第一話 始まりの終わり
『――次のニュースです。先日、東京都で身元不明の遺体が発見されました。、被害者の胸には、深い十字切り傷があり、その傷による出血多量が死因であるとのことです。更に、付近の防犯カメラには犯人らしき人影は無く、捜査は難航しているしていると――』
薄暗い部屋に、ぼんやりと明るく光るテレビから、淡々とした声が響く。そういえば最近はこの手のニュースが多いな、と人事のように聞き流しながら、この部屋の主である、黒のセーラー服、長い黒髪に綺麗な顔立ちをした少女は黙々とバッグに物を詰め込む。
「財布…タオル…水筒…念のため救急セット…えーと、着替え…はかさばるから最低限に…!」
あらかた準備ができたのか、最後にフルーツキャンディを一袋詰めて、急ぎ足で居間に向かう。
「…護身用、護身用っと」
居間に飾ってある、黒い鞘に収まった日本刀を手に持ち、さりげなく専用の袋にしまってから再度自室に戻る。つけっぱなしのテレビからは、もう先ほどの物騒なニュースはながれていない。どうしてこうなったのかは不明だが、若い女性がハンドバックで不審者に反撃しているという、ドラマのワンシーンを映していた。なんとも女の子らしくかわいい反撃だ。彼氏と思われる男が登場し、そいつがヒーローのように女性を助け出したところで、少女は複雑な表情でテレビの電源を切った。
スマートフォンで今日の天気を確認、夕方から晴れるので、星がよく見えるらしい。
それだけ確認すると、少女は廊下へ出て、庭の大きな池に目を移す。鯉がたくさんいて、小さな橋まである綺麗に整備された池だ。
そしてあろうことか―――ソコにスマートフォンを投げ込んだ。
天気を教えてくれたスマートフォンは池の中央の石にぶち当たり、哀れにも液晶を飛散させながら沈んで行った。
…完全に壊れただろうが、それでいい。
きびすを返し、玄関で靴を履く。いつもなら、ここでは行ってきますと言うべきだろう。
でも、
「…さよなら」
二度と、戻るつもりはないのだ。
※
ガタン、ゴトン、と機械的な音を立てながら、私を乗せた電車は黙々と目的地へと進んでいく。
ちょうど部活終了時刻と被っているのか、学生がちらほらといる。込み合っている訳ではないけど、私は席には座らずにドア付近に突っ立っている。
さて、今までの私の行動を見て多くの方がドン引きされたであろうが、それらの奇行には正当な―――いや、個人的な理由がある。
…遅ればせながら自己紹介を。
私、神薙優璃は、いわゆる世間一般に、極道と呼ばれる家に生まれ、16年間、お世辞にも普通とは言えない家庭で育った。
神薙家に相応しい教養を身に付けるべく、といった方針で多くの習い事をしていて、虚しいかな友人と遊んだりする時間は殆ど無かった。家が家なので友人と呼べるものは居ないに等しかったけれど。
しかし私は末っ子であったので価値が低いのだろう、ほどよく放置されていて、このまま目立たないようにしていれば、少なくとも高校を卒業するまでは問題なく過ごして、いずれ一人立ち出来るだろう―――
なんて考えていた矢先、私の人生において最大の事件が起こった。…誤算とも言うが。
親に突然、見合いをしろ、といわれたのである。
まさかの政略結婚、便利な道具扱い。今まで与えられた課題は努力で全てこなし、良い子を演じ続けてきた私の忍耐力は我ながら相当なものだと自負している。
しかし、こればっかりはどうしても嫌だった。私は道具じゃない、いいように使われてたまるか。
家を出よう、そう決心した私は着々と準備を進めた。家で空気扱いされていたおかげで色々と逞しくなったので、住み込みで働けるバイト先など、生活に必要な事を全て揃えるのにさほど時間はかからなかった。
「家出ね……今更ですけど、ユーリも随分と思いきった事をしましたね―…刀まで持ってきちゃったとは、流石ですね」
