九九
淡々と算数を教える話です。
「それで、どれくらいのところから教えて欲しいんだ?」
俺は向かい側に座る水沢に訊ねた。
ノートをテーブルの上に広げた彼女は、俺の方を向き苦笑いした。
「うん、私、ホント、数学全然ダメだから、うんと低いレベルからお願い」
水沢は眉根を寄せながら半笑いでそう言った。
「ん、それじゃあ、九九は言えるか? 言ってみろ」
そう言うと水沢は口を尖らせた。
「んー! 低いレベルから、って今言ったけどいくらなんでも私を馬鹿しすぎでしょ。九九ぐらい言えるよ」
「じゃあ、言ってみろ。二の段から九の段まで。問題が簡単だからって答えなきゃ、点数は0点だぞ」
「むぅ、わかった。にいちがに、ににがし……」
水沢は尖らせた口を元に戻し、九九の暗証を始める。
クラスメートの水沢明菜に、数学を教えて欲しい、と乞われたのはつい最近のことだ。返ってきた俺の数学の答案用紙に書かれた点数を覗きこんだ彼女が、凄い凄いと連呼し、問題の解答を訊いてきたのがきっかけで何度か数学を教えることになった。ところがうちのクラスには男子と女子とが1対1で話していると、異様に冷やかしてくる猿みたいな顔の女子がいる。それが嫌だったので教えるのをやめようかと思っていたら、水沢の方から、それじゃ、安達君(俺のこと)の家で教えてよ、と頼んできたのだ。異性を自分の家に上げるのには少々ためらいもあったが、数学のことを質問されて、それに答えるやりとりは俺も好きだったので結局承諾することにした。水沢は、これまで対処療法的に問題の解き方を教えてもらっていたが、できれば根本的なところから教えてほしいと言ってきた。そんな積極的な態度も嬉しかった。
「……、しちしにじゅうはち、しちごさんじゅうご、しちろく……しちろく……えっと、しちろくしじゅうはち」
「間違い。7×6=42だ」
「あぅー、そうだった!」
水沢は声を大きくするとぶんぶんと頭を振った。
「簡単とか言っといて言えてないじゃないか」
「うん、私バカ。えーっと、しちろくしじゅうに、しちろくしじゅうに、っと」
「ちょっと待て」
「うん?」
「今、暗記しようとしたか?」
「え? うん、そうだけど?」
「まあ、丸暗記でもいいっちゃいいんだけど、そこでちょっと考えてみよう」
「考える?」
「うん、しちご……7×5は?」
「35」
自信ありげな顔で答える水沢。
「うん。それじゃ35+7は?」
「えっと……42」
水沢はノートに35と7を書いて一瞬考えてから答えた。
「なんで、今そんな質問したかわかるか?」
「え、え?」
「九九って何だっただろう。例えば7×1は7、7×2は14、7×3は21、とかける数字が1増えていくごとに答えは7ずつ増えていく」
「うん、そうそう。そだね」
「だから……7×5=35の次、7×6=35+7=42というわけだ」
「なるほど……」
感心する彼女につい笑いそうになったが、怒らせたくないので堪えておく。
「しちろくしじゅうに、で覚えてもいいけど、人間の記憶力には限界があるからさ。既に知っていることをうまく組み合わせて節約したほうがいい。それが考える、ってことなんだ」
「考えること、か……」
「うん、数学ってさ、まあ今のは算数だけど、たくさん知識があることよりも、持っている知識をいかに活用するかが大事なんだ」
「そうなんだ……」
とはいえ、ちょっと前まで俺もたくさん覚えることに固執してた時期もある。だけど、水沢から尊敬されている状態がちょっと気持ちいいので、それは口にしないでおいた。