一 始まり
その人は、いつも寂しそうに微笑んでいた。
白い髪をそよ風に遊ばせ、赤い瞳に憧憬をにじませ、静かに遠くを見ていた。
慰めたくて手を伸ばしても、その人には決して届かない。
白くて儚い、昼の月のような人。
※ ※ ※ ※
障子越しに射し込む白い朝日で目が覚めた。
ああ、今日も憂鬱な一日が始まる。
私は布団の上で身を起こすと、目尻に指を当てる。思った通り、指先には涙が一滴。
「あの夢、また見たんだ……」
いつからだろう、私は同じ夢を見続けている。
夢に出てくるのはいつも同じ人。雪のように真っ白な髪と、血のように赤い瞳を持つ男の人。
月の精のように美しい彼を、私は“桂男の君”と勝手に呼んでいた。
ちなみに彼とは一言も言葉を交わしたこともない。私が一方的に見ているだけ。決して触れられないし、声も届かない。
別にそれが悲しいわけじゃない。でも、桂男の君の夢を見て目覚めた朝、私はいつも泣いていた。
しばらく布団の上で夢の余韻に惚けていたが、無情にも時は進む。私はのろのろと寝間着を脱ぎ、制服に着替えると部屋を出た。
洗面所で身支度をしていると、通いのお手伝いさんの三田村さんが背後に立っていた。
「おはようございます、月乃お嬢様。朝食の用意が出来ております」
「ありがとう。すぐに行きます」
私の返事を確認すると、「では、私はこれで失礼させていただきます」と無表情でお辞儀をし、そのまま玄関の方へと去っていった。
彼女の後姿を見送り再び洗面台に向かうと、鏡が目に入った。中から陰気な少女がこちらを見る。真っ直ぐで長い黒髪は重く、青白い肌はまるで病人のよう。赤い唇だけが浮いて見える。
――幽霊みたい。
私は鏡の中の少女に自嘲の笑みを投げかけると、居間へ向かった。
私、日月月乃は日月酒造の跡取り娘だ。
とはいっても、私は家業のことは殆ど知らない。教えてくれる人はもういないから。
七歳の誕生日の三日前に、私は家族を喪った――交通事故だった。
両親も祖母も即死だったというのに、私だけは怪我らしい怪我も負わず一人だけ生き残ってしまった。
あの日から日月家は村の人たちに“呪われた家”と噂されるようになり、「日月に関わった者は不幸に見舞われる」と言われるようになった。実際、私に深く関わった人たちは立て続けに事故などに遭い、程なく噂は“呪われた家”から“呪われた娘”に変わっていった。
そんな私を引き取ってくれたのは、分家の月出家の龍臣さんだ。彼も早くに身内を亡くしているため、私たちはお互いが唯一の親族となった。
彼とは一つ屋根の下で暮らしてはいるが、顔を会わせる回数は決して多くない。私より十四上の彼は日月の会社を切り盛りしているため、毎日とても忙しいようだ。私とはほぼすれ違い生活となっている。たまに顔を会わせた時などは気遣って色々話しかけてきてくれるし、学校行事にも出来る範囲内で参加してくれている。彼が私の心を開こうと努力してくれているのはわかっていたのだが、私はどうしても彼に一線を引いてしまっていた。
とても感謝している。彼がいなければ、今のような衣食住に困らない生活は送れていなかっただろう。しかし本当に申し訳ないのだが、私は彼がとても苦手だった。理由はわからないけど、とにかく彼が怖かった。
男らしく精悍な顔立ちは、きっと多くの女性を惹きつけてやまないだろう。性格も優しいと思うし、暴力をふるうこともない。未だ独身なのが信じられない優良物件だ。もしかしたら保護者の責任として、私が成人するまで結婚しないつもりなのかもしれない。だとしたら、ますます申し訳なく思う。彼に非はないのに。だから今の目標は出来る限り早く自立して、早々に彼を私の世話から解放することだ。
