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雪夜の月  作者: 貴様 二太郎
本編
13/26

十三 真夜中の呼び声

 

 目覚めると私は一人、見知らぬ薄暗い部屋に寝ていた。

 ここはどこだろう? 私は……私は誰だったっけ? つ……、ち……、か?


 そうだ、私の名前はちか――千歌(ちか)――だ。


 ぼおっとする頭の中を様々な情景が次から次へと浮かんでは消えてゆく。いくつもの知らない風景も混ざっていたけど、それは零れ落ちる砂粒のように私の中をあっという間に通り過ぎて行ってしまった。


「頭、痛い」


 脈打つようにどくんどくんと痛む頭に手を当て目を閉じた。しばらくすると少しだけましになってきたので、改めて自分の状況を確認してみる。

 浴衣を着ていた。寝間着なのだろう、帯ではなく腰ひもで簡単にとめられている。でもずいぶんと上等なもので、明らかに私のものじゃなかった。とりあえず手足を動かしてみたけど、問題なく動かせる。頭痛とぼやけた頭の中以外は問題ないみたいだ。


 とりあえず布団から立ち上がると、ぐるりと部屋の中を見渡してみた。こんなに綺麗な部屋、貧乏長屋住まいの私なんかに縁があるわけない。私は一体どこにいるんだろう? 自分でここへ来た覚えはないけど、このぼやけた頭じゃ本当に自分の意志かそうじゃないかなんてわかったもんじゃない。


 ――千歌


 誰かに呼ばれた気がした。でも部屋の中には私一人。気のせいかと首を傾げた時、微かにだけどそれは確かに聞こえた。


「誰!?」


 咄嗟に口をついた私の問いかけに返事はなく、辺りは変わらず静寂に包まれていた。


「行かなきゃ……」


 何故だかわからないけど、あの声のもとに行かなければならない気がした。障子を開けると、煌々とした月光が照らし出す縁側に出た。冷たい光に浮かび上がる縁側はどこまでも続いているように見える。奥の方、その暗がりから三度(みたび)、今度こそ確かにその声は聞こえた。


 ――千歌


 この声、これは私の愛しい人の声だ。あの人が私を呼んでいるんだ。


「どこ、どこにいるの?」


 私は逸る気持ちのまま、暗い廊下を幾度か転びそうになりながら走った。愛しいあの人に一刻も早く会いたかったから。

 そんな浮き立つ私の心とは裏腹に、頭のどこかでは行ってはだめだと止める声がした。でも彼に会いたい気持ちの方が大きくて、私はそんな自分の中の声に蓋をしてしまった。耳を塞ぎ、なかったことにした。だって、あの人が呼んでいるんだもの。

 私はただただ暗い廊下をひた走った。彼の声が近づいてくるにつれ、私の胸は喜びに沸き立つ。会える、もうすぐあの人に、会える! と。

 突然目の前が開け、少し広い空間に出た。そこは中庭らしく、四方を渡り廊下に囲まれている。その庭の中央、そこにあの人はいた。


薬鷹(くすたか)!」


 優しく微笑む私の愛しい人。会いたかった、ずっと会いたかった。

 私はためらうことなく彼の胸の中に飛び込む。そんな私を彼は軽々と抱きとめ、そして優しく抱きしめてくれた。

 私が涙ながらに会いたかったと告げれば、彼もまた会いたかったと言って微笑む。彼の懐かしい腕に抱かれ安心すると同時に、やっぱり頭のどこかでは誰かが逃げろと必死に叫んでいた。頭が痛い。私は何か大切なことを忘れているような気がする。でも何を?