同じく、私の隣に突っ立っている小柄の少女が、染々とした風に呟いた。
そう、私は今、家出の真っ最中なのだ。
彼女の名前は、白雪詩絵理。こちらはまだ15才だ。しえり、と読むが、昔からの遊びの延長で、お互いにニックネームで呼びあっている。優璃はユーリ、詩絵理はシエルと言った具合に、だ。なんだか特別っぽい感じがして、気に入っている。
私のクラスメイトで、唯一の友達にして、良き理解者で、近寄りがたいと言われる私と仲良くしてくれる。
この子もこの子で、少々家庭が複雑で、随分と苦労した生活を送っている。学校では悩みのあるそぶりなどは見せないが、私には、たまーに悩みを話してくれる――いわゆる、親友だ。盟友とよべる。
名字の通りの白い肌に、ミルクティー色の長い髪をしていて、とても可愛らしい顔をしているが、家庭の影響か、やや人間不振なところがあり、良く言えば大人びた、悪く言えば、少し冷たい印象を与える目をしている。性格は…うん、可愛らしい外見に反して、少し残酷というかその…私が言えた事ではないが、腹黒いと思う。
「だって、道具扱いはゴメンだからね、足掻けるだけあがいてあげるよ」
「ははは、勇ましいですね。その刀があれば、剣道有段者のユーリなら何でもバッサバッサ殺れるんじゃないですか?」
「物騒な事を言わないでよ、シエル。そっちの方がなにしでかすかわからないんだから」
剣道は家柄上、最早義務であったし、ストレス解消になるのでそれなりにうちこんでいた。家でのフラストレーションを全てぶつけたその結果が、段取得である。シエルは、特に武道を習っていた訳ではないが、元々のポテンシャルが高く、身のこなしが軽やかで、身体能力は全て私の方が上回っているが、身軽さでは敵わなかった。直線の、単純なおいかけっこなら私が勝つけれど。
そんな私の親友は、ドアに寄りかかり、私を見上げ、抑揚の無い声で愚痴をたれる。
「スマートフォンを池に投げ込むなんて…あーあ、勿体ない」
「八つ当たりとかでは無いからね?GPSがついてるからだからね?」
わざわざ隠れ家に発信器を持ち込むなんて真似はしない、データも丸ごと排除すべく、水死していただいた。
こいつ解ってて言っているなこれは。
「詰めが甘い。防水機能が無駄に頑張っちゃったらどうするんですか、そういうときは念には念を入れて電子レンジにかけるべきだと」
「へえ、面白い。液晶砕いたから大丈夫だと思うけど…今度から、そうするね」
ツッコミ不在。でも通常運転です。
普通とは言えない会話を普通にしながら、その存在を確認するように、カチャリと音を立てて黒い布袋に入った刀を背負い直す。ちゃんと袋に入れてあるので、回りから見たら、ただの剣道部の女子高生と…まあ、たぶんマネージャーに見えるだろう。ばっちり真剣で、しかももう一人は帰宅部だけど。
…つまるところ、これは私のお守り代わりだ。これさえ有れば、私は強くあれる。そう信じたくて。
まあ、日本刀をお守りとして持ってくるあたり、女子として感性がずれている自覚はあるけどね。
そんなことを考えていると、ふと、電光掲示板が目に入った。さっきやっていた、変死体のニュースのようだ。また同じような遺体が複数見つかったとか…そんな内容だ。他の乗客も、そのニュースを見てざわつき始めた。
こんなに頻繁に…流石に多すぎるんじゃないかな?しかも、凶器も不明、犯人も不明。気のつけようが無いと思うけど、夜に出歩くのは止めておこう。私はよほどのことが無い限りは平気だとお思うけど、シエルは不審者を撃退するような能力は持ち合わせていない。犯人が捕まるまではSPのようにくっついていようか。うっとうしいとか言われそうだやめておこう。
「なあ、そのニュース、ちょっと変な噂話があるって知ってるか?」
