある。だから償いうんぬんの話の時も、雪は決して「はい」とは言わなかった。嘘をついてはぐらかすことが出来なかったから。
「ねえ、雪。また……また、すぐ会えるんだよね?」
だから私は聞く。肯定なら返事がくるし、否定なら沈黙が返ってくる。
すがるような思いで雪を見たのに、うつむいたその顔は真っ白な髪の毛に遮られて見えなかった。そして返ってきたのは沈黙。それはすなわち、彼の中では私との別れは既に決まっているということ。
「ねえ、雪が言ったんだよ。私に償いたいって。だから私、言ったじゃない。だったら一緒にいて、いなくならないでって」
「申し訳ありません。ですがそれは出来ないのです。止むに止まれぬ事情ゆえ今まで月乃の傍に居りましたが、本来私は人と共にいるべきではなかった」
「そんなこと、一人で勝手に決めないでよ! 雪はいつもそう。一人で決めて、一人で苦しんで、一人で納得して。私だって色々考えてるし、感じてる。自分に酔わないで! 私のためなんて言わないで! ちゃんと私を見て!!」
癇癪を起して怒鳴り散らす私を見ることもなく、雪はただじっと、まるで何かに耐えるように俯いていた。
わからない。どうやったら私の声が届くのか、彼の声を聞くことができるのか。すぐ近くにあるのに決して手に入れることはできない、まるで水に映った月のよう。それでも伸ばさずにはいられないのは、私が水の中の月に魅入られてしまっているから。だから欲しくて欲しくて、私は溺れるのも構わずに手を伸ばす。
「私、雪のことが好き」
唐突な私の告白に、さすがの雪もびっくりしたように私を見た。でもその顔に浮かんでいたのは困惑と苦悩の色。
やっとこっちを向かせることが出来てしてやったりと思う気持ちと、そんな顔をさせたかったわけじゃないという気持ちが混ざり合って、私の顔はさぞ複雑な様相を呈していたのだろう。雪は私を見て口を開きかけては言葉を飲み込んでいた。
「親愛じゃないよ。ちゃんと恋だからね。あと、勘違いなんて言わないでよ。ちゃんと考えて、それで出した答えなんだから」
「月乃、一時の感情で――」
「お願い、最後まで言わせて」
雪が拒否してくることなんてわかっていた。だから私は彼の言葉を遮って、たたみかけるように言葉を続ける。
「私は雪が好き。だからこれからも一緒にいてほしいと思ってる。それに私は欲張りだから、雪からも好きって気持ちが欲しい」
まっすぐに、雪の目を見ながら想いを告げた。私が言葉を発するたび、雪の瞳は戸惑いに揺れる。
「償いで差し出される気持ちならいらない。私が欲しいのは雪の本当の気持ち。だからはぐらかさないで。教えて、雪の気持ち」
言った。言いきってやった。
半分以上衝動的だったけど、やっとすっきりした。あとはどんな答えが返ってきても受け止めるだけ。何もしないで後悔するよりは、やって後悔する方が何倍もましだ。
私の告白を受けた雪はうつむいたまま微動だにしない。だから私も雪から視線を外し、咲き誇る蓮の花たちを眺めながら待つことにした。
「…………最初は、好奇心からでした」
長い沈黙を破って、ぽつりと雪が呟いた。
そして一度喋り始めると、雪の口からは堰を切ったように言葉が溢れだした。
「この三百年、私の姿が見える者に会ったのはほんの数回。しかもその者たちは皆私を避けました。それはそうでしょう、この姿ですからね。だから人と話したのは、月乃が初めてだったんです」
過去に思いを馳せる雪の顔には穏やかな、でもどこか悲しげな笑みが浮かんでいた。
「何故私に話しかけたのかと訊ねてみれば、一人で寂しそうだったからだと、さも当たり前のように言われたのです。驚きました。まさか初めて会った幼子に、いとも容易く見抜かれるなんて。そして同時に怖くなったのです。その稀有な存在に、心囚われることを」
当時の雪の気持ち、今なら少しわかる気がした。
寂しくて寂しくて、そんな自分を誰かに気づいてほしくて、でも自分から関わることはできなくて。嫌われたくないから関わりたくない、でも一人は寂しくて。そんな時に手を差し伸べられたら……。
「だから逃げました。何度も、何度も。でも、どこへ逃げても貴女は必ず私を見つけ出してしまう。……いいえ、本当は見つけて欲しかった。だから、絶対に人が入れない場所には隠れなかったんです。でも一度だけ、絶対に見つけられないであろう場所に隠れました。……隠世です」
当時の私はかくれんぼをしているつもりだけだった。ただ毎回私が鬼なのが納得いかなくて、次に見つけた時はそれを言ってやろうとは思っていた。
「そして私は賭けたのです。もしこのまま見つからなければ、もう二度と月乃の前に姿を現さない。でも、もしも見つかってしまったら――」
忘れていた幼い日々。その懐かしい記憶が不意によみがえってくる。
そう、私は昔、ずっと昔にここへ来た。
――おにいちゃん、みっけ!
