十八 帰還
彼は雪の声に振り向くと、とても龍臣さんとは思えない気の抜けた表情と間延びした口調で喋り始めた。
「はーい。夏虫、ただ今生還しましたぁ! なーんちゃって、思いっきり死んじゃってましたぁ。いやぁ、ヘマしちゃいましたよぉ。ちょぉーと油断したら、やられちゃいましたぁ」
何が楽しいのか、へらへらと笑う夏虫と呼ばれた龍臣さん。
『夏虫、勝手によそ様の体を乗っ取るんじゃありません』
「えぇ~、いいじゃないですかぁ。魂のない体なんてぇ、どーせ死んじゃうんですからぁ。だったら、いっそ僕にくださいよぅ。ね、いいでしょ? 僕、体なくなっちゃって困ってるんですよぅ」
龍臣さんの体で上目遣いしてくる夏虫さん。しかも可愛らしくお願いポーズまで決めて。こんな胡散臭い龍臣さん、生まれて初めて見た。
それにしても、彼はまるで服でも借りるかのような気軽さで他人の体をくれと言う。その口調も相まって、なんだか人を下に見ている感じがしてちょっともやっとした。まあ実際、神様から見た人なんてそんなものかもしれないけど。雪だって、興味のない相手には結構ドライだったし。
『月乃、どうでしょう? このままだと龍臣の体は確実に死にます。薬鷹も連翹も弱っていて、どちらもこの体で生きていけるほどの力は残っていません。ですが、夏虫の魂ならこの体を生かすことができます』
龍臣さんを生かすには別の魂を体に入れるしかない。
でも、それは龍臣さんて呼べるの? 魂が別物なら、それはもう龍臣さんじゃない。そこまでして龍臣さんを生かす必要ってあるんだろうか。このまま、ただの人間として死なせてあげた方がいいのかもしれない。でも……
私には他人の生き死になんてそんな簡単に決められない。何が正解で、何が不正解なのかなんてわからない。どうしよう、どうすればいい?
「そんなに深く考えることないよぅ。所詮この世は弱肉強食。強い者や、最後に残った者が全てをとる。それでいいじゃないですか。人間はごちゃごちゃ考え過ぎなんですよぅ」
『夏虫、あなたは考えなさすぎです。蛇の時はそれでもよいですが、人はそんなに単純ではないのですよ。群れで暮らす者たちには、それ相応の決まりごとがあるのです』
どこまでも単純明快で、人の機微などおかまいなしな夏虫さんを雪がやんわりと窘める。その雪も微妙にずれてる気がしないでもないけど。
とにかく。私が龍臣さんの体の所有権のありかを決めることなんてできない。していいとも思えない。どうせなら、きちんと本人たちに聞いてほしい。
「雪、薬鷹たちに聞くことはできないかな? こんな大事なこと、私じゃ決められないよ」
けれど、雪は静かに頭を振る。蛇の姿だからいまいち表情はわからないけど、人の姿ならきっと困ったような顔をしていたんだろうな。
『月乃の望みならばなるべく叶えてさしあげたいのですが……。残念ながら、彼らはもはや霊体として具現化する力も残っていません。今の状態では意思疎通は出来ないかと思います』
そんな……。どうしよう、本当にどうすればいいんだろう。こんな時、みんなだったらどうするんだろう。
「だからさぁ、月乃ちゃんは考え過ぎなんだよぅ。いい? この体は魂がないと死んじゃう。僕は体がないと不便。元の持ち主はぼろぼろでそれどころじゃない。だったら僕がこの体使うのが一番よくない? だいじょーぶ、だいじょぶ。悪いようにはしないよぉ。もし返せって言われたら、その時はちゃんと返すからさぁ……たぶん」
だからお願い、と拝まれてしまった。困った私は思わず雪を見る。すると雪は『いいのではないですか』と、まるでなんてことないみたいに言った。
