十一 招かれざる者
慌てて扉に駆け寄ろうとしたした私を止めたのは、さっきまで部屋の隅っこでいじけていた小倉君だった。
「罠だよ、月乃」
「でも……本当に怪我してたら」
そんな私に首を振る小倉君。
もし松葉さんの怪我が本当だったら、このままじゃ彼が危ない。
「今そこにいるのは、まっさんなんかじゃない。本物のまっさんだったら、あんな風に女の子に泣きついたりしないと思うよ」
言われてみればそんな気もするけど、私はまだ松葉さんのことなんてほとんど知らない。それにやけにきっぱりと断言してるけど、小倉君なんて松葉さんとの付き合いは私より短いはずだ。何を以ってそこまではっきり言い切れるんだろう。
「何でそんなん言いきれんだって顔してんね。俺とまっさんはね、会った瞬間わかったんだよ。自分たちは同類だって。あとはそうだな……、じゃあわかり易いのを一つ」
小倉君は私を綏子に預けると、一人ドアの前に立つ。
「ここは開けないよ、偽まっさん。本物のまっさんはさ、月乃のことツッキーって呼ぶよ」
そうだ! 松葉さんは誰にでもすぐあだ名をつける人だった。私はツッキー、小倉君はアッキー、綏子はやっちゃんって呼んでた。初めて会ってから今まで、一度も月乃なんて呼ばれたことない。
「あとね、まっさんは女の子を危険にさらすような真似しないよ。カッコつけだもん。女の子の前で情けない姿さらすくらいなら、見えないとこで敵にブッ飛ばされるのを選ぶと思うよ」
さっきまで助けを求める松葉さんの声がしていたはずの扉の向こうは、今は不気味なほど静まり返っている。私と綏子は互いの手を握り、固唾を呑みながら扉と小倉君を見つめていた。
しばらくすると、扉の向こうから冷蔵庫のような、すごく冷たい空気が流れてきた。それはたちまち部屋を満たし、暗闇を恐れるような原始的な恐怖を私たちにもたらした。
――ばん、ばんばんばん、ばんばんばんばんばんばん
扉の向こう側から、無数の何かが一斉に扉を叩きだした。それは土砂降りの雨のように部屋全体に降り注ぎ、私と綏子はたまらずしゃがみこんで耳を塞いだ。そんな中、小倉君だけは扉の前で耳を塞ぎながらも立っている。
そしてその音は唐突に止んだ。さっきまであれだけうるさかったのに、今は自分の心臓の音が一番うるさいくらいに静かだ。
「小賢しいガキめ。いいだろう、今日のところは退いてやる。そろそろやつらもこちらに来る頃だろうしな」
扉の向こうから聞こえてきたのは、地を這うような龍臣さんの声。
「おっさんさ、しつこい男は女の子に嫌われるよ。粘り強いとしつこいは紙一重だっつの。時には潔く諦めんのも男気ってもんよ?」
「知ったようなことを。……月乃、必ず迎えに来るからな」
それだけ言い残すと、龍臣さんは拍子抜けするほどあっさり立ち去ったようだ。扉の向こうには再び静寂が戻る。
緊張がとけて、私たちは三人同時に大きなため息を吐き出していた。一番緊張していたのはもちろん小倉君だったんだろうけど。
「あー怖かったぁ。イケメン超怖い。いつ扉破られんのかって、すっげードキドキした!」
振り返った小倉君の顔はいつもの笑顔だったけど、その手は微かに震えているように見えた。
あんな怖い人相手によくあれだけ啖呵きれるなって思ってたけど、やっぱり怖かったんだね。それでも私たちの前で見栄を張って頑張ってくれたんだ。
「ありがとう。小倉君がいなかったら、きっと私扉開けてた。あれほど雪に開けちゃだめだって言われてたのにね。あの松葉さんに助けてなんて言われてテンパっちゃって、頭の中真っ白になってた」
「どーいたしましてー。どう? 惚れちゃった?」
そんな小倉君の軽口にすかさず綏子がつっこむ。
「調子のるんじゃないわよ、バカ成! あんた自分で言ってたでしょ、粘り強いのとしつこいのは紙一重だって。一度みんなの前で振られてるくせに諦め悪いわよ」
「うっせーな。いいか、月乃みたいなタイプはな、たぶん押しに弱いんだよ。こういう時につけ込まないでいつつけ込むんだよ!」
小倉君と綏子の夫婦漫才が始まる。二人のやりとりで部屋には再び和やかな雰囲気が戻ってきた。
静かだった扉の外がにわかに騒がしくなり、ばんっという大きな音と共に扉が大きく開かれた。
「みんな無事!?」
勢いよく飛び込んできたのは深緋さん。その後ろから傷一つない松葉さん。そして扉の外で苦笑いしている雪と、その隣に立っているのは青丹さん。
「だから言ったでしょう、大丈夫だと。深緋は本当に私のこと信じていませんよね」
「当たり前でしょ。玉屑なんて、幼女に手を出して力の大半を失うような大馬鹿者なのよ」