「あー、このツイッターのだろ?」
暇そうにスマートフォンをいじっていた数人の男の子達が、面白い話題を見つけたとばかりに楽しそうに喋りだす。制服からみて、ここ周辺の高校生だと思う。
噂でもいいから、そういった情報は欲しい。ガセかもしれないが、知っておくに越した事はないからね。
私のスマートフォンは先ほど水死した、いや、させたから、新しいニュースが見れないんだよね…
あつかましいと思うけど、男の子達の会話に耳を澄ます。
すると、「ああ、これのことですね」と言って、シエルが黒いガラケーを取り出して、例のページを見せてくれた。
何から何までありがとう…
でもガラケーって……そう言えばこの子は機械が苦手で、スマートフォンは難しそうだから使わないとか言っていたっけ。女子高生がケータイ苦手でどうするんだ…おおと、ジト目はやめて。
「――で、何でも、死体が見つかった所の近くには、人魂みたいな青白い光が会ったらしいんだよ!オカルトの奴らは、惨殺された人間の魂がー、とか、冥界より悪魔がー、とかいろんなネタが――」
引いている友人を置いてきぼりに、一人がやや暴走気味に語りだす。そうか君がそのオカルトの奴等か、よし深くは関わらないようにすべきだね。
それにしても人魂かー…タバコの火だとかケータイの画面が光ってるのがそれらの正体だって聞いたことはあるけど、青白いってことは犯人のケータイかな?ファンタジー的な思考も嫌いではないけど、冥界とかは流石に…
「あはは。死体が見つかった周辺では、かなりの確率でその青白い光が目撃されていて、実際にそれに追いかけられた人もいるみたいです」
「へえ―…じゃあ、ソイツに捕まったら…どうなるの?」
「んー…何か、十字の傷って言うのは、体の内側から引き裂かれてできてるとかなんとか…あと、本人の持ち物は残っているのに、死体が無いとか足りないこともあるようです。でもまあ、傷が心臓まで届いているらしくて、とにかく現場の血液の量が凄いことになるみたいですね」
だから発見は比較的早いようですよ、と興味なさげに付け足した。
「足りないって…なにそれ、気に入ったのだけ持ち帰ってるとか?」
「それはとんだ変態ですね」
淡々とし過ぎている気がするが、まあ、気持ちは解る。たちの悪いガセネタかも知れないし、こんなものは幾らでも飛び交っている。
でも……もし、実際にその光が存在して、人間を内側から惨殺するなんて芸当ができるとしたら。
『それ』は何のためにやっているのだろう?
そんなビックリ芸当をするのがただの人間であろうが、目的がわかれば対処の仕様がある。
私は、剣道の他にも、護身術と言ったものにも心得がある、だから、相手さえ、解っていれば。
――視界に、白い影。気付いた時には、べちっと額を叩かれていた。
「ひゃっ!?」
けっこう強めの攻撃である。痛い、地味に痛いよこれは。シエルの顔を見ると、抗議を受け付けないとばかりに笑っている。
「…もお、また怖い顔をして。退治しようとして自分から斬りかかっちゃダメですよ?」
「しないよそんなこと!?ただ、ほら、何かシエルって色々と危なっかしいからさ、襲われてたら助けれる様にって考えてただけだよ」
「うわぁ。でもまあ、ユーリならサクッと殺っちゃいそうだから心配無さそうですね。それに比べて私は非力なので、もし襲われたら即効アウトな気がしますけど」
「そう?なら護衛でもしようか?」
「わーそれは頼もしいですね。遠慮しておきます」
刀を掲げて割と本気で言ったんだけど、あっさりスルーされた。嫌味を嫌味で返し、気の抜けたような軽口を叩きあいながら、ガタゴトと二人で仲良く電車に揺られる。
でもいい加減、人を戦闘職扱いするのは止めていただきたい。ちょっと剣道が得意なだけじゃないか。