というのは建前で、本当は一日でも早く彼から逃げ出したいのだ。理由はわからないけど私は彼が苦手で、一緒にいると心がざわつく。言い知れぬ不安に苛まれる。とにもかくにも逃げ出したくなる。
特にここ最近、ふとした瞬間感じる彼からの視線。昏く、まとわりつくような視線――。
私の気のせいかもしれないけど、そういう視線を感じるのだ。振り返って目が合った時など、どうにもいたたまれない気持ちになる。
鬱屈とした気持ちを振り払うように、二度三度と軽く頭をふる。そして気を取り直し開けた襖の向こうには、普段この時間にはいないはずの彼がいた。
「おはよう、月乃」
彼、龍臣さんは読んでいた新聞から顔を上げると、視線を私の顔に固定した。表情こそ穏やかな微笑みだが、そのまっすぐな視線は突き刺さるようだ。
「おはようございます、龍臣さん。今朝はどうされたんですか?」
「少しだけど夏休みが取れたんだ。だから、たまには月乃と一緒に朝食を食べたいな、と思って。迷惑……だったかな?」
「いえ、そんなことは……」
彼の視線から逃れるように、慌てて座卓につく。私が「いただきます」と箸をとると、龍臣さんも「いただきます」と続き、なんともいえない雰囲気の中、食事を始めた。
――ああ、まただ。
向かいの席から視線を感じる。
熱く、昏く、絡みつくような視線。
私は気のせいだと自分に言い聞かせ、なるべく彼と話さなくて済むようにせっせと食事を続けた。しかし、そんな私の思いを知らない彼は次々と話題をふってくる。
「月乃。高校を卒業した後の進路はもう考えている?」
「いえ。まだ一年ですし、具体的にはまだ決めていません。でも、公務員試験を受けてみようかと思っています」
「公務員試験って……。大学には行かないの?」
龍臣さん、今まで私の進路なんて聞いてきたことなかったのに、今日はやけに突っ込んでくる。
「まだはっきりとは決めていないですけど。でも、なるべく早いうちに就職して、家を出て自立したいって思っています」
「就職して家を出るって……、日月酒造はどうするつもりなの?」
「私のような小娘に会社経営は無理です。出来れば今のまま、龍臣さんにお任せしたいです。必要なら会社の譲渡や――」
「全てを捨ててでも僕から離れたいってわけか」
全部を言い終わらないうちに、龍臣さんの冷たい声が遮った。どうやら私は、また彼の機嫌を損ねてしまったらしい。
「いえ、そういうわけでは……」
彼の迫力に気圧され、つい心にもない返答をしてしまった。本心ではここから、いや、彼から早く離れたいと思っているのに。しかし元来小心者で優柔不断の私では、不機嫌な彼を前にその場しのぎの言い訳めいた言葉を返すことしかできなかった。
本当は就職といわず、今すぐにでもここを出て行きたかった。でも彼のこの機嫌の悪くなりようを目の当たりにすると、怖くてつい言葉を飲み込んでしまう。
重い沈黙と突き刺さる視線に耐えながら、私はひたすら箸を動かした。早くこの場から逃れたい、その一心で。
どうにか食べ終わり「ごちそうさまでした」と食器を持って席を立とうとした瞬間、龍臣さんが「待って」と声をかけてきた。
「今日は僕が学校まで送っていくよ」
この村には中学校までしかないので、村の子供はほとんどが麓の町の高校に通っている。村から町までは結構距離があり、村のみんなはバスで通っていた。そんな中、毎日車で送迎してもらっているのは私くらいだ。本当は私もバス通学するつもりだったのに、龍臣さんはそれを頑として聞き入れてくれなかった。扶養されている身としては保護者の意向には従わざるを得ないので、甘んじて受け入れることにした。