 けれどすぐにそんなことはどうでもよくなって、私は考えることをやめた。もう彼を失いたくない、今度こそ私は彼と一緒に生きるんだ。今度こそ……? 私は何を言ってるんだろう。彼も私も今ちゃんと生きてここにいるのに。


月乃(つきの)!」


 知らない誰かを呼ぶ声に振り返ると、渡り廊下にひどくぼろぼろな姿をした男の人が立っていた。彼の髪は雪のように白く、瞳はまるで赤酸漿(あかかがち)のよう。ぼろぼろな有り様にも関わらずその人間離れした美しさは、およそ生きている人間とは思えなかった。

 その美しい人は私のことを知らない名前で必死に呼ぶ。違う、私は千歌。つきのなんて知らない。知らないはずなのに、何でこんなに胸がざわつくんだろう。痛い、頭が割れるように痛い。

 あまりの痛みにたまらず頭を抱える。そのままずるずると座り込みそうになるのを、薬鷹が支えてくれた。


「大丈夫だ、千歌。お前のことは、俺が……必ず、まも……ま、も」


 私を支えていた薬鷹の手は小刻みに震えだし、言葉も途切れ途切れでとても苦しそうだ。違和感を感じ、私は頭の痛みに耐えながら薬鷹を見上げた。


「守るわけないだろう、お前みたいな女」


 どこまでも人を馬鹿にしたような酷薄な冷笑、そこにいたのは連翹(れんぎょう)だった。薬鷹は決してこんな顔しない。さっきまで薬鷹だった人は、ほんの一瞬で連翹に変わっていた。そのあまりの衝撃に、あんなに痛かった頭痛が吹き飛んでしまっていた。


「月乃を離しなさい、龍臣(たつおみ)


 白い人は私の知らない名前で連翹に呼びかけると、渡り廊下から飛び降りこちらへ向かってきた。呆然とそれを見ていたら、突然首に痛みがはしった。


 私を支えていてくれていた優しい手は消え失せ、今は私の首を容赦なく締め上げている。ぎりぎりと食い込む指のせいで呼吸もままならない。もがいてみたけど締め付けが強くなっただけで、何の解決にもならなかった。


「それ以上近づいたら……この女の首、へし折るぞ」


 連翹の脅し文句に白い人は慌ててその場に留まる。

 心配そうに私を見る今にも泣き出しそうな赤い目。私はあの目をどこかで見たことがあるような気がする。あるような気はするんだけど、でもどこで見たんだったっけ?


「龍臣、月乃をどうするつもりなのですか」


 白い人が連翹によくわからないことを聞いた。“たつおみ”とか“つきの”とか、この人は一体誰と話しをしているんだろう?


「龍臣なんて奴ぁもういねえよ。今の俺は連翹だ。俺のこと、忘れたとは言わせねえぞ、蛇」


 頭の上から連翹の憎々しげな声が降ってくる。でも目の前の白い人は連翹の言っていることがよくわからないのか、訝しげな表情を浮かべ困惑している。そんな白い人の態度が気に障ったのか、背後からひしひしと連翹の怒気が伝わってきた。


「その様子じゃあ、俺のことなんてすっかり忘れちまったらしいな……これだから虫野郎は!!」


 八つ当たりなのか、私の首にかかっていた彼の指に力が入る。たまらなく私がうめき声をあげると、白い人が血相を変えてやめろと叫んでいた。


「月乃は関係ないでしょう! その手を離してください」

「関係ない? いや、関係はあるさ。今は月乃なんて名乗っちゃいるが、こいつは千歌だからな」


 一体何を言っているの? 私は今も昔も千歌だ。月乃なんて名前、知らない。知らない、はずなのに――


「わた、私は、誰? わからない。私は千歌なのに、誰かが私の中で叫ぶの。違う、私は千歌じゃないって。じゃあ、今ここにいる私は誰? 私は月乃なんて知らない。でも千歌じゃないって言うのなら、私は一体誰なの!?」


 わからないわからないわからない…………、やだよ、怖いよ、どうしたらいいかわからないよ! 助けて、誰か私を助けて!! 


「うるさい! 黙れ、莫迦女」


 知らないうちに私は悲鳴を上げていたらしい。そして言葉にならないそれは連翹をひどく苛立たせ、彼は私の首にかけた指に一層の力を込め締め上げる。ぐぅと喉が変な音を立て、ようやく私の悲鳴は止まった。


「月乃に手荒な真似はやめてください!」


 白い人が険しい顔で声を荒げている様を、私は咳き込みながら不思議な気持ちで眺めていた。

 何であの人はそこまで私のことを気に懸けてくれるんだろう。もしかしたらさっきから彼が呼んでいる“月乃”という人に関係があるのかもしれない。つきの……月乃、あなたは一体何者なの?