シエルが、制服のポケットに手をつっこみ、小さな袋を取り出して、ずい、と此方によこす。
「そんなに怖がってるなら、持ってきて正解でした。はい、これどうぞ。ありがちだけど、魔除けとか言う御守りです」
「だから怖がってなんかないよ」
「ポケットに入れときますね」
「あの、スルーやめて?」
シエルの言いたいことは、要するに、堂々としていろ、とのことだろう。変に考えていたから、余計な気遣いをさせてしまったみたい。心配なのはどちらだという話だ。
シエルは今、付き添いで来てくれているだけで、家出という一大プロジェクトをしているのは私のほう。さりげなく、ぐいぐいとポケットにお守りとやらを押し込んでいるが、彼女なりのエールである。
取り出して見ると、青く透明な天然石の、きらきらと光るブレスレットであった。間に水晶も入っていて、涼しげな色合いだ。
「綺麗…もらっちゃっていいの?」
「どうぞー、石をちゃんと選んで作ったので、物は良いはずです。ほら、お揃いなんですよ」
黄緑のブレスレットを見せて、華奢ながら、それなりにあるを胸はり、得意げな表情。
なんと、まさか手作りとはうれしい。そういえば、こういった工作が昔から得意だったっけ。
「ありがと!大事にするよ。うん、ずっと付けてる」
手首にはめると、なんだか元気が出てくる気がした。手作りぱわーで、御守り効果倍増してる気がする。
「寝るときは外してくださいね、あ、そろそろ終点みたいですよ」
「本当だ。……あ…」
次の駅を確認しようと電光掲示板をみると、そこには、またもや例の事件がゆっくりとスクロールされていた。
「それにしても、これ、本当に何なんでしょうね…」
「そうだねー…こうも頻繁にあると、気味が悪いよね」
ぎゅ、と御守りを握り締めた。
※
とっぷりと日がくれた頃、私は今、地図とにらめっこをしながら新しい住処へと向かっている。バイト先の店長さんに挨拶をし、一通り職場の説明を受けていたので、すっかり遅くなってしまった。シエルは、初めは駅まで見送りをするだけだと言っていたのに、ちゃっかりと職場までついてきてしまった。
さらに、店長さんに、一人暮らし頑張って!とエールを送られ、美味しそうな煮物まで貰ってしまったため、ここぞとばかりに「先に借家に行って、お鍋を冷蔵庫に入れて来ましょうか」と、さりげなく部屋の鍵を獲得して、大事そうにピンクの鍋を抱えて行ってしまったのは二時間ほど前のことである。
恐るべき計画的犯行。
今度、家に帰ったら何故かそこにいるといったサプライズを警戒したほうがよさそうだ。
勝手に台所を借りて、料理をしている姿が容易に想像できる。
そんな妄想をしつつもてくてくと歩き続けるが、それにしても地図が読みにくい。手書きの上に、暗くてよく見えない。これは、もしかしなくても、
「あううう…迷った、かな。あはは…」
これは不味い、先程、夜は出歩かないだなんて宣言したそばからこれは不味い。
今私が歩いているのは商店街だ。昼は人で溢れ、賑やかな通りだと思われるが、もう11時という時刻のためか、人っ子一人いない。
こんな遅くなるだなんて言っていなかったから、今頃部屋で待ちぼうけしているであろうシエル、本当にごめん。
終電大丈夫かな…いや、泊まっていく気満々の様子だったからそれは心配ないか。
道を聞ける人が居ないのは困るが、11時を過ぎたと言うことは、最悪、警察に補導されてしまうかもしれない。
そこで、家がどこか聞かれるだけならまだましだが、私は今家出の真っ最中であるため、もし家族が捜索願いを出していたら、顔を見られただけでゲームオーバー。
ちょっと前に、うっかり信号無視をしてしまった時に補導されかけたときは、裏路地を逃げ回ってパトカーを振り切ってみせた事はあるけれど、地理が解らない以上、それは得策ではないだろう。