――な!? だって、ここは人が立ち入れない場所で……それなのにどうやって
――わたし、もうオニあきちゃったよ。こんどはおにいちゃんがオニだからね。いい? じゅうかぞえたら、『もういいかい』っていうんだよ。で、わたしが『もういいよ』っていったら、わたしをみつけてつかまえてね
それから私はどうしたんだっけ?
隠れる場所を探していて……そうだ、ここへ辿り着いたんだ。あの時は秋だったから花は咲いていなかったけど。むしろ枯れていて、一面茶色かった。今と全然違う風景だったから気づかなかった。
その後は……確か見たこともないような綺麗な鯉が泳いでいるのを見つけて、隠れるのも忘れてそれに見入ってたんだっけ。
「もしも見つかってしまったら、今度は私が捕らえよう、と」
いつの間にか雪の顔がこちらに向けられていた。
揺らめく唐紅の双眸が私を捕らえていた。さっきまではろくに目も合わせてくれなかったのに、今は私をその瞳の中に閉じ込めようかとでもいうようにじっと見つめてくる。
私はどうしていいかわからず、まっすぐ見つめてくる雪から目をそらすことも出来ずに固まっていた。心臓がどきどきして、顔に熱が集まってくる。きっと今、私の顔は真っ赤になっているだろう。
雪はそんな私を見てわずかに微笑むと、「でもね、出来なかったんです」とどこか自嘲するように呟いた。
「神に求められるということは、人としての生を終えるということです。神に愛された者たちは様々な祝福と引き換えに、短い期間でその命を燃やし尽くし、死後、神のもとへと召し上げられる。神というのは、いっそ残酷な存在なのです」
再び池に視線を落とした雪。
「私も末端とはいえ、いちおうは神です。古き神々のような強い影響を与えることはないでしょうが、それでもやはり何らかの影響は与えてしまいます。だからあの時……」
ふいに目の前を過ったのは、ずぶ濡れで私を抱きしめる雪の幻。
――私は、なんと傲慢で罪深いのか。こんなにも懸命に生きようとする命を、ただ我欲のために……
そういえばあの時、私は鯉を見た後どうしたんだっけ?
緑色の水の中を泳ぐ鯉に手を伸ばして……
「池に身を乗り出している月乃を見た時、私は何とも言い難い恐怖に襲われました」
もう少し手を伸ばせば届くんじゃないかって思って……
「そして目の前から貴女が消えた瞬間、私の心を支配したのは絶望でした」
池に、落ちたんだ。
パニックになって滅茶苦茶に手足を動かしたんだけど、まだ泳げなかった私にはなすすべなくて。そして、そこから先の記憶はなかった。
「池に落ちた月乃を引き上げ、その無事を確認するまでは生きた心地がしませんでした。この腕の中の小さな温もりを失ってしまうのではないか、向けられていた無邪気な笑顔を失ってしまうのではないか、と」
じっと自分の両手を見つめながら、苦しそうに昔のことを語る雪。そしてふっと息を吐き出すと、再び語り始める。
「月乃が死んでしまうのが怖かった。月乃には生きていてほしかったんです。生きて、成長してゆく姿を見ていたかった。ですが幼くして死んでしまえば、もうそこから成長することはありません。確かに無垢で美しい魂が手に入るでしょう。でもそれは違う気がしたのです。人は変化するもの。様々な経験を経て清も濁も呑みこみ、死ぬその時まで成長し続ける。私が憧れたのはそんな人間です。そんな私が、まさにこれから成長してゆくであろう月乃を望めるはずありません」
そうだ、雪は人間に憧れていると言っていた。そしていつも一人で寂しそうに微笑みながら、境内で遊ぶ子供たちを眺めていたんだ。
私も友達がいなくていつも一人だったから、なんとなく仲間意識みたいなものを感じていた。だからあの時、思いきって声をかけた。この人なら私といてくれるんじゃないかって。
「それからは、月乃が健やかに成長できるよう見守ることにしたのです。やがて無垢な幼子は美しい少女となり、私の気持ちも慈愛から恋慕へと変わっていました」
「雪、それって……」
私は高鳴る胸を抑え、期待を込めて雪を見る。
そんな私に雪は少し困ったような表情を浮かべ、そして微笑んだ。
「はい。私は月乃、貴女を愛しています」
気がついた時には、私は雪に抱きしめられていた。
まさか本当に想いを返してもらえるとは思ってなかったので、ちょっと信じられない。本当は絶対ふられると思ってた。
じわじわとこみあげてくる喜びに顔がにやけてしまう。自分から告白した時は半分自棄だったから、想いを返してもらうことなんて想定してなかった。どうしよう、嬉しすぎて上手く言葉が出てこない。
だから私は返事の代わりに、精一杯の想いを込めて雪を抱きしめ返した。
「だから、私のことは忘れてください」
意味がわからなかった。
確かに想いは通じたはずなのに。雪も私のことを想っていてくれたのに。なのに、何でそんなこと言うの?
問いただそうと顔を上げた瞬間、唇にひんやりとした何かが触れた。一瞬だったけど、確かに触れたそれは……
キス、されたーーー!!
不意打ちのキスは私の思考を停止させるのには十分な衝撃で、私は馬鹿みたいにただ雪の顔を呆けたように見ていた。
だから雪の様子がおかしいのに気づくのが遅れた。
「さようなら、月乃」