『月乃が気に病むくらいなら、いっそ龍臣のことなんて保留にでもしておけばいいんです。彼らが目覚めた時に改めて聞いてみればいいでしょう。それまでは夏虫に預かってもらうということでいいのではないでしょうか』
微妙に不機嫌な雪の声。基本、雪は自分の懐に入れた人以外にはあまり興味がないらしい。特に龍臣さんはあまり好きではないらしく、本当にどうでもよさそうだ。
とりあえずここは雪の言うように、今は夏虫さんに預けるのが一番いいのかもしれない。勝手に龍臣さんの体を死なすわけにもいかないし、かといってあげるわけにもいかない。
それにしても、こんな大事なこと私一人で決めろなんて二人ともひどいよ。二人にはたいしたことないことなのかもしれないけど、私にはそんな軽く扱えない。そもそも自分の人生でさえ持て余し気味なのに、他人の人生まで背負えるわけないじゃない。今の私にはそんな覚悟もないし、冷たいかもしれないけど龍臣さんのためにそこまで出来ない。面倒をみてくれたことには感謝しているけど、それでもやっぱり私には無理だ。
「それじゃあ夏虫さん。しばらくの間、龍臣さんの体をよろしくお願いします」
「うんうん、まっかせて~」
「いいですか、あげたわけじゃないですからね。一時的に貸しているだけですからね」
「うんうん、わかってるって~」
この人、いまいち信用しきれないんだけど。本当に大丈夫かな……。
その後『帰りましょうか』という雪の一言で、私たちはみんなの待つお屋敷に帰ることになった。
※ ※ ※ ※
そして今、私は目の前に広がる光景に呆然としていた。
やっとのことで帰ってきたお屋敷はあちこちから黒い煙が立ち上り、たくさんの人が右往左往の上を下への大騒ぎ。あちこち壊れたり傷ついたりしていて、何かがあったことは一目瞭然だ。
「雪、お屋敷が燃えてる! どうしよう、みんなは!?」
小倉君や綏子は? 彼らは私のせいで巻き込まれただけなのに、もし何かあったら私はどうすれば……。
背中の上でおろおろする私に、雪はなだめるような声で話しかけてきた。
『大丈夫ですよ。皆、無事です。それに――』
そこで一つため息をつくと、雪はどこか疲れたような声で言葉を続ける。
『屋敷の惨状の原因は、おそらく深緋でしょうから』
雪の言葉に首を傾げたその時、突然後ろから何かに突進されたうえお腹を締め上げられた。
「よかった。本当に心配したのよ、月乃。……って、やだ、濡れ鼠じゃない! ちょっと玉屑、あなた何やっていたのよ」
後ろから私のことをぎゅうぎゅうに抱きしめながら、安堵、驚愕、怒りと次々に表情を変え、最後に雪の背中で地団駄を踏みならしたのは深緋さんだった。
『痛っ、痛いです! それに何やってたって、それはこちらの台詞ですよ。深緋、あなたまた力加減も考えずに暴れたのでしょう』
「だって、仕方ないじゃない。神堕ちが結界内に穢れをばら撒いていってくれたおかげで、それに魅かれた亡魂どもが押し寄せてきたんだもの。数が多かったから、つい面倒になって一掃したらこうなったのよ」
雪の呆れたような声に、深緋さんはきまり悪そうに返した。こちらはこちらでとても大変だったらしい。
「あの、深緋さん。小倉君と綏子は無事なんですか?」
「へたれの玉屑ならともかく、この私が守っているのよ。もちろん無事に決まってるでしょ。……ところで、それ誰?」
深緋さんは雪の隣にいた夏虫さんを指差した。正確には、龍臣さんの体に入った夏虫さんだけど。
そういえば深緋さんって、龍臣さんの姿見たことなかったんだっけ? 一度はここへも来てるはずなんだけど、あの時は会わなかったのかもしれない。それにしてもこの場合、どう紹介すればいい?
