十四 虜囚
夢から覚め、私は今の自分の状況を確認する。
どうやらどこかのあばら家にいるらしい。薄暗い部屋の中、私は粗末な筵の上で後ろ手に縛られ、ご丁寧に足も縛られ転がされていた。
この状態で放置って、トイレとか行きたくなったらどうするのよ。嫁入り前の乙女に対して何たる仕打ち。今のところ平気なのが救いか。
頼りないろうそくの炎がゆらゆらと照らす部屋の中、私は必死に目を凝らして周りを見た。
もしかして、ここって神社? よく見ると部屋の作りがそれっぽいし、神主さんが使うはたきみたいな道具や白い小皿、その他諸々がその辺に無造作に転がっている。でも壁も障子もあちこちボロボロで、廃屋寸前みたいだけど。
「目が覚めたみたいだな」
唐突にかけられた声の方へ顔を向けると、壁際に男の人の足があった。相手の顔を確認したくて、私は転がった姿のままで必死に顔だけ上げる。
「あなたは……薬鷹さん、ですか?」
私の問いかけに目の前の彼は少し驚いたような表情を浮かべる。どうやら正解だったみたいだ。いちおう今の私には千歌の記憶があるから、薬鷹と連翹なら見分けられる、と思う。
「正解だ。そういうお前さんは……千歌、じゃねえな」
「はい。日月月乃といいます」
私の答えに薬鷹は力ない笑みを浮かべ、「そうか」と少し寂しそうに呟いた。
三百年越しに恋人の生まれ変わりに会えた彼には悪いけれど、私はもう千歌じゃない。ずっと昔に、千歌という人間としての人生は終えた。彼には懐かしさは感じるけど、今はそれだけ。私は私、千歌と同じようには薬鷹を好きにはなれないし、なれない。前世の記憶を思い出したからって、私はもう千歌じゃないから。
「あの、連翹と龍臣さんは?」
今の彼が薬鷹なら好都合だ。あの三人の中でまともに話すことができるのはこの人だけだろうし。とてもじゃないけど薬鷹以外、ましてや連翹なんて絶対無理。龍臣さんは……どうだろう? 正直わからない。
「兄さんなら寝てるよ」と言いながら薬鷹は私の隣に腰を下ろした。そしてなぜか私を戒めていた縄を解き始める。
「いいんですか? 私、逃げますよ」
薬鷹の意図がわからず、私も正直に思ったことを言ってみた。すると彼は少し困ったように笑い、すぐに「無理だよ」と首を振った。
「だって、ここは水の底だからな」
水の底って、そんなところにこんなぼろ家が水没せずに存在できるわけ無い。私が胡乱な目で薬鷹を見ると、彼は苦笑しながら続きを話してくれた。
「嘘じゃねぇって。なんならそこの扉開けてみな」
縄をすっかり解き終わった彼は、ごく軽い調子で正面の扉を指差した。
せっかくのチャンスを逃すわけにはいかない。私は固まった手足をほぐすと扉の前まで行き、今にも外れそうなそれを恐る恐る押し開いた。
「なに……これ」
扉の外には真っ暗な闇しかなかった。社の中から漏れるろうそくの灯りでは、照らすどころか逆に吸いこまれてしまいそうな深い闇。外の空気はひんやりと湿っていて、私は思わず身震いした。
「な? 嘘じゃなかったろ。それに――」
いつの間にか隣に来ていた薬鷹が唐突に、何もない目の前の暗闇に殴りかかった。しかし彼の右腕は見えない何かに跳ね返され、その反動で数歩後退る。
私も欄干の外に腕を突き出してみたけど、すぐに何か壁のようなものに当たった。その壁はぷよぷよして冷たく、熱さましの冷却ジェルを思い出した。
「昔、ここには小さな村があったんだけど、ダム? ってやつを作るために水の底に沈めたんだと。でもこの社の神様はここを離れたくなかった。で、結界でここだけ閉ざして必死にこの状態を保ってるんだってさ」
「ずいぶんと詳しいんですね。何であなたがそんなこと知っているんですか?」
江戸時代の人間の薬鷹がダムなんて言葉知ってるはずない。だとすると連翹から聞いた? でも連翹だって同じ江戸時代の人間だ、知ってるはずない。じゃあ龍臣さん? でも、彼が神様のことなんか知るはずないし……
「だってよ、ここの神様、兄さんに喰われちまったからな」
食われちまったって……え、神様を食べたの!? そもそも神様って食べられるものなの?
