十七 あるべき場所へ
さっきまであんなに暗かった部屋が、今はいくつもの光る玉のようなものに柔らかく照らされている。その光は儚く幻想的で、さっきまでのおどろおどろしい雰囲気など消し去ってしまっていた。
「きれい……。雪、これ、何?」
「魂です」
雪は目を細め慈しむようにそれらを眺めた後、何かを差し出してきた。その手にあったのは、ぼろぼろに砕け散った木片。
意味がわからなくて雪を見上げると、「これが御扉の向こうに隠されていた物です」と言われた。
「この木像が神堕ちの本体だったんです。私たちがこれを破壊したことで神堕ちは消え、囚われていた魂たちも解き放たれました」
だからアレは自分が攻撃されることよりも扉を攻撃されることを嫌がったんだ。本体さえ無事ならいくらでも復活できたから。
「囚われてた魂が全部解放されたんだとしたら、この光の中に薬鷹と連翹もいるんだよね」
「クスタカとレンギョウというと、神堕ちを取り込んだという者たちですよね。彼らは一体何者なんですか?」
雪は本当に何も覚えていないらしい。自分を殺した相手のことさえも。何で記憶がなくなっちゃったのかわからないけど、とりあえず私が知ってる範囲の事をざっと伝えた。
「なるほど……そんなことがあったのですか。ならば得心がゆきます。連翹が何故あんなにも私のことを恨んでいたのか」
難しい顔でしばらく何かを考え込むようにうつむいていた雪は、顔を上げるとある一つの魂の元へと向かって行った。その魂は他の魂に比べ光が弱く、そして小さい。その魂に寄り添うように浮かんでいる魂も同じような感じだ。
「もしかして、この二つが薬鷹と連翹?」
私の問いかけに頷いて返す雪。
二人の魂を確認したところで、私の中にいるはずの千歌に声をかける。
――千歌、千歌。薬鷹、見つかったよ。
ところが何度呼んでも彼女からの返事が返ってこない。
「どうかしたのですか、急に黙り込んで」
「あ……うん。千歌がね、何回呼んでも返事してくれないの」
「ああ、力を使い果たしてしまったのでしょう。本来の自分の体ではない体であれだけ動いたのですから」
本来の自分の体ではない体?
「待って、雪。千歌は私の前世で、それって私ってことだよね。だったらこの体は千歌のものでもあるんじゃないの?」
そんな私の質問に、雪はなんでか呆気にとられたような顔をした。
私、そんなに変なこと言ったかな? だって、前世の私が千歌なんだから、この体は千歌のものでもあると思ったんだけど。
「月乃、貴女は根本的なことを勘違いしています。千歌は月乃の前世ではありません。彼女は貴女とは全く別の魂です」
え……?
だって、あんなにはっきりと色々思い出したのに。薬鷹や連翹だって私を千歌の生まれ変わりだって言ってたのに。一体どういうこと?