辛辣な深緋さんの言葉に力なく笑う雪。すっかりおなじみになったその光景にみんなが笑っていたその時、私の目はそれを捉えてしまった。
「どうしたの? って……何、あれ」
凍りついた私の視線を追って、綏子もそれに気づいた。
扉についた無数の手形。ぬらぬらとどす黒く光るそれが、両開きの扉をまだらに染め上げていた。そこから漂う泥臭さというか生臭さに、私は改めてとんでもないものに狙われているんだということを思い知らされる。
「申し訳ありません、また怖い思いをさせてしまいましたね。あれはすぐに片付けますので、とりあえず場所を移しましょう」
雪はさりげなく私の視線を遮りながら、扉が見えないように廊下に誘導してくれた。
そして次に案内された部屋は中華風だった。赤を基調とした内装に、窓には中国格子、中央に丸テーブルが置かれている。ここは本当に無国籍で無節操らしい。私たちが席に着くと、青丹さんがお茶を持ってきてくれた。ペットボトルのウーロン茶だったけど。
ふと隣を見ると、綏子がまたもや緊張してがちがちになっていた。さっきまであんなにリラックスしていたのにどうしたんだろう。
「綏子、具合でも悪いの?」
私がそっと聞くと、代わりに小倉君が笑いながら答えてくれた。
「違う違う、こいつさぁ、幽霊と蛇が苦手なんだよ。あとゴキブッ――」
小倉君が全てを言い終わらないうちに綏子の手刀が彼の脳天に炸裂した。
うん、これは小倉君が悪い。どうやら雪たちの本性のことをすっかり忘れているみたいだけど、幽霊はともかく、ゴキブリと彼らを同列に扱うのはいくらなんでもちょっと……ゴキブリには悪いけど、うん。
しかし時すでに遅く、深緋さんは小倉君の言葉の続きを察してしまっていたようだ。満面の笑みで小倉君のほっぺたをぐいぐい引っ張っている。まあ、あれは怒るよね。
小倉君への制裁も終わりすっきりしたところで、雪が本題をきりだした。
「龍臣ですが、彼は夏虫という者に化けていました。どうやら奴は取り込んだ者の姿形はおろか、魂さえも似せることが出来るようです。ですからいなくなった者たちの確認が終わり次第、その者たちの名前や特徴をお教えしますね」
取り込んだ人の姿になれるなんて、この二日間で龍臣さんの体に本当に何が起きたの? 体だけじゃなく言動もかなりおかしくなってたし、一体何が彼をあんな風にしているんだろう。
みんなが考え込みしんとなった部屋に小倉君の能天気な声が響いた。
「はいはーい、質問。俺たちさっきイケメンに襲われた時、あいつまっさんの声で騙そうとしてきたんだけど、取り込んだ人の姿にしかなれないんだよね? じゃあさ、そこにいるまっさんて本物?」
小倉君は無邪気な顔で首を傾げながら松葉さんを指差した。みんなの視線が一斉に集まり、松葉さんが飛び上がる。
「なな、何言ってんの!? 本物に決まってんじゃん! ちょっ、やめてよアッキー。……て、深緋様? 何、何で指バキバキ鳴らしてるんスか。いや、ほんとに本物ですってオレ!! だいたいさっきまでずっと一緒にいたじゃないっスか」
怯えて後ずさる松葉さんに、意外なところから助け船が出された。
「お待ちください、深緋様。この松葉が本物かどうか確かめるのでしたら、殴るよりもいい方法があります」
青丹さんは松葉さんに向き直ると、無表情で一息に言い放った。
「あなたが本物の松葉だというのならば、焚火の上で逆立ちしながら頭に氷塊を乗せ両足で皿回しが出来るはずです」
「採用!」
「出来るかっ!! 青丹、お前兄ちゃんで遊んでるだろ。深緋様もわかっててやってますよね? 泣きますよ、オレ。ねぇ、ほんと泣いていいっスか」
深緋さんと青丹さんに弄ばれ既に半泣きの松葉さんに、相変わらず空気など関係ない小倉君が質問を続ける。
「じゃあさ、とりあえずそこのまっさんが本物だとして、何でイケメンはまっさんの声出せたの?」
「夏虫だよ、夏虫! あいつ、オレの声真似が十八番で、しかもムカつくほど似てるらしいんだよ。そのせいで何度オレがひどいめにあったことか……」
半泣きに加え遠い目で、松葉さんはここにいない夏虫さんへの愚痴をこぼし始めた。どうやら相当迷惑を被ってきたらしい。あ、とうとう部屋の隅っこで体育座りでいじけ始めた。……って、これさっきの小倉君と同じ反応だ。小倉君の言うとおり、確かに二人は同類っぽい。
自分の世界に引きこもってしまった松葉さんは置いておいて、私たちは龍臣さんへの対抗策などを話し合った。といっても、私たちみたいなただの人間があんなのに敵うわけないので、隠し通路とか結界のある部屋の位置が記された配置図をもらっただけだけど。しかし見れば見るほど複雑怪奇な間取りのお屋敷だ。