…普通は逃げないだろ的な意見は聞こえません。
「あ、コンビニ…良かったあ、助かった…!」
そう、商店街の外れに、ぼんやりと光る四角い建物。家では漫画や雑誌を買うことが許されなかったため、学校帰りによく立ち読みしていた、愛すべきコンビニがそこにあった。いつもお世話になってます。
店内には入らず、眠りこけているホームレスとおぼしき中年男性からある程度距離をとって、入り口付近で周囲を確認。パトカーがいないか、要チェック。
サイレンの音もしていないか、耳を澄ます。聴こえてくるのは、その人の所有物らしきラジオから流れる雑音交じりのニュースのみ。よし大丈夫。
すると、店内に入ろうとしたところで、ラジオから流れる緊迫した声が私の足を止めた。
『…緊急ニュースです。先程、また、連続怪奇事件の被害者が見つかったとの事です。いずれも、損傷…がはゲ、しく……に、ひ……い状況、デあ、――』
電波がおかしいのか、不自然な砂嵐の音で先は聞き取れない。それが余計にニュースの不気味さを増しているように聞こえる。今日はこんなのばっかだな。
さらに、悪のりするかのように回りの電灯まで激しく点滅し出す。明らかに、故障や停電ではない風に。
「え、なに、…?おかしい、普通じゃ――」
言いかけた所で、混乱しかけていた思考が止まる。私の目は、暗闇のなか、あるものを捉えていた。
白と黒の車体、その上に光る、赤いライト。
―――パトカーだ。
しかも、運転席の警官は、手に持った紙のような物と、私を見比べるようなそぶりをみせた。
紙のようなもの、写真。
「―――チッ、最悪…!」
自慢の反射神経で、弾けるように地面を蹴って全力疾走。目的地なんて無い、ただひたすらに路地をジグザグに逃げ回る。大通りに出たら終わりだ。
やばい、やばい、やばい、どうしよう――
いやだ、家に戻るのは絶対にいやだ。私は、世間知らずのワガママなお嬢様じゃない、空気のような扱いを受けながらも、将来のため――今、このために必死に努力して、社会勉強だとかいう、考える限り最も正統な理由を叩きつけ、何とか両親の許可をもぎ取ってバイトをしてお金も貯めてきた。
それに、この家出計画は私のたった一人の親友が手伝ってくれて初めて実行に移すことができたのだ。
それが、全て、無駄になる?
頑張って、と、別れ際のシエルの言葉を思い出す。
冗談じゃない。捕まってたまるか、諦めてたまるか。
息も切れ切れのこの状態では、その思いだけが地に膝をつかないようにする、唯一の心の支えに思えた。
しかし、不覚にも人が二人は通れないような細いまっすぐな路地に入ると、目の前に警察官が立ちふさがった。
「いたぞ!君、ご両親が心配している、こっちにきな――」
「どいてください!」
心配?
確かに、今まで大人しかった便利な道具がいなくなっててんてこ舞いだろうけどね。
近づいてくる警察官に、私はハンドバックを振り回して応戦する。家を出る前に見たドラマの、威力なんてたかが知れている、女の子らしいバック振り回し攻撃だ。
でも、そのヒロインとは違って、カッコいいヒーローが颯爽と現れて助けてくれたりなんてするはずも無い。
「…はっ!」
一振り、二振り、そして三振り目で、遠心力を最大限に生かし、相手の顔面めがけて投げつける。
そして、バックで視界を遮ったその一瞬の隙で―――その、まあ…男性の体において、最も代表すべき急所に、ヤクザキックを叩き込んだ。
「…ご愁傷様」
不能になってたらゴメンナサイ、本気で蹴りました。反省もしていないし後悔もしてません。
バッグを拾い直し、悶絶する哀れな警察官を蹴り飛ばす勢いで飛び越えて路地を抜ける。
後ろからも警察の声がする、ここで手間取っていたら挟み撃ちにされてしまうところだった。
お願いだから、もういい加減諦めて!