「じゃあ、千歌って一体何者なの!?」
「私には確かなことはわかりません。ただ言えるのは、月乃と彼女はとても近い存在だということです」
「私と近くて別の魂……」
その時、どこかから地鳴りのような音が響いてきた。
「脱出しましょう。社の主がいなくなった今、ここはじきに消滅します」
「脱出って、どうやって!? だって、ここはダムの底だって薬鷹が言ってたよ。それにここにあるみんなの魂は?」
「大丈夫です。私は蛇神、水を司る一族。そもそも私がどうやってここまでやって来たと思っているんですか?」
雪はそう言ってにっこり微笑むと、その姿を人から蛇へと変化させた。
だから今、私の目の前には白蛇の姿の雪がいる。でもその大きさが尋常じゃなかった。いつもは三メートルくらいなのに、今の雪は二十メートルくらいはありそうで、部屋が雪の体で囲まれてる。なんかもう、蛇っていうより龍みたい。
そして、そんな呆気にとられている私の目の前で、雪は何のためらいもなく魂たちを食べだした。
「ちょっ、雪!? な、何してるの!!」
『あ、はい。私、この姿ですと手も足もないので、とりあえず口の中に入れて運ぼうかと思いまして』
「あ……。そ、そうなんだ。よかった。私はまたてっきり」
『てっきり?』
「ごめん。なんでもないです」
そんな私たちの会話を遮るように、どこかで木のへし折れる大きな音がした。そういえば地鳴りはさっきより大きくなってきているし、あちこちから木の軋む音がひっきりなしに聞こえてくる。
『月乃、私の体につかまってください』
私は雪に言われるまま、その丸太のような胴に腕をまわしてしがみつく。ただ胴周りが太くて私の腕じゃ抱えきれないうえ、鱗以外何のとっかかりもないので振り落とされそうで不安なんだけど。
全ての魂を口の中に入れ、私を背に乗せた雪は部屋を出た。扉をくぐった先にあったのは――
「何、これ……」
さっきまで一定の距離を保って私たちを閉じ込めていた水の壁が、今は社を押し潰さんとしている。ぶよぶよとした水の壁はもうすぐそこまで迫ってきていて、残り時間が少ないことを示していた。
『しっかりつかまっていてくださいね』
私がうなずき腕に力を入れると、雪は水の壁に難なく頭を潜り込ませた。私や薬鷹じゃ全然歯が立たなかったのに、さすが神様。なんだかんだ言ってもやっぱりすごい。
今度は壁に阻まれることなく抜けたのはいいんだけど、これ、湖面までどのくらいの距離があるんだろう。雪は私が振り落とされないように気遣ってくれているのか、とてもゆっくりと進んでいる。
私は必死に息を止めながら、ひたすら上を見ていた。でも周りは真っ暗で何にも見えない。昼間だったらもう少し様子がわかったのに。
『月乃、何故息を止めているのですか?』
何故も何も、水の中だからに決まってるじゃない。あと、今喋れないんだけど。
結構苦しくなってきた。どうしよう、そろそろ限界が近いのかも。
『月乃、大丈夫ですから。ほら、深呼吸してください』
いや、だから水の中じゃ人間は呼吸出来ないんだって。って、あれ? 蛇だって呼吸できないよね。もしかして雪って海蛇だったの? でも、普段はずっと陸にいるよね。
あ、やばい……。冗談じゃなく苦しくなってきた。
『月乃、お願いだから息をしてください!』
苦しくて苦しくて、目を閉じて必死に耐えていたら、突然唇に何かが触れた。びっくりして思わず目を開けると、なぜか雪の顔が目の前にある。
それに今、何かが私の唇に触れたんだけど。
『月乃、早く口を開けて息をしてください!』
そう言ってまた私の唇に触れたその何かは、今の雪が唯一自由に動かせる場所で……。
「ああーーー!?」
『ほら、とにかく落ち着いて深呼吸。はい、ゆっくり吸って……吐いて。また吸って……」
びっくりしすぎて頭が真っ白になって、思わず素直に雪の声に従って深呼吸してしまった。
ところで、今声出てたよね? 私、水の中なのに喋ってたよね?
「何で……息、水の中なのに」
『だから言ったでしょう? 息をしてくださいって。私の加護がついている今なら、月乃は水の中でも陸と同じように過ごせるんですよ』
そうなんだ。そういえば水の抵抗もあまり感じない。すごい、神様の加護って便利…………って、そうじゃない!
今、し、舌で! 舌で私の口つついたよね、雪。これってアレ……き、キス、じゃない? しかも今度はおでこなんかじゃなくて、口と口。いや、口と舌? いやいや違う、問題はそこじゃない。
問題なのは、今のが私のファーストキスだったってことだよ!
