十五 因縁
――死にたくない。
最期の時、千歌もまた“死にたくない”と強く思っていたんだろう。今の私の気持ちと過去の千歌の気持ちがリンクして、埋もれていた最後での記憶が呼び覚まされてゆく。
痛かった、苦しかった、悔しかった。最愛の人を目の前で奪われ、何もできないうちに自分の命も奪われようとしている。目の前の男が憎かった。
その目の前の男、連翹は血だらけの千歌の腕から薬鷹を奪い取ると、最愛の弟の血に塗れながらうっとりと頬ずりをしている。その異常な光景に吐き気がした。
千歌は傷だらけの手で刺された腹を押さえながら、なんとか這って連翹のもとまで行くと、薬鷹を取り戻そうと手を伸ばす。しかし無情にも、連翹はそんな彼女を思いきり蹴り飛ばした。しかもわざわざ一番傷ついている腹を、だ。
悲鳴をあげることもできず血を吐きだす千歌。そんな彼女を笑いながら見下ろす連翹。壊れたように笑いながら千歌をいたぶるその様は、まさに鬼畜。
動かなくなった千歌に興味をなくしたのか、連翹は再び薬鷹を抱きかかえると彼女に背を向けた。
連翹の容赦ない仕打ちは千歌の心をずたずたに傷つけ、抉られた傷からどす黒い憎悪が滲みでてくる。憎しみで我を失いそうになったその時、彼女の目の前に白いものが飛び込んできた。
それはいつの日か、千歌が助けてやった白蛇だった。
白蛇が現われた途端、千歌の中で渦巻いていた激しい憎悪が薄れ始めた。代わりに白蛇の鮮やかな赤い瞳が昏くなってゆく。それはまるで、白蛇が千歌の憎悪を吸い取っているかのようだった。
心は軽くなったけどもう声を出すこともままならない千歌は、口だけで白蛇に逃げろと促す。けれど白蛇はそんな千歌の思いとは真逆に、連翹の足首に飛びついた。けれど所詮は非力な小さな蛇。一噛みしたところで捕まり、頭を潰され止めに刃を突き立てられ動かなくなった。
そして次の瞬間、千歌の暗く霞みつつある視界に信じられない光景が映った。
ぼろぼろの白蛇の亡骸の上に凛と立つのは、淡く光を纏う裸の子供。艶やかな白い髪に暗赤色の瞳。その姿は瞳の色を除き、かつて雪がとっていた姿――早雪の姿と瓜二つだった。
それを見て私は確信した。千歌が助けた白蛇、あの子は神様になる前の雪だったんだって。
雪は薬鷹を一瞥すると、ふっくらとした指を彼に向かって差し出した。
「我のみならず、我が恩人まで弑するとは。人の子よ、汝の罪赦し難し」
仰々しい言葉遣いに冷たい声音。光り輝く神々しいその姿は今の雪よりよほど神様らしかったけど、その声は確かに雪だった。正確には早雪の時の声だけど。
その小さな神様は、連翹を指差したまま静かに言葉を続ける。
「我が恩人の最期の願いにより、汝に禍言を贈ろう。今この時より未来永劫、例え幾度転生したとしても、汝が望む愛を得る事は無いだろう。忘れる事はならぬ。この先、汝は永遠に満たされぬ想いと記憶を抱え、延々と繰り返される輪廻の輪に囚われる事となろう」
静謐な声で、とても残酷な宣告を下す雪。でもその残酷な願いは、前世の私が最後に望んだこと。雪はその願いを叶えてくれたにすぎない。
私は何て残酷なことを願ってしまったんだろう。確かに連翹のやったことは許せることではないけど、それにしても性質が悪すぎる。こんな呪い、不幸しか生まない。
静かに連翹を見る雪。彼は今の雪と違って、なんだか近寄りがたい感じがする。今の親しみやすい雪は三百年という長い時が、そして関わってきた幾人もの人たちによって作り上げられたんだろう。
三百年――雪はそんな長い時を生きてきたんだ。そしてこれからも……。
今、ようやくちゃんと理解できた。私と雪は生きている世界が違うんだって。あの時一生私に囚われるなんて言ったけど、雪にとっては私の一生なんてほんの一瞬。いくら私が雪のことを好きになっても、例え雪が私のことを好きになってくれても、彼は神で私は人間。私はいつか老い、彼を置いていかなければならない時が来る。もしも情を通わせてしまったら、私は彼を傷つけてしまうだろう。
人と神は、共には生きられない。
「ならば俺は、幾度でも追いかけ捕らえよう。記憶が残るなら好都合。何度生まれ変わろうが、どんな姿になっていようが必ず見つけ出し、そして手に入れてみせる」
雪との違いを自覚し落ち込む私の耳に入ってきたのは、神様相手に一歩も引かない連翹の自信に満ち溢れた声。
彼がやろうとしていることはただのストーカー行為で、相手の気持ちなんか全部無視。でもそこまで言いきれてしまうこの人の強い気持ちは、今の私には少しだけ羨ましかった。
残念ながら千歌の記憶はここまでだった。だからこの後、二人がどうなったのか私にはわからない。