ふと視線を感じて配置図から顔を上げると、隣に座る雪と目があった。ちょいちょいと手招きで呼ぶので、「なに?」と目で返して雪の方に顔を向けた。すると彼はおもむろに私の前髪をかきあげ――
気がついた時には雪の首が目の前にあった。
白くてすらっとした綺麗な首。でも喉仏が出っ張ってて、女の人とは明らかに違う男の人の首。それがなぜ今私の目の前にあるのか。そして額に感じるこの柔らかい感触は何なのか。
私は思考を放棄した。考えて、その答えに辿り着いてしまった時平常心でいられる自信がなかったから。だから私は現実逃避した。
でも現実は非情だった。そう、ここにはデリカシーというものを持ち合わせていない人がいたんだった。
「せっつぁんが、せっつぁんが俺の月乃にキスしたーーー!!」
私は油の切れた機械のようなぎこちない動きでなんとか首を動かし、火が出そうなほど真っ赤になっているであろう顔で雪を見上げた。しかしこの騒動の当人である雪は涼しげな顔だ。むしろ、騒いでいる小倉君を不思議そうな顔で眺めている。
「せっつぁん、ずるいよ!! 俺なんてチューどころかハグだってまだなのに!」
小倉君がすごい勢いで雪に抗議する。しかし雪はやっぱり不思議そうに首を傾げている。何が原因かいまいちわかっていないみたいだ。
あと小倉君、普通は友達にチューはしません。何どさくさに紛れて妙なこと口走ってるのかな。
「ずるいと言われましても、私はただ守護の印をつけただけですよ。もしも月乃に何かあった時、少しでも助けになるように」
そして雪は何を勘違いしたのか、小倉君のところへ行くと彼の前髪も上げようとした。それに慌てたのは小倉君。彼は脱兎のごとく椅子を蹴倒し、そのまま大きく後ろに跳んだ。
「待て、待て待て待て! 落ち着け、せっつぁん。俺にはソッチ系の趣味はない。断じてない!! つーか何でそうなんだよ」
「陽成も守護の印が欲しいのかと思ったのですが、違ったのですか?」
心底不思議そうに小首を傾げる雪に、なぜだかちょっと頬を赤らめた小倉君がつっこむ。
「違うわ! それにそーゆーのくれんなら、俺はせっつぁんより深緋ちゃんがいい。つか男のはいらん」
小倉君の言葉を受け、雪がちらりと深緋さんの方を見た。すると深緋さんは仕方ないというように肩をすくめ立ち上がると、そのまま小倉君のもとへと向かい何のためらいもなくキスをした。頬だったけど。彼女はその足でそのまま綏子のところへ行くと、やっぱり何のためらいもなく頬にキスをした。
びっくりしたのはキスされた二人だ。その瞬間は言葉も出なかった二人だけど、その後の反応は正反対。小倉君は「よっしゃぁ!」と歓喜の声と共に右手を天井に向かい突き上げ、綏子は顔面蒼白で呆然とその場に立ち尽くしていた。それにしても小倉君……さっきまで俺の月乃とか恥ずかしいこと言ってたくせに、その喜びようはないんじゃないかな。別にいいんだけど、なんかちょっと複雑。
「この二人は私が拾ってきたんだから、最後まで私が面倒みるわ。だから玉屑、あなたも最後まで月乃をしっかり守りなさい」
出来の悪い弟を見守る姉のような深緋さん。見た目は雪の方が年上なのに、こうして見るとまるで姉と弟を見ているようだ。
深緋さん、彼女は本当のところ雪のことをどう思っているんだろう。最初は許嫁だなんて言っていたけど、その割には雪に対する態度には家族の情のようなものしか感じられない。彼女は本当に雪のことを恋愛対象として好きなんだろうか? 私には深緋さんの気持ちが全然わからない。
じゃあ私は? 私は雪のことをどう思っているんだろう。
蛇の姿の時はずっと友達だと思ってた。小さい頃、早雪の姿をとっていた時は、幼いながら異性として好きだった、と思う。じゃあ今は? 今の雪のこと、私はどう思っているんだろう。友達? 兄? なんか違う気がする。
じゃあ、私は雪のことが男の人として好き……とか?
「月乃、大丈夫ですか? 顔が真っ赤ですよ」
自分の気持ちについて一人考え込んでいる間に、雪が隣に戻ってきていたらしい。至近距離から不意打ちで声をかけられ、おもわず「ひゃい!?」などという奇声を返してしまった。
だめだ、今は雪の顔がまともに見られない。さっきキスされたおでこはやたら熱く感じるし、心臓は全力疾走した後みたいにドキドキうるさいし、なんかやたら恥ずかしいし。
「月乃、ちょっ、しっかりしてください!!」
どうしよう……なんか、ドキドキしすぎて……目が、まわる………………