「ゆ……」
『はい?』
「雪の……」
『月乃? どうかしたので――』
「雪の、ばかぁぁぁぁぁ!!」
私は怒りの赴くまま、雪の頭を滅茶苦茶に叩いた。もうこれでもかってほどに、一切の遠慮なく。
『痛っ、痛いです。一体どうしたというのですか』
「雪のばかっ! 天然セクハラ神使! 乙女心クラッシャー!!」
『ちょっ、本当にどうしたのですか!? 落ち着いて、痛っ、落ち着いてください』
自分のしたことを理解もせず、とりあえず私をなだめようとするその態度が余計腹立たしい。そんな雪をさらに叩きのめすべく思いきり腕を振り上げた時、ざあっと視界が明るく開けた。
紺青の雲は端々を薄紅に染め、その雲の合間からは澄んだ青空が顔をのぞかせている。そして彼方に見える影絵のような山の端からは、今まさに日が昇ろうとしていた。
「……きれい」
『ええ、本当に』
私たちはしばらく無言で、刻一刻と姿を変えてゆく彼は誰時の空を眺めていた。
「もうすぐ……、もうすぐで全部、終わるんだね」
『はい』
ようやく解放される。それはとても喜ばしいことのはずなのに、私の心は沈んでゆくばかり。
あれだけ望んでいたのに。あれだけ怖いこともあったのに。なのに、それらが終わることを残念に思っている自分がいた。だって全てが終わる時、それは雪たちとの別れの時でもあるから。
ずっと一緒にいてほしいって言ったけど、雪のことだ。また勝手な思い込みで、私の意志なんて関係なく私を遠ざけてしまう気がする。雪は優しいけど時々とても独り善がりで、そしてひどく残酷でもあるから。
どうしたらわかってもらえる? どうしたら私と一緒にいてくれる? いままでもこれからも、私はずっと雪と一緒にいたい。いたいのに……。
雪の巨体が波紋を生みながら、凪いだ湖面を滑らかに進んでゆく。岸が近づいてくるにつれ別れの予感は強まり、こみあげる不安を打ち消すように私は雪をぎゅっと抱きしめた。それをさっきの戦いの恐怖の名残だとでも思ったのか、雪は見当違いな慰めの言葉をくれる。
『大丈夫ですよ。もうすぐ貴女はあるべき姿へ、そしてあるべき場所へ帰ることができるのですから』
「その場所には……雪も、いるんだよね?」
祈るような問いかけに返ってきたのは痛いほどの沈黙。そしてそれが雪からの答え。
それから私たちは、岸に着くまで一言も言葉を交わすことはなかった。
雪は岸に上がり私を地面に下ろすと、大きく口を開けた。そこから出てきたのは、龍臣さんと神堕ちに取り込まれていた魂たち。
雪の口の中から解放された魂たちは一つ、また一つとゆっくり明け方の空へと昇ってゆく。
ほとんどの魂が空へと還り、残ったのは三つ。二つのくすんだ魂と、一つの跳ねまわる魂。くすんだ二つは薬鷹と連翹。この二つはほとんど動かず、地面に転がってるような感じだ。そしてもう一つの跳ねまわっている元気な魂、これは一体誰なんだろう?
「雪、この三つは他の魂たちみたいに空に昇っていかないの?」
『薬鷹と連翹の魂は神堕ちに穢されてしまったので、このままでは生まれ変わることもできません。しかも連翹には私のかけた呪いもありますし、この二人の魂は一度隠世に連れていきます』
「そっか。連翹のこと、雪はもういいの?」
『まあ、記憶がないので正直どうでもいいですね。私は過去の三人に興味はありませんし、自分の死因についても今更です。今の私は月乃さえ無事ならそれでいいのです』
それだけ言うと、雪は薬鷹と連翹の魂を再び口の中に入れた。
そしてふと気づいた。さっきまで雪の周りを跳ねまわっていたあの魂がいなくなってる。もしかしてあの子も私が見てないうちに空に昇って行ったのかな? そう思ってなんとなく辺りを見回した時、信じられない光景が飛び込んできた。
「よっと。うんうん、ちゃんと動くな。やった! はは、人間の体ゲット~」
さっきまでぴくりとも動かなかった龍臣さんが、訳のわからないことを言いながらラジオ体操をしていた。
薬鷹も連翹も雪の口の中なのに、何で龍臣さんが動いてるの? しかも言動がおかしい。それにあんな朗らかに笑う龍臣さん、見たことない。
「た、龍臣……さん?」
恐る恐る呼びかけてみたけど、彼は返事どころかこちらを振り向きもしない。もう一度呼びかけようとした時、雪が彼に呼びかけた。
『夏虫』