凄惨な記憶の再生が終わって呆然としていたその時、ぎいぃぃぃという木の軋む音と共に、部屋に微かな光の帯が差し込んだ。そして流れ込んでくる生臭い風。
「見ぃつけたぁ」
開いた扉の先にいたのは、もはや人としての原型を留めていない変わり果てた彼の姿。逆光のせいでちゃんとは見えなかったけど、その芋虫のようなシルエットで彼が人間を捨ててしまったのだということは十分わかった。
――ずずっ、がりっ、ふふ、ずずずっ、あは、がりっ、あはははは、きゃははは――
重い物を引きずるような音と床に爪を立てる音、そして幾つものさざめく笑い声。それはゆっくりと部屋の中へ入ってくると、迷うことなく私へと向かってきた。
後ろは行き止まり、前は彼だったモノに塞がれている。私は声を出すこともできず、ただ迫りくるソレを見ていることしかできなかった。
そしてあと一歩、というところで突然ぴたりとソレの動きが止まった。ソレは振り向くと同時に耳を劈く咆哮をあげ、ものすごい剣幕で部屋を飛び出していった。
呆気にとられてその場で呆然としていると、ぱあんという何かが破裂したような音がし、次いで轟々たる爆音が響いてきた。それはまるで大量の水が流れ落ちる、滝のような音。
そして――
「月乃!!」
私を呼ぶ声に顔を上げると、ふわりと白檀の香りに包み込まれた。この香り、これは……
「ゆ、き?」
恐る恐る呼びかけると、耳元に囁くような雪の声が返ってきた。
「よかった。月乃が無事で、本当によかった。貴女にもしものことがあったら、私は……」
雪の声は震えて頼りなく、まるで怯えている子供のようだった。いつも私を助けてくれたヒーローの姿はそこにはなくて、でもそんな姿も愛おしくて――。
「つ、月乃!?」
気がついた時には、私も雪を抱きしめていた。広い胸に顔をうずめると、早鐘のような雪の心臓の音が聞こえてくる。私に対してこんなにドキドキしてくれているんだと思ったら嬉しくて、思わず顔がにやけてしまった。そんなにやけ顔を見られないように、私は雪の胸に額を押しつけるようにしてうつむく。
さっきまでは怖くてドキドキしていたのに、今は幸せでドキドキしている。そんな自分の現金な乙女心に思わず吹き出すと、それに雪がますますオロオロとする。そんなやりとりに私はさっきまでの恐怖を忘れ、とうとう笑い出してしまった。
でも、そんな和やかな時間はほんの一時で。
――おぉぉおぉぉぉ、おおぉおぉぉお
怨嗟に塗れた怒号が轟き、建物がびりびりと鳴動する。うねるように大きく小さく、怒りや悲しみの不協和音が辺りを埋め尽くす。
「来ます。私の側から離れないでください」
僅かに入ってきていた灯りが遮られ、それがやって来たことを告げる。おおお、おおおと意味をなさない呻き声をあげながら、彼だったものは姿を現した。
「おおお……出ていけ、殺してやる……ううう、逃げろ、殺す、殺す殺す殺す! あぁあぁぁ、喰わせろ……渡さない、いやだ、いやだいやだいやだ!! 呪ってやる、呪って、呪、呪呪呪呪呪呪呪」
支離滅裂な呪詛の言葉を撒き散らしながら、それは私たちに向かって何本もの歪な腕を伸ばしてきた。それに対し雪は一線を引くように空を水平に切る。すると黒い腕は何かに切り裂かれたかのように落下し、床に堕ちた瞬間霧散していった。でもそんなのお構いなしにそれは狂ったように、何本も、何十本も次々と腕を伸ばしてくる。そして落ちた腕は黒い霧となり本体へと戻って、再び襲ってくる。
「これは……、本体を叩かないときりがないですね」
「本体って、今、目の前で戦ってるのが本体じゃないの?」
「人としての龍臣の本体は確かにあの体です。ですが悪霊として目覚めたきっかけ、その原因があるはずなんです」
ふと、さっきの薬鷹の言葉がよぎる。
――ここの神様、兄さんに喰われちまったからな。
そんなこと言ってなかったっけ。神様を食べたって。だから薬鷹と連翹は目覚めたんだって。
「雪。その原因、たぶんここの社の神様だと思う。さっき薬鷹が言ってた。連翹がここの神様食べたって」
私の言葉に雪が目を見張る。
そりゃ驚くよね、人間が神様食べたなんて。私も初めて聞いた時は驚いたもん。
「やはり、そうでしたか」
最初は驚いた雪だけど、すぐに何かに納得してうなずいた。私の方はさっぱりわからない。
「やはりってどういうこと?」
「今の龍臣の発する妖気、あれは九年前の神堕ちのものです。おそらくですが、彷徨っていた神堕ちが龍臣を取り込もうとした時、何らかの原因で反対に取り込まれてしまったのでしょう。神社で一戦交えた時はまだ確信が持てなかったのですが、今ならはっきりとわかります。あれは月乃を狙っていた神堕ちの成れの果てです」