「俺に指図すんじゃねえよ、蛇。だがそうだな、こんな女、俺は返してやっても構わねぇぜ。ただし、お前が俺にかけた呪いをとけば、の話だが」

「私が……お前に、呪いを?」

「ああ、そうか。お前は全部忘れちまったんだっけか。この女の今際いまわきわの願いも、俺への仕打ちも」


 連翹はまたわけのわからないことを言うと、白い人を馬鹿にするかのように嗤った。


 今際の際の願い――今際の際って、私は今ここにいるのに? さっきから何かおかしい。今生、今際の際……まるで私、千歌はとうの昔に死んでしまっている(・・・・・・・・・)ような言い方だ。


 何の前触れもなく、足下から黒い泥のようなものが突然湧き出してきた。


「精々無い頭絞って思い出すんだな。それまでこの女は預かっとくよ。ただし、いつまで生かしておくかはわかんねぇけどな」


 頭の上から降り注ぐ連翹の狂ったような笑い声を最後に、視界は一気に黒い泥に覆われ、私は息苦しさの中、ゆっくりと意識を失った。



 ※ ※ ※ ※



 あれ? 私、たった今まで連翹と一緒に知らないお屋敷にいたはずなのに……。

 目を開ければ、そこは見慣れたいつもの道。通い慣れた神社へと続く一本道だった。優しい木漏れ日、耳に心地よい葉擦(はず)れの音、小鳥のさえずり。いつも通りの日常がここにはあった。

 私ったら、立ったままこんなところで夢でも見てたのかしら?

 狐につままれたような気分で思わず首を傾げる。すると、その時ちょうど視界の端に何か動くものが入ってきた。そちらに顔を向けると、道端に転がる朽木の中に何か白いものがちらちらと見える。私は何となくそちらへ足を向けると、朽木の中を覗き込んで見た。


 ――白蛇だ!


 そこには一匹の白蛇がいた。どうやら木の裂け目にひっかかり、にっちもさっちもいかなくなってしまっているみたいだ。よくよく見ると、ぽっこりと腹が膨れている。きっと食事をした後、いつもの感覚で狭い場所を抜けようとして引っかかったのだろう。ずいぶんと間抜けな神様の使いもいたものだ。


「ちょっとだけ我慢してくださいね」


 片方の手で後ろから白蛇様の頭の後ろの方を掴ませてもらい、もう片方の手で朽木の裂け目を広げる。ぼろぼろの木は予想通り脆く、白蛇様の救出はあっという間に終わった。


「はい、おしまい。次は気を付けてくださいよ」


 押さえていた頭を解放すると、白蛇様は慌てたようにするすると私から距離をとる。しかしちょっと離れたところで止まると、恐る恐るという風にこちらを振り返った。白蛇様の真っ赤な目が私をまっすぐ見る。

 そういえばこの白蛇様の目、さっきの夢の白い人に似てるような気がする。

 纏う色彩が同じだったからか、さっきの白日夢の中の人の顔が浮かんだ。蛇と人じゃ同じわけ無いのに、なぜか彼らの赤い瞳は重なって見えた。


 ――き


 誰かの声が聞こえた。慌てて周りを見てみるけど、私と白蛇様以外の姿はない。何て言ってたかは聞き取れなかったけど、確かに誰かの声がしたのに。


 ――き、ゆき


「ゆ、き?」


 その名前を口にした途端、頭を殴られたような激痛に見舞われた。

 そして次々流れ込んでくる知らない景色、知らない人たち。そこに出てくる人たちは皆、私のことを“月乃”と呼んでいた。そして白い人――(ゆき)もその中にいた。


 やめてやめてやめて! いや、私はこんなの知らない。助けて、助けてよ、薬鷹。私は千歌、違う、月乃じゃない!! 私は……本当に千歌? 私は、わたし、は…………


 気がつくと、私は一人暗闇の中に立っていた。自分の手さえ見えない、深い深い闇の中。全てを黒く塗りつぶす闇は、目を開けているのかどうか、本当に一人なのかさえもわからない。


