十二 千歌
ああ、またあの夢だ。
私が私じゃない別の誰かになっている夢。
少し曇った鏡面に映るのは知らない女の子の顔。わかるのは彼女が私と同じくらいの年頃ということと、なんだかとても嬉しそうだということだった。頬をばら色に染め微笑む彼女はとにかくきらきらしていて、見ているこっちまで嬉しくなってくる。
身支度を終えた彼女は狭い部屋から狭い路地、そして大通りからまた路地へと進んで行く。その足取りは軽やかで、まるで今にも踊りだしそうだ。どこへ行くかは知らないけど、よほど楽しみなことでもあるのだろう。彼女の興奮にあてられて、私もだんだん楽しくなってきた。
やがて最初の長屋とは別の長屋に辿り着き、彼女はその中の一軒の戸を開けた。
「こんにちは、薬鷹」
息を弾ませた彼女の視線の先にいたのは、柔和な微笑みを浮かべた龍臣さんそっくりの人だった。
「千歌、今日はまたずいぶんと楽しそうだね。何かいいことでもあったのかい」
――――千歌。
そうだ、この体の持ち主の名前は千歌だ。知らないけど知っている。憶えていないけど懐かしい。そんな矛盾した感情が次々に湧き上がってくる。
千歌が板の間に腰かけると、彼は手慣れた感じで彼女に茶碗を差し出す。千歌はそれを一気に飲み干すと、息を整えるのももどかしいという感じで喋り始めた。薬鷹と呼ばれた青年はそんな彼女のマシンガントークを楽しそうに聞いている。
薬鷹が千歌を見る目はとても慈愛に満ちあふれていて、彼は千歌のことが本当に好きなんだなと思えた。顔は同じなのに龍臣さんとは大違いだ。それに龍臣さんはどちらかというと、明け方の夢に出てきたもう一人、連翹と呼ばれていた方に似ていた。
「――でね、そのお客さんは上方から来た人なんだけど、向こうでは今、竹本座の曾根崎心中ってのがすごい人気なんだって。いいなぁ、江戸でも上演してくれないかなぁ」
そう言うと千歌は、お客さんに教えてもらったのだと詩のようなものを諳んじ始めた。
――此の世の名残。夜も名残。死に行く身を譬ふれば。あだしが原の道の霜。一足づつに消えて行く。夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の。七つの時が六つなりて残る一つが今生の。鐘の響きの聞き納め。寂滅為楽と響くなり――
「お前さん、本当にその話が好きなんだな。しかし此の世の名残、夜も名残……か。死ぬしかないなんて、ずいぶんと悲しい結末だな」
「そうね。でも私はね、そんな二人にどうしようもなく憧れる気持ちもあるの。だって、死んででも一緒になりたいほど愛してるってことでしょ。私も好いた人にそんな風に想われてみたいわ」
千歌は物騒なことをうっとりと語り、薬鷹はそれに苦笑いを返す。
「でもよ、俺だったら死んで一緒になるよりゃ、好いた女とは生きて一緒になりたいけどな」
真摯な瞳で見つめてくる薬鷹に千歌は一瞬身を固くしたが、すぐに平静を取り繕って笑い出す。でも彼女の心臓はそんな態度とは裏腹に、ばくばくと忙しなく鼓動を刻んでいた。
「やだね、この女誑しは。そんな甘い言葉ばっかり口にしてると、気のない女にも勘違いされるよ」
「お前さんは勘違いしてくれないのかい?」
薬鷹のまっすぐな眼差しが千歌を捉える。
このなんともいえない緊張感。彼はきっと告白しようとしている。千歌はそんな彼を何とかはぐらかそうとしているけど、たぶんもう無理だ。
でも、彼女だってこの目の前の青年を好きなはずなのに、何がその気持ちにブレーキをかけているんだろう? さっきから彼女の心臓は痛いくらいドキドキしているし、顔だってすごく熱い。彼女の心はこんなにも期待しているのに、同時にすごく不安にもなってる。
だから千歌はその心を喜びに震わせながらも、薬鷹の次の言葉を恐れていた。喜びと悲しみ、そして諦め。様々に絡み合う気持ちに揺れ動き混乱している。その動揺は顔にもはっきり表れているらしく、薬鷹は一瞬悲しそうな顔をした。しかし彼はすぐにその表情を消すと、うろたえる千歌に真剣な面持ちで自分の想いを告げてきた。
「千歌、俺と一緒になってくれ。俺は来世じゃなく、今生でお前と共に生きたい」
きっと今の彼女の顔は真っ赤だろう。だって、顔がすごく熱い。当の千歌は口をパクパクさせながら、言葉もなくただ彼を見ていた。
「でもそうだな……お前の為に死ぬんなら、それも悪くないかもな」
そう言ってにかっと笑う薬鷹。
追い討ちのような殺し文句に、彼女から歓喜の感情がこれでもかと流れ込んでくる。でも、喜び溢れる心に反してその口から紡がれたのは拒絶の言葉。