絶賛混乱中の私には、咄嗟に返す言葉が出てこない。でも薬鷹はそんな私にかまわず話を続ける。
「いやぁ、向こうから襲ってきたとはいえ、まさか返り討ちにするとは思わなかった。さすが兄さんというかなんというか。で、そん時俺と兄さんはまだ繋がってたんで、その神様の記憶が一部俺にも流れ込んできたってわけだ」
神様食べたとか返り討ちにしたとか、とんでもないことを言いだした彼に私は慌ててストップをかけ、最初から順序立てて説明してほしいと頼んだ。
困惑する私を見た薬鷹は、「だよなぁ」と苦笑いを浮かべる。
「俺は兄さんと違ってあんまり頭の出来がよくねぇんで説明とか苦手なんだよ。だからさ、そっちから適当に質問してくれ。わかることなら答えてやるよ」
そう言って彼はどかりと私の前に腰を下ろした。
改めて薬鷹を見る。見た目は当たり前だけど龍臣さん。でも雰囲気はまるで別人。龍臣さんはもっとこう神経質で、どこか陰のある人だった。でもこの人は素朴で実直な感じ。千歌の記憶があるから余計そう思うのかもしれないけど。
と、ゆっくりしている場合じゃない。連翹がいつ出て来るのかわからないんだから、今のうちに色々聞いておかなきゃ。
「わかりました。まず、連翹と龍臣さん、二人は今そこにいるの?」
「連翹兄さんはここに、この体の中にいる」
――なんていうのかな、二つの糸が絡まり合って一つになってるって感じで……
綏子の言ってたことは本当だった。絡まり合う二つの魂、それが薬鷹と連翹。でも……
「龍臣さんは? 彼もあなたたちと一緒に、そこにいるんでしょ?」
私の問いに薬鷹はなぜか悲しそうな顔をした。
「龍臣は……いない」
いない――という彼の言葉を頭の中で反芻する。いないってどういうこと? なら龍臣さんはどこにいるの?
「龍臣ってのはさ、俺と兄さんの魂が一つになってた時の人格だ。だから俺たちが個々に分かれた時点であいつは消えちまったんだ。だから龍臣は……もう、いない」
龍臣さんが、消えた。
私は確かに彼が苦手だった。でも、消えてほしいなんて思っていたわけじゃない。むしろここまで不自由なく育ててもらったのに、微塵も懐かなかった可愛げない子供を見捨てないでいてくれたこと、そのことには本当に感謝していた。それがどんな感情からきたものであったとしても、彼が私を養ってくれていたことには変わりなかったのだから。
また、消えてしまった。お父さんも、お母さんも、おばあちゃんも、みんないなくなってしまった。とうとう龍臣さんまでも、消えてしまった。
雪は、私の呪いは解けたからもう大丈夫って言ってた。でも、またいなくなってしまった。私のせいで、龍臣さんが消えてしまった。私の、私が――――
「違うよ」
静かな、そして確信に満ちた声が私を現実に引き戻す。
おもむろに顔を上げると、おでこがつきそうなくらいの超至近距離で薬鷹と目があった。慌てて離れようとしたら手首を掴まれていて、離れたくても離れられなくなっていた。
「ち……じゃねぇや、月乃」
「は、はい!」
思ったより彼の態度が真剣だったので、私も思わず姿勢を正す。
「今、龍臣が消えたのは自分のせいだって考えてただろ」
図星をつかれ焦った私は、咄嗟に彼から目をそらした。
何で私の考えてたことがわかったんだろう?
うろたえる私を見て、薬鷹はため息をつくと呆れ顔で一言。
「お前さん、嘘つく時に目を伏せる癖があるだろう」
なんで!? 薬鷹は月乃とは初対面のはずなのに、まさかこんな短時間で言い当てられるなんて。
そして薬鷹は私の手首を離すと、口許を押さえながらくつくつと笑い出した。
どうして彼に笑われているのかわからなくて、私はおろおろと彼を見ていた。
しばらくしてようやく笑いをおさめた薬鷹は、戸惑う私を見て「すまん、すまん」とあまり誠意の感じられない謝罪をくれた。そしてふと遠い目をすると、ぽつりと呟く。
「同じ、だったんだよ」
同じ? 同じって、何と?