「誰か、誰かいませんか」


 震える声で呼びかけてみたけど返事はおろか、こだま一つさえ返ってこなかった。ここは光もなければ音も、暗闇以外何もなかった。

 いやだ……、こんなところに長くいたら、きっと気が狂ってしまう。早く、早くここを出なきゃ。

 恐怖で棒のようになってしまっていた足を無理矢理動かし、私はとにかくがむしゃらに前へ前へと進んだ。何も見えない恐怖は私の心をすり減らし、いつどこから襲われるかわからない緊張感は体力を奪っていった。

 見えるものは何もなく、聞こえるのは自分の心臓の音だけ。歩いても歩いても壁にさえたどり着けない。ここは一体どこなのか、夢なら今すぐにでも覚めてくれと願いながら、それでも私は歩き続けた。

 しかし暗闇に終わりはなく、私はとうとう力尽きてその場に座り込んだ。もう一歩も歩けない、歩きたくない。何もかも嫌で、私は子供のようにべそをかき始める。


「もう、やだ。誰でもいいから、出てきてよ。一人は、いやだよ……」


 ――思い出して


 突然聞こえたその声に、私は勢いよく顔をあげてきょろきょろとあたりを見回した。


「誰!? どこにいるの、お願い、出てきて!」


 声は「思い出して」と言っていた。でも何を? そんなことより、今はその姿を見せてほしい。ううん、この暗闇だ、姿を見るのは不可能だろう。だったらせめて近くに来てほしい。もっと声を聞かせてほしい。


 ――思い出して、自分が誰なのかを。


 自分が誰なのか? 私は千歌。江戸生まれのしがない髪結い。


 ――思い出して、自分が()、誰なのかを。過去(わたし)じゃない、現在(あなた)のことを。


 昔の私、今の私。この声は何が言いたいんだろう。昔も今も、私は千歌だ。

 江戸で生まれて、江戸で育ち、そして恋をした。でも、その恋は叶った? 私は薬鷹と結ばれることができたんだっけ?

 ううん、できなかった。だって私たちは、私と薬鷹は…………


 連翹に殺されてしまったから。


「そう、だ。千歌は、千歌だった私は、ずっと昔に死んだんだ。私は、私は月乃。もう千歌じゃない、かつて(・・・)千歌だった、月乃だ」


 頭の中の霧が晴れてゆく。そう、今の私は日月(たちもり)月乃。遠い昔、千歌という少女として生きて、薬鷹に恋をし、非業の死を遂げたんだ。

 だから夢を見た。知らないはずなのに懐かしかったあの夢。あれは魂に刻まれた千歌(むかし)の記憶。

 だけどあまりに強烈だった千歌の記憶は月乃の記憶を塗りつぶし、結果今の自分がどっちなのかわからなくなってしまったんだ。


 顔を上げると、暗闇の中に仄かな光を纏った少女が浮かび上がっていた。粗末な木綿の着物を着た少女、それは夢で見た少女。


「千歌」


 私の呟きに少女は微笑みを返すと、ゆっくりとこちらに歩いてくる。そして私の目の前まで来ると立ち止まり、おもむろに私を抱きしめた。


「ごめんなさい、私たちのせいであなたには辛い思いをさせてしまった。でもどうかお願い、あの人を、薬鷹を助けてあげて」


 耳元で囁かれる、過去(前世)の自分からの詫びと懇願。なんだか変な感じ。


「でも、助けるってどうやって? 私、特別な力なんて何も持ってないよ」

「大丈夫。その時が来たら、私を呼んで」


 それだけ言い残すと、彼女は煙のようにふっと掻き消えてしまった。


 ふわふわとした浮遊感に包まれながら、私はこの長い夢の終わりを感じていた。

 

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