「ごめんなさい。薬鷹の気持ちはとても嬉しい……けど、私はあなたと一緒にはなれない」
今度は胸が張り裂けるような悲しみが流れ込んでくる。
――愛し愛され共に生きられるのならば、どれだけ幸せだったんだろう。本当はもっと早くにあなたから離れるべきだった。けれどあさましい私は、夫婦になれないのならせめて友としてあなたの傍にいたいと望んでしまったの。あいつに目を付けられた時点でそんなことは叶わないってわかってたのに。私のことを好いてくれてありがとう。そしてごめんなさい。私の我儘な願いがあなたの気持ちを弄ぶことになってしまった――
彼女のやりきれない想いが流れ込んでくるのと同時に、別の誰かの声も流れ込んできた。男の人の低い声。冷たいのに熱を孕んだ、アンバランスな危うさを感じさせる声。
――もしお前が薬鷹と一緒になると言うのならば、俺はお前の大切な者全てを壊すよ――
笑いながらこんなひどいことを言うのは誰? この人は何のために千歌にこんな重い枷を付けたの? でもこの声、私はどこかで聞いたことがある。龍臣さん? ううん、違う。似ているけど、違う。
これは、この声は……そう、連翹だ!
過去の記憶を取り戻した時に見た夢――、薬鷹を殺したあの時の、狂気に彩られた連翹の声と同じなんだ。
「なあ千歌、理由を聞いてもいいかい? この一年、結構な時を一緒にいたんだからわかるよ。お前さんだって俺のことを憎からず想ってくれていたのは。それなのに断るってことは、何かしら理由があるんじゃないのかい?」
薬鷹の言葉にうつむく千歌。視界がぼやけているのは彼女が泣いているからだろう。ぼろぼろと涙をこぼしながらも、彼女は頑として理由を言わない。
ただひたすら、「ごめんなさい」と何度も何度も繰り返していた。
※ ※ ※ ※
目を開けると、体が熱くてふわふわしていた。薄い膜を隔てたような視界はいつもより世界が滲んで見えるし、とにかく喉がからからだった。
起きようと体を動かすと、綏子が慌てて飛んできた。
「よかった。目、覚めたんだね。ほんと、びっくりしたよ。月乃ってばいきなり倒れるんだもん」
綏子に手伝ってもらって状態を起こすと、さっきとはまた別の部屋に布団が敷かれ、私はそこに寝かされていた。今度は書院造の和室だ。この屋敷は本当に一体何部屋くらいあるんだろう。
「私、倒れたの? ごめん、なんか急に眩暈がして、その後のことは全然覚えてなくて」
「いいよいいよ、私なんにもしてないし。それにここまで月乃運んだの玉屑さんだしね。そうそう、さっき診てくれたくれたお医者さんが言うには、疲れからきた発熱だろうって。それにしてもすごいね、ここ。農家からお医者さんまで、一通りの職業の人がいるらしいよ」
綏子の口は止まることなく次々と色々な話をしていたけど、その手はてきぱきとミネラルウォーターをコップに注いで私に差し出してくれた。私はそれをありがたく受け取ると一気に飲み干す。乾いた体に水がしみわたり、さっきよりちょっとだけ頭がはっきりしてきた。
私がコップを置いた瞬間、勢いよく襖が開かれた。そこには今にも泣きそうな顔の雪がいて、なぜかすごい勢いで土下座をされた。
「申し訳ありませんでした!! 立て続けに色々あった月乃の心身の負担を顧みず、考えなしに守護の印をつけたせいで貴女の体調を崩すことになってしまいました」
畳に頭をこすりつける雪に、私は大慌てで頭を上げるように頼んだ。いきなり土下座した雪には綏子も引いたみたいで、いつのまにか部屋の隅っこに避難して遠巻きに私たちを見ている。
私はそんな雪を見て思わずため息をついてしまった。そんな私の反応に雪がびくっと肩を揺らす。
別に私は雪が悪いなんてこれっぽっちも思ってないのに、ここまでされると正直困る。そもそも私を守る為にやってくれたことだし、今回はたまたま私の体力と精神力の限界がきて倒れてしまったけど、そのことで雪が謝る必要なんてないのに。
「私はもう大丈夫だよ。ちょっと熱っぽいだけだし、こんなの一晩寝れば治っちゃうから。それよりも頭上げてくれないかな。雪にいつまでも土下座されていると、私、横になりたくてもなれないんだけどな」
不承不承、雪はやっと土下座をやめて顔を上げてくれた。ただし、その顔は全然納得しているようには見えなかったけど。
うーん、雪のこういうところ、ちょっと面倒くさいかも。やたら自分を責める性格とか、過保護で心配性なところとか。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」という先人の言葉をぜひ贈りたい。あとは「考えるな、感じろ」とか?
