女妖術師は生かしておいてはならない(Exodus 22:17) 2
がちゃ、がちゃ。ドアが開かないと見ると、敵はドアを蹴破った。
ボン! ドアに挟んであった新聞紙が火を噴いて宙を舞い、スターンの体にまとわりつく。
「こんな子供騙し」
右腕のひと振りで、細切れになった護符が体から剥がれ落ちる。男の銀目がぐるりと部屋を見回す。倉庫がわりらしく、事務机や椅子が積まれている。ブラインドの外に東京の夜景が広がる。が、それは男になんの感動ももたらさないようだった。
「隠れても無駄だ、赤羽一比古」
言うや、男は両腕を振るった。ドカカカカ、とキリが机や椅子に突き刺さり、粉々に砕け散った。
「ハッ! どこにいたとて我ら《魔女の鉄槌》は必ず見つけだし、罪を暴き、地獄へ落としてくれるぞ!」
全てを破壊し尽くし、スターンは舌打ちした。プラスチックの残骸の中に、人間の肉片は見当たらなかった。
べおん。
奇妙な響き。スターンは振り返る。
「うぉらぁぁぁぁあ!」
ドアの陰から折れた椅子の足を拾って少年が飛び出してきた。振りかぶる。
ぎいん!
耳障りな金属音がして、一比古の一撃は、交差させたキリに阻まれた。ふっと力が抜ける感覚があり、次の瞬間、一比古は壁に叩きつけられた。胃液が逆流する。
スターンが、十字を切った。
「和琴の音。東洋の五の音階は世界の調和を乱す。即ちマレフィキウム。確認した。貴様は悪魔と契約した魔女だ」
「違う! 俺は魔女じゃない!」
「魔女は常に嘘をつく。特に貴様のような《五の災人》の使い魔は。さあ渡せ、例の書を」
言っている意味が分からない。
「答える気はなしか。ならば相棒ホプキンズ流に体に聞くまで」
左腕に鋭い痛みが走った。足を払われて一比古は床に倒れ、背中を踏みつけられる。肺が潰れそうだ。
靴底でごり、ごりと背骨をすり上げながらスターンは凄んだ。
「白状せよ、懺悔せよ、改悛せよ、現代の魔女」
「お、お前たちこそ白状することがあるだろ! 茗をどこにやった!」
「強がりか。聞きわけのない子だ」
パチンと指の音。一比古の両手足に、指まで覆う手枷のような器具が現れ、うつぶせのまま固定させられた。
「締め上げろ《鉄の雄牛》」
キリキリキリキリ……。
錆びた鉄がこすれる嫌な音。ボルトがひとりでに動き、上下から指を挟む鉄板が一比古の指を圧迫する。ぎり。ぎり。指が裂け、爪の先から血が滴った。
「ぐあっ……」
スターンは屈み、一比古の肩にキリをあてがうと、柄の小さな突起を押した。
バシュン!
バネ仕掛けのキリが勢いよく一比古の背を貫いた。
「ああああああああ!」
頭の芯が焼ける。
「魔女は体のどこかに悪魔との契約の印を隠している。その場所は痛みを感じない。嘘偽りで痛がったとて、俺には分かるぞ」
スターンは低い声で囁いた。細く漏れる息。唇の端が醜く歪んだ。
「悪魔が近くにきている、書の在りかを教えろ。無用の痛みは避けたいだろ?」
バシュン。
今度は左腕に激痛が走った