「ああああああああ、もうっ!」
悲鳴にも似た悪態をつき、ひたすら、走る、走る、走る。
「――はあッ、はあッはあッ……も、もう、だいじょう、ぶ、かな」
……どれくらい走っただろうか。パトカーを振り切った後も、ずっと走り続けたので、もう体力の限界。
とっとと休みたい所だけど、一度座り込んだら立てなくなると思うほど体はへとへとだった。
時計を見れば、もうすぐ12時。
シエル怒ってるかな…もう寝ちゃってるか…いや、あの夜更かし魔は少なくとも後一時間か二時間はおきてるか。
160センチまで背が伸びて欲しいと前に言っていたが、生活習慣を直さない限り、それは無理だろう。
―――バチ、ブ、ブブ、バチ、ばちばち
なんだろうこの音?先ほどのコンビニでの不気味な点滅音を更に大きくしたような、不快な音が、人気の無い夜道に響いていた。
音の発生源は、少し大きめの、年季が入った――というより、壁が煤けた、ボロいアパート。
案の定、そのアパートの蛍光灯は激しく点滅しており、暗い階段を明るく照らすという、唯一の使命さえ果たしていない。特に、あの四階あたりなんか、ほとんど真っ暗――
「…あ、もしかしてここ?」
くしゃくしゃになった手書きの地図を見ると、記載されている特徴と一致する。
やっと、たどり着いた…!警察に手を上げるという、見事な公務執行妨害をしてきたかいがあったよ。
努力が報われた私は嬉しくなって、早足で自室へと向かう。
本当に遅くなってしまった。明日はどこかで美味しいケーキでも買って、シエルと一緒に食べよう。
謝罪とお礼をいっぺんに言わなければいけないかな?ちょっと奮発して、とびきりのを。
…でも蛍光灯の調子が悪すぎるなあ。ああ、私の部屋は四階か、…うわ、一番点滅が激しいところだよ。危ないなあ、滑らないように――
「――っきゃあ!?」
なんて考えた矢先、ガコっ!と、金属の塊の様なものに躓いてしまい、更に床が何かで濡れていたため、二歩目で踏ん張りきることができず、べしゃっと前のめりに倒れこんだ。手、足、制服に、べたりと何かが付着する。
「いったぁ……だれ、こんなとこに物おいた人…」
私を転ばせた元凶は、蹴った衝撃で階段の下まで転げ落ち、ぐわんぐわんと音を立てて回っている。
中身を盛大に撒き散らしたそれは、記憶に新しいピンクの鍋。
あれ、何でこんな所に。
鍋を掲げ、先に部屋に行っている、と、悪戯っぽい顔を見送ったのは、もう数時間も前の事である。
とっくに冷蔵庫の中にしまわれているはずの物が何故、こんな所にあるのか。
思考が追いつかない内に、今の今まで沈黙を貫いていた蛍光灯が、最後の力を振り絞るように頼りなく階段を照らした。
階段の下、ぼんやりと照らされたピンクの鍋と、こぼれた肉じゃがが飛び散っている。今まで気付かなかったが、コンビニの袋から、プリンが二つ、覗いていた。これもまた、あの子が差し入れで買ってきてくれたものだろうか。
階段の上、そこには、家族なのだろうか。小さな子供と、若い女性と、同じくらいの年の男性が血の海の中に転がっていた。体中に裂けたような生々しい傷があり、血液で階段を丸洗いしたような、そんな惨状。
例の事件の事が、脳裏によぎる。
「…………ッ!」
この三人には申し訳ないが、この場の死体が友人では無いことに少なからず安堵してしまった自分がいた。
まだ犯人が近くにいるかも知れない。刀を袋から出し、ぱしゃぱしゃと粘性のある水音をたてて階段を駆け上がる。銃刀法違反だとかはこの際気にしている余裕は無い。