九年前の悪夢、その原因となった神堕ち。それは龍臣さんを消し去り、薬鷹と連翹という過去を蘇らせ、そして今その全てを飲み込もうとしている。目の前に立ちはだかる黒い異形。私と雪の全ての始まりにして……終わりを告げるもの。
万感の思いを込めてそれを見つめていた私に、突然雪が声をかけてきた。
「ところで、クスタカとレンギョウというのは一体誰なんですか?」
迫りくる黒い腕を薙ぎ払いながら、雪は怪訝そうに二人のことを聞いてきた。
「憶えてないの? じゃあ千歌のことは? 三百年前のこと、全部忘れちゃったの!?」
「三百年前というと……私が先代に拾われた頃ですね。でしたら申し訳ないのですが、私、その頃の記憶がないんです」
記憶が、ない。
全部、忘れちゃったんだ。何が原因かはわからないけど、雪は連翹や薬鷹はおろか、千歌のことさえ憶えていない。
「記憶のことは後で話しましょう。それよりも今は目の前の敵です。月乃のおかげで、やっとあの神堕ちの本体のありかがわかったんですから」
雪は不敵な笑みを浮かべると、右手を天にかざす。すると何もない空間から一本の槍が現われ、雪の手に納まった。
「すみません、月乃。少しの間、貴女の側を離れることを許してください。ここは奴の結界の中、このまま再生され続けられては埒が明きません。直接本体を叩きます」
腰を落として槍を構えると、雪は床を蹴って神堕ちへと一直線に突っ込む。神堕ちは無数の黒い手で応戦してきたけど、雪に触れる前に全て切り裂かれて霧散してしまった。雪はそのまま第一撃をたたき込むと、息つく間もなく豪雨のような突きを繰り出し、神堕ちの体を見る見る間に穴だらけにしてゆく。ついでに神堕ちの体を貫通した突きで後ろの壁にいくつか穴が開き、そこから漏れる鬼火の灯りで部屋が少しだけ明るくなってきた。
そして神堕ちが細切れになり動けなくなると、雪は一足飛びに後ろに退がり、その場で槍を振り子のように体を回転させると、そのまま思いきり壁に突き立てた。
突き立てた、はずだった。
でも雪が放った渾身の一撃は、壁の手前で火花を散らしながら止まっていた。
「くっ、さすがに一筋縄ではいかないですか」
さっきは壁だと思っていた場所、そこには階段の上に両開きの小さな扉があった。雪はその扉めがけて何度も槍を突き出してるけど、全て扉に届く前に弾かれてしまっている。
「ああぁあぁ、寄越せ、力を、寄越せぇぇぇ!!」
瞬く間に復活したソレは、今度は私を狙ってきた。もちろん捕まるつもりなんてない。だけど逃げようとした瞬間、普段着慣れていない浴衣に足を取られ見事に転び、そのまま足首を掴まれてしまった。
「月乃に、触るなぁぁぁ!!」
紫電一閃、私を掴んでいた黒い手は雪の槍によって千々に散らされる。そして容赦ない攻撃は復活しつつある本体を再び襲い、神堕ちはさっきよりもぼろぼろにされてしまっていた。細切れにされたソレは今にも消えてしまいそうで。
あれ? 私、何か大事なことを忘れてる気がする……
――どうかお願い、あの人を、薬鷹を助けてあげて。
そうだ! 千歌に頼まれてたんだ、薬鷹を助けてって。
「雪、ストップ!! ちょっと待って。お願い、彼を殺さないで!」
私は雪に向かってありったけの声で叫んだ。雪は一瞬だけ怪訝な顔をしたけど、すぐに私の隣に戻ってきてくれた。
「心配しなくても、あれはそんな簡単には滅びません。本体を叩かない限り、この結界内では何度でも再生しますから。あの御扉の防壁を破壊できなければ、完全に倒すことはできません」
眉根を寄せながら、不快そうに神堕ちを見る雪。その視線の先では、既に飛び散った欠片が一番大きな塊を目指して集まり始めていた。
「雪、ちょっとだけ私に任せてくれないかな。まあ、私っていうより千歌になんだけど」
「何を言っているんですか、駄目に決まっているでしょう。危険過ぎます。奴が復活する前に月乃をここから出すのが先決です」
記憶を失ってしまった雪には、千歌と薬鷹のことはわからない。だから私の言ったこともただの無謀な意見にしか思えないんだろう。
でも今ここで私だけ逃げて、雪が一人で神堕ちを倒しちゃったらだめな気がする。それだときっと、千歌の願いは叶わない。
「信じて、雪。今ここで私が動かないと、私は千歌から解放されないの」
私の言葉に雪の赤い瞳が揺れる。
本当はちゃんと説得したかったけど、もう時間がなさそうだ。
「出てきて、千歌。そして前世の因縁、全部ここでけりをつけちゃって!」
彼女に呼びかけた直後、浮遊感と同時に私の意識は深い闇の中へと落ちた。