どこか遠くを見ていた彼は視線を私に戻すと、泣きそうな顔で笑った。
「同じ、だったんだ。あいつ……千歌もな、嘘つくとき目を伏せるんだよ。だからもしかしてお前さんもそうじゃないかって、鎌かけさせてもらったんだ。そしたら案の定だろ。つい懐かしくて、な」
泣きそうな笑顔はほんの一瞬で、すぐに元の穏やかな笑顔に戻っていた。でもどこか痛々しいそれに、今度は私が無性に泣きたくなってきた。
「そんな顔すんなって。頭ではわかってんだ、千歌はもういないんだって」
彼はうつむき、「でもな」と言葉を続ける。
「心がな、ついてかねぇんだよ。お前さんにあいつとおんなじとこ見つけるたび、千歌はまだここにいる、あいつはまだ生きてるって思っちまうんだ。手を伸ばせば、届くんじゃねぇかって」
どこか虚ろな目で過去に思いを馳せる彼の姿に、月乃じゃない千歌の心が痛む。
――違う、この気持ちは私のじゃない。
膨れ上がる彼女の気持ちをぐっと堪えると、改めて目の前の彼を見る。
理性と感情の狭間で揺れ動く危ういその姿は、かつて見た龍臣さんととても似ていた。そして徐々に感情が理性を侵食し、壊れてゆく様も。
さっきまで穏やかに話していたはずの薬鷹の様子がおかしくなってきた。呼びかけても反応しないし、一人で何かぶつぶつと呟き始めた。
目の前の彼は、もうさっきまでの彼じゃない。これ以上の会話はもう無理だ。それどころかこのままここに、彼の前にいたら危険な気がする。
「俺たちは生まれ変わって、そしてまた出逢った。きっとこれは運命ってやつだ。今度こそ、今度こそ今生でお前と一緒になるために……」
薬鷹の目はもう私なんか見ていなかった。彼の虚ろな瞳は既に白目の半分以上が黒い何かに侵食され、どろどろに濁っていた。その穿たれた穴のような二つの瞳をこちらに向けると、ゆらゆらと体を揺らしながら狂ったように笑いだした。
底なしの井戸のように暗く冷たい、魂が引きずりこまれそうな二つの空ろ。
彼の目は、私から家族を奪ったあれとそっくりだった。あの時のことが瞬時に脳裏で再生され、気が付いた時には腰を抜かしてその場に座り込んでいた。
冷や汗が背中を伝う。心臓は破れそうな勢いで鼓動を刻み、掌は汗でじっとりと湿っていて気持ち悪い。逃げたいと思うのに、がたがたと震える足は全く動かない。心と体がバラバラで、焦りを感じるほど体は竦みあがり、ますます動けなくなるという悪循環に陥っていた。
「……くく…………う、ふふ……逃げ、て……殺す……あははははははは、早く……喰わせろ、ははっ」
上半身を左右に激しく揺らし、真っ黒な瞳からコールタールのような涙を流し哄笑する目の前の薬鷹だったモノ。わけのわからないことを叫びながら狂ったように笑っていたそれが、突然ぴたりと全ての動作を止めた。静寂の中ゆっくりと、とてもゆっくりと振り返り――――
限界だった。恐怖が臨界点に達し、私の頭の中は真っ白になった。心の方が麻痺したことで、体の方が本能に従って動き出す。
私は悲鳴をあげるとそれに背を向け、一目散に走り出した。部屋に飛び込みボロボロの扉を力一杯閉めると、すぐに部屋の反対側に見える階段へと走る。短い階段を登りきるとまた別の社があった。扉の両脇には青白い鬼火が灯っていて、閉ざされた扉をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「お願い、開いて!」
震える手で扉に手をかけると、ぎいぃと軋むような音を立てながらゆっくりと開いた。私はすぐさま中に飛び込み、固く扉を閉める。扉に背を預け座り込むと、全身からどっと汗が噴き出してきた。
休んでる場合じゃない。
扉は外開きで、中からは鍵がかけられない。こんなとこにいたら扉が開いた瞬間に捕まってしまう。私は自分の手さえ見えない暗闇の中を、四つん這いになりながら手探りで進む。何も見えない闇の中、聞こえるのは自分の鼓動と息遣い、そして床を這いずり回る音だけ。
しばらく進むと階段らしき段差に突き当たった。そのまま階段を上がると、すぐにまた行き止まりになっていて、それ以上は進めそうになかった。
暗闇の中、絶望に膝を抱えてうずくまる。もうすぐあれがやって来るだろう。その時、私はどうなるんだろう。やっぱり殺されてしまうんだろうか。
結局薬鷹からはたいしたことも聞き出せず、逃がしてもらおうと頼む前に正気を失われてしまった。彼が言うにはここは水の底、とてもじゃないけど私一人で逃げだすことなんてできない。
――死にたくない。
そうだよ、私はまだ死にたくなんてない。綏子や深緋さんとたわい無いお喋りしたり、小倉君や松葉さんや青丹さんたちの漫才みたいなやりとりを眺めたり。
雪ともっと一緒に時間を重ねて、雪のことがもっともっと知りたい。
蛇の雪じゃなくて、早雪じゃなくて、今の雪のことが知りたい。私はもっと、もっともっと雪と一緒にいたい。
だからこんなところで死にたくなんてない、死んでる場合じゃないのに。
唐突に、私の知らない映像が脳裏に再生される。それは、今までは夢で見ていた前世の記憶。そして――最期の記憶。