確認してみると、案の定三人は事切れていて、ピクリとも動かない。
そして、近くによって初めて、血溜まりから点々と足跡が続いていることに気付いた。
犯人…じゃない、女子高生がよく履くような、サイズの小さいローファーのものだ。長く続いたそれは、ちょうど、私の部屋の前で途切れている。
ドアは、ここですよ、と言わんばかりに数センチ開いていた。
「シ…エル…」
嘘だ、やめてよ、冗談に決まってる。犯人から逃げて部屋に避難しているという希望は、開けっ放しのドアが、それはありえないと証明していた。
「シエルッ!!」
ふらつきながらも部屋へ駆け寄り、間髪要れずにドアを開け放つ。
「……嘘」
そこに、友人の姿はなかった。
あるのは、玄関一面の、赤黒い水溜り。血だ。…誰のものかは、言わずもがなである。
「警察……呼ばなきゃ」
三人はとっくに亡くなっていたため、救急車を呼ぶ必要はなさそうだ。
でも、シエルは今の時点では行方不明。捜索すれば見つかる可能性がある。家出真っ最中で、警察から逃げ回っていた事など、もうどうでもよかった。
「…ごめんね、ちょっとだけ、借りるね」
玄関マットの上に落ちていたシエルのケータイを拾い、画面を見る。音声発信画面になっており、神薙優璃と表示されていた。
私の名前だ。
「……あ…」
電車の中での、おちゃらけた会話を思い出す。助けてあげる、その言葉を信じてくれたのに、結果がこれだ。
…泣くな、泣いたらだめだ。目元を拭い、ケータイに110と入力する。
数回、発信音を鳴らした後、若い女性が電話に出た。
『はい、こちら110番です。どうなさいましたか?』
「…………」
『もしもし?どうなさいました?』
私は電話に答えない。だって、部屋の奥、そこに、『何か』がいた。青白く光るそれは、そこにあって無い様で、距離感が上手くつかめない。
動いた。こっちに、近づいてくる。私の方へ、速度を上げて。
私は、反射的に前に踏み出し、鞘から刀を引き抜く勢いのまま、それを両断した。しかし、確かに斬ったのに、斬ったという感覚が無い。
その光は、刀をすり抜けて、速度を保ったまま私に衝突し―――ずぶり、と体内に入り込んだ。
「…あぐっ」
衝撃で後ろに吹っ飛び、通路の壁に叩き付けられ、肺の中の空気を全て吐き出した。
「く、かはッ…」
痛い、痛い、苦しい、息ができない、まるで炎に包まれたかのように体が熱い。じわじわと何かに浸食されるようなおぞましい感覚に、身をよじって必死に耐えていると、私の体に変化が現れる。
密かに自慢だった長い黒髪が、徐々に、根元から色が変わっていく。黒から、この激痛の元凶である光と同じ、水色とも銀色ともつかない不思議な色へ。
骨から肉から血液から、全てが侵される。
「…けほっ、ゴホッ、けほけほッ!」
髪の先端まで色が変わると、だんだんと痛みが和らいで行く。
息も絶え絶えになり、恐る恐る目を開ける。
助かった…?……いや……これは…
いつの間にか現れていた、真っ黒の水溜りのようなものから無数の黒い手が、逃がさないとばかりに私の手足や髪を掴み、強引に引っ張る。
「誰、か…」
暗い玄関で光るケータイに手を伸ばすが、かすれた声は届かない。
憔悴しきった私は、たいした抵抗が出来ないまま、黒い水溜りに沈みこんでいった。
『もしもし、もしもし?どうなさいましたか?……はあ……まったく、悪戯かしら…』
血をたっぷりすいこんだ玄関マットの上で、しびれを切らしたのか、とうとう通話が切られた。