「あの、松田さんは?」
「松田さん今日から一週間、親戚の不幸でお休みするって連絡があった」
松田さんは私の送迎の際の運転手をしてくれている。寡黙なので誤解されやすいが、その実とても優しいおじさんだ。私たちはほとんど会話をしない。でもその静かで優しい時間は、私の憂鬱な毎日の中で数少ない心安らぐ時間だった。
その松田さんの親戚に不幸があったと聞いた瞬間、私は目の前が真っ暗になった。また私のせいで誰かを傷つけてしまったのか、と。
「そう……ですか。その、松田さんの親戚の方って……」
「おじいさんだと言っていたよ。百三歳で大往生だそうだ」
大往生――、それを聞いて、自分のせいじゃないことに心底安堵した。
「わかりました。すぐに用意するので、少しだけ待っていてください」
私は持っていた食器を手早く片付け、通学鞄を持つと、龍臣さんの待つ車へと乗り込んだ。
私と龍臣さん二人きりの車内は、微妙な緊張感漂う静寂に包まれていた。時折こちらに向けられる龍臣さんの視線に気づかないふりをして、私はひたすら窓の外を眺める。
「月乃、さっきの話の続きなんだけど」
とうとう龍臣さんが沈黙を破ってきた。無視するわけにもいかないので、運転席の彼に顔を向ける。
「君は本家唯一の跡取りだ。会社のこともあるし、就職じゃなくて結婚という選択肢もあるんじゃないかな」
「それは……その、相手が必要なことですから。私一人の意思ではどうにもなりませんし」
「君と結婚したい、という男がいるとしたら?」
スピードを落とし路肩に車を停車させると、龍臣さんは私をじっと見つめてきた。
――怖い。
私はまるで蛇に睨まれた蛙のように動けなくなった。そんな私を見て龍臣さんは昏い笑みを浮かべると、私の方へと手を伸ばしてきた。
あと少しで龍臣さんの手が触れる――というところで、コンコンという窓ガラスをノックする音が響いた。その音のおかげで私は我に返り、慌ててシートベルトを外すと勢いよくドアを開けて飛び出した。
「送っていただいて、ありがとうございました」
「いや、どういたしまして。今は夏休み前の短縮授業だよね。お昼頃迎えに来る。着いたら携帯に連絡いれるから」
「……わかりました。では、行ってきます」
私は朝食の時と同じく、またもや逃げるように歩き出した。
「待って待ってストップ! 置いてかないで日月さん」
後ろから慌てたように駆け寄ってきたのは、同じクラスの小倉くんだった。「朝から日月さんに会えるなんてラッキー」などと適当なことを言いつつ、当たり前のように隣に並ぶ。直後、龍臣さんの車が私たちを追い越していった。
「いつもの運転手さんじゃないんだね。あのイケメン、新しい人?」
去ってゆく龍臣さんの車を眺めながら、小倉君が話しかけてきた。彼は人懐っこいのか空気が読めないのか、クラスで浮いている私にもよく話しかけてくる。
孤立している私を放っておけないいい人なのか、はたまた何も考えていないのか……。いまいちよくわからない人なので、嫌いではないけど少しだけ苦手だ。
「運転手さんじゃない。保護者」
「保護者? そっかー、あれが噂の日月兄かー。ふーん、なるほどねー」
何に納得しているのか知らないけど、彼はしきりにうなずいている。一体さっきから何なのか。いい加減、私の会話したくないという空気を読み取ってほしい。
「で、日月兄ってさぁ」
「兄じゃない。はとこ」
しまった。つい反射的に答えてしまった。
隣を見ると、なぜか小倉君が驚愕の表情で固まっていた。一体、今の言葉のどこにそんなに驚くところがあったんだろう?