いけない、いけない。熱が出ているせいか、思考があさっての方向にいってしまう。
雪に断って、熱でだるさを訴える体を横にさせてもらった。すると雪はまるで壊れ物でも扱うかのように私の前髪をそっと上げ、恐る恐るという風に額に手を当ててきた。
「雪の手、冷たくて気持ちいいね」
熱で火照った体に、冷たい手がとても気持ちがよかった。
どこか外国のことわざだったっけ、手が冷たい人は心が温かいって。うん、雪に関してはそれ当たってるね。雪は優しい。でも優しすぎ……る…………
熱のせいなのか雪の手の心地よさのせいなのか。私の意識はゆらりゆらり夢の淵へと誘われてゆく。
「雪……眠るまで、そばに……いて」
夢と現の狭間にたゆたっている私の口からは、普段は言わない子供みたいな言葉がこぼれおちる。
「はい。では月乃が眠るまで、何かお話でもしましょうか」
「うん。じゃあね、春の朝……聞きたいな」
「おまかせください。月乃が何度も諳んじていたので、隣で聞いていた私もすっかり暗唱できるようなったんですよ。時は春、日は朝、朝は七時…………」
雪の柔らかい声を子守唄に、私はいつしか完全に夢の世界の住人となっていた。
※ ※ ※ ※
「わかった。だからあの人には、薬鷹には手を出さないで」
少女の声が聞こえた。
いい加減聞きなれたその声。ああ、これは明け方のあの夢の続きだ。
目の前には酷薄な笑みを浮かべる青年、連翹がいる。私と視点を共有する少女、千歌は連翹と対峙していた。そんな彼女から流れ込んでくるのは緊張、不安そして焦燥感。
それにしても、この夢は一体何なんだろう。なぜ私はこの夢を何度も見るんだろう。私とこの人たちには何の関係があるんだろう。この夢を見るたびに徐々に強くなる既視感、そして自分が自分じゃない別人に浸食されていくような感覚。
私はこの夢を見るのが怖くなってきていた。回数を重ねるごとに月乃が千歌に塗りつぶされていくような気がして。
実際、私はずいぶん変わったと思う。でもそれは雪や深緋さん、小倉君や綏子たちと関わったことによって変わったのか、呪いのことがなくなって解放的になって変わったのか、……それとも彼女と私が混ざり合ってきているからなのか。
「それにしてもさっきの貴女の台詞、ずいぶんと馴れ馴れしい物言いでしたね。薬鷹はもう自分のものだとでも言いたいのですか?」
連翹の冷え冷えとした声で、考え事に耽っていた私の意識が引き戻された。いつのまにか場所が変わっている。鬱蒼とした木立の中、千歌は連翹と対峙していた。
「違う! 私と薬鷹はただの友達で、あなたが勘ぐっているような関係じゃないって何度言ったらわかるの」
「ただの友達、ね。お前の中では、『一緒になってくれ』なんて言うのがただの友達なんだな」
急に口調が変わり、小馬鹿にしたような連翹の言葉に千歌はびくりと震えた。そんな彼女の反応に連翹の目がすうっと細められる。
「薬鷹には手を出さないで? 莫迦か、俺が最愛の弟に手を出すわけないだろう。一体何を勘違いしているか知らないが、俺が愛しているのは今も昔も弟だけだ。最初っからお前なんぞに興味ないんだよ」
思いもよらない展開になってきた。千歌も連翹の台詞に絶句して固まっている。
私はまたてっきり、連翹が千歌に横恋慕しているんだと思ってた。だから嫉妬で薬鷹との邪魔をしているんだって。でも実際は連翹の本命は薬鷹で、牽制していた相手が千歌だった。でもでも、連翹と薬鷹は兄弟で、しかも男同士だ。普通恋愛対象外でしょう、そんなの。なんて不毛な三角関係。
「じゃあ何で私に言い寄ってたのよ。興味ないんだったら構わないでくれていたらよかったのに!」
意外と早く立ち直った千歌は、連翹にもっともな文句をぶつけた。
それにしてもどういうこと? 連翹は薬鷹が好きだったのに千歌にも言い寄ってたってこと? でも、千歌には興味ないって今はっきり言ってたよね。じゃあ、千歌を口説いた目的って一体何なんだったの?