『龍臣の体です。ただし、中身は夏虫ですが』
「ふうん、まあいいわ。それより……月乃のこんな姿、いつまでもさらしておくわけにはいかないわよねぇ、玉屑」
龍臣さんにも夏虫さんにもあまり興味がないらしく、深緋さんは何か意味ありげな視線を一度雪に送ると、いきなり私をお姫様だっこして雪の背中から飛び降りた。
何が起きたのか一瞬理解できなかった。でも理解できても、びっくりしすぎて声が出ない。だから、ただ馬鹿みたいに口をぽかんと開けたまま彼女を見上げていた。だって、まさかこんな華奢な美少女にお姫様だっこされるなんて夢にも思わなかったし。
「こ、深緋さん!? 私、ちゃんと歩けますから下ろしてください」
「あら。このままお風呂場まで運んであげようかと思ったのに」
罰ゲームのような深緋さんの提案に慌てて首を振ると、彼女は笑いながら下ろしてくれた。どうやらからかわれたらしい。
「あ! ツッキーおっかえりー」
玄関前でじゃれあっていた私たちを松葉さんが見つけ、手を振りながらにこにこと駆け寄って来た。その後ろからは青丹さんが遅れて歩いてくる。その青丹さんだけど、今日は牛若丸みたいな恰好をしていた。他の人の服装からするに、こちらが普段着っぽい。松葉さんは相変わらずカジュアルな洋服だったけど。
「松葉、湯を使いたいのだけど用意できる?」
「いつでもオッケーっスよ。ところで……」
松葉さんは私をひとしきり見ると、満面の笑顔とサムズアップで一言。
「女の子の濡れた服とか髪ってエロいよね」
瞬間、深緋さんのローキックと青丹さんのハイキックが松葉さんの脛と後頭部に炸裂して、彼はそのまま顔面から地面に叩きつけられた。ものすごい音がしたけど、大丈夫だろうか……。
「月乃様、愚兄が大変失礼いたしました。これはわたくしの方できちんと処理しておきますので」
青丹さんは深々とお辞儀をすると、そのまま松葉さんの襟首を掴んでどこかへと引き摺っていった。
『月乃、とりあえずこれを羽織っていてください』
どこからか男物の羽織をくわえてきた雪が、器用に私の肩にそれをかけてくれる。
「ありがとう。ちょっと体冷えてきたし、助かるよ」
『いえ、松葉のような不届き者もおりますし。それに何より、月乃のそんな姿を衆目にさらすなど私が我慢なりませんから』
ちょっと雪の声が不機嫌な気がする。そんな雪に深緋さんは生温かい笑みを向けると、ぽんぽんと雪の胴を軽く叩いた。
「自分が見るのはいいけど、他人に見せるのは嫌なのよね。いやだわ、このむっつりスケベは」
『ちょっと、言うに事欠いて何てことを言うんですか! 違いますよ、私はただ――』
「はいはい。じゃあ月乃、風邪引かないうちにお風呂入ってきちゃいなさい」
深緋さんは雪を鼻であしらうと、その辺の人を捕まえて私をお風呂まで案内するように手配してくれた。
そして今、私は冷えた体を湯船に沈め、今までのことを思い返している。
ずっと私を悩ませていた呪いは消えた。これで私はもう普通の人と同じで、これからは恐れることなく人と関わりを持つことができる。
薬鷹と連翹。神堕ちを取り込み、そして取り込まれてしまった過去の亡霊。呪いにより運命を歪められ、中途半端な記憶の覚醒により暴走した哀れな二人。あの二人はこの先どうなるんだろう。
龍臣さん。私の中に眠る千歌を求める薬鷹の気持ち、薬鷹を求める連翹の執着、それに神堕ちの妄執が加わり、結果彼は消えてしまった。一番の被害者はこの人なのかもしれない。
そして、千歌。彼女は一体何者なんだろう。私はてっきり自分の前世が彼女だと思っていた。でも雪は違うと言う。じゃあなんで彼女は私の中にいるんだろう。彼女は一体誰なんだろう。
色々考えていたらのぼせそうになってきたので、倒れる前に上がることにした。脱衣所に行くと着替えが用意してあり、それは雪たちとの別れが近いことを示していた。綺麗に洗濯してたたまれた制服。それはここへ来た時に私が着ていたもの。これを用意したということは、雪は私を元の世界に戻すということだろう。
着慣れた制服を着て脱衣所を出ると、そこには人型に戻った雪が立っていた。