「はとこ、ってことは……結婚できるじゃん! 同じ家に住んでんだよね? まさか、これがあの光源氏計画ってやつか。恐るべし、イケメン」
「小倉くん、何言ってるのかよくわからないんだけど。あと、いい加減私に付きまとうのはやめて。何度も言ってるでしょ、迷惑だって」
私は眉間に皺を寄せて嫌悪の表情を作ると、冷たい声で彼との会話を切り上げた。すると小倉君はじっと私を見た後、なぜか笑いだした。
「女は生まれつき女優っていうけどさぁ、日月さんは向いてないよね。嘘下手だし」
小倉君は私の右隣を歩きながら、とてもいい笑顔で私の演技にダメ出しをしてくれる。
私だって自分の嘘が下手だってことくらいわかってる。だけど、その下手な嘘でもつき続けなくちゃいけないんだから、しょうがないじゃない。
――呪われた娘
何かに呪われたのか、生まれつきの不運なのか。とにかく私に深く関われば、小倉君もきっとひどい目に遭う。
私のせいで誰かが傷つくのはもうたくさん。だからつきたくもない嘘をついて人を遠ざけて、寂しかったけどあれ以来ずっと一人でいた。そんな人の気も知らないで、知ったようなことを言わないでほしい。
「いい加減にして! 私はあなたが嫌いなの。だから、もう私にかまわないで」
ちょっとイライラしたのもあって、いつもよりきつい言い方になってしまった。じわじわと込み上げる罪悪感を抑え込み、とどめとばかりに彼を睨みつけた。
これでいい。これだけ言えば、さすがに小倉君だって私を見限ってくれるはず。
そう思って彼の顔をうかがうと、呆気にとられたようにぽかんと私を見ていた。
「今のは、ちょっと本音入ってたね。『嫌い』ってとこ、やけに力入ってたのがちょっと傷ついた」
小倉君は苦笑いしながら頭をかき、「でも、嬉しかった」などと言ってきた。今の台詞のどこに嬉しくなるような要素があったんだろう?
「やっと、少しだけだけど本音出たね」
そう言って笑う小倉くんは本当に嬉しそうで、そんな彼を見ていると泣きたくなってきた。だって、私は彼を傷つける言葉しか返せない。彼の厚意に報いることができない。
「バカじゃないの。もう、ほっといてよ」
私は捨て台詞をはくと、小倉くんをおいて早足で歩き出した。しかし小倉くんはあっという間に追いつき、再び並んで歩くことになった。
「でもさ、やっぱり日月さんは嘘つくの下手だよ」
「そもそも、何で私が嘘ついてるって断言できるの? 小倉くんが私の何を知ってるっていうの」
いつもなら無視してやり過ごすのに、さっきのイライラややるせなさもあって、つい突っかかってしまった。
「ねえ、知ってる? 日月さんは嘘つく時、一瞬目を伏せるんだよ」
「嘘、そんなこと……」
「あと、誰かにキツいこと言ったあと、しばらく落ち込んでるよね」
「そ、んなこと……ない。何とも思ってない」
「ほらね。今、一瞬目を伏せた」
小倉くんは笑いながら、私が知らない私の癖を指摘してくる。得意気に笑う彼を恨みがましい目で見上げると「ごめん、ごめん」とあまり誠意の感じられない謝罪をくれた。
自分にそんな癖があったなんて、今の今まで知らなかった。教えてくれるような親しい人なんていなかったし、そもそも他人と会話さえもあまりしなかったし。
「俺、中学の時転校してきたじゃん。で、ずっと気になってたんだ。みんなが日月さんを怖がる理由」
小倉くんは笑顔を引っ込め、真面目な顔で私を見る。
「最初はね、ただの好奇心だった」
――平行線が、崩れる。
「でもね、いつの間にか……。うん、いつの間にか、俺の世界に日月さんがいるのが当たり前になってた。知らないうちに、いつも目で追ってたんだ」
――平行線が、交わってしまう。
「きっと、俺は日月さんのこと…………」
小倉君がまっすぐ私を見る。どこか緊張したような面持ちで口を開きかけたその時、正面玄関から彼を呼ぶ声が聞こえた。
張り詰めていた空気は一気に緩み、小倉君は大きなため息をつくと友達に手を振り返した。
「残念、学校着いちゃった。この話の続きはまた、ね」
小倉くんは悪戯っぽい笑みを残し、下駄箱にいた友達の方に走って行ってしまった。
正直助かった。小倉君が何を言おうとしていたのか、私の自惚れでなければあれは……いわゆる告白、というものではないだろうか? 名も知らぬ小倉君の友達、ありがとう。あなたのおかげでとりあえず助かりました。
私は安堵のため息をつくと、自分の下駄箱へと向かった。
いつもと変わらない朝だったはずなのに。今日も憂鬱で退屈ないつもの一日が始まるはずだったのに。
仮初の平穏は崩れ去り、何かが始まる予感がした。