「そもそもお前が薬鷹に色目使ったりしなきゃ、俺がこんな気持ち悪いことする必要なんてなかったんだよ。お前さえいなけりゃ、あいつはずっと俺だけのものだったのに……」
「薬鷹から引き離すために私を口説いたってこと? 狂ってるわ、あんた」
恐怖を感じて千歌が一歩後ずさったその時、連翹は懐から何か布に包まれたものを取り出した。それを見た瞬間、頭の中に警鐘が鳴り響く。これは明け方の夢の続き、そして記憶を取り戻した時に見た悪夢に続く夢。
案の定、布の中から現われたのはあの刃物。そして連翹はまるでゴミでも見るかのような目で私たちを見た。
「さっさと俺に口説き落とされてりゃよかったんだよ。そしたら今、こんなとこで死ぬことなんてなかったのにな」
薄ら笑いを浮かべながら距離を詰めてくる連翹。その時、突如第三者の声が割り込んできた。
「兄さん」
木立の間から姿を現したのは薬鷹。彼は千歌の前に立つと、連翹と対峙した。
普通なら助けがきて一安心というところだけど、残念ながら彼は私たちを助けることはない。むしろ破滅への引き金となる。だって、この夢はあの血塗れの悪夢に続いているんだから。
「どうしたっていうんだい? そんな息切らして血相変えて」
「兄さん、あんたと話をしに来た」
「そんなに改まって何を話すっていうんだよ。ああ、もしかしてやっと家に戻ってくる決心がついたのか?」
嬉しそうな連翹とは対照的に、薬鷹は悲しそうに首を振る。
「家に戻るつもりはないよ。跡継ぎなら兄さんがいるだろ。俺は穀潰しになるつもりはない。兄さんには申し訳ないと思うけど、俺はこのままここで千歌と所帯を持ちたいんだ」
連翹は弟の訴えに浮かべていた笑みを凍りつかせた。そのまま無表情になったと思ったら、次の瞬間には高らかに笑いだした。困惑する二人の前で狂ったように哄笑を続けていた連翹は、突然ぴたりと笑うのをやめると私たちを睨みつけた。
「許さない! そんなこと、絶対許さない!!」
今度は激昂して喚き散らす。そして連翹は何を思ったのか、突如猛然とこちらへ向かって走り出した。
それは一瞬の出来事だった。
全てがスローモーションのように感じられ、私はただただその光景を馬鹿みたいに眺めていた。恋敵に凶刃をふるう連翹、想い人をかばった薬鷹、絶望に涙する千歌――
千歌が何か叫んでいる。彼女は死に物狂いの力で連翹を突き飛ばすと、崩れ落ちる薬鷹を必死に抱きとめようとしていた。しかし支えきれず、二人は地面に倒れこむ。
――ああ、悪夢の始まりだ。
腕の中には苦悶の表情の薬鷹。その腹からは温かな血潮が止め処なく流れ出て、粗末な着物をじわじわと赤く染めあげてゆく。
「すまない、兄さん。あなたも……千歌のことを想っていたなんて、知らなかった……だ」
光を失いつつある虚ろな瞳で、薬鷹は連翹に何度も詫びていた。同じ人を好きになってしまってすまない、そのことに気づけなくて申し訳なかった、それでも彼女を譲ることが出来なかった、ごめん、と。
薬鷹が謝る必要なんて微塵もないのに。きっと中途半端にさっきの二人の会話を聞いて誤解してしまったんだろう。
「今生で私と一緒に生きたいって言ってくれたじゃない! 私もあなたと一緒に生きたい。だから逝かないで、逝かないでよぉ」
「はは……思いが通じるってのは、やっぱり嬉しいもんだな。でも、ごめんな」
千歌の頬を一撫ですると、薬鷹は腹を押さえながらゆっくりと立ち上がった。指の間から流れ出る鮮血が彼の足を伝い、地面を赤黒く染めてゆく。
「逃げろ、千歌。兄さんは、俺がなんとか……する」
「いや!! 薬鷹一人置いて行くなんて出来ない。あなたも一緒じゃなきゃ行かない!」
押し問答する薬鷹と千歌、視界の端でゆらりと立ちあがった連翹。
わかっている、これは避けられない運命。そう、全ては既に起こってしまったことだから。全部過去の出来事だから。
何で私はそんなことを知っているんだろう。わからない、わからないけどなぜか知っていた。これは過去、遠い昔に起こった悲しい出来事。
滲んでぼやけた目の前の光景はやがて黒く塗りつぶされ、私の意識は再び深い眠りの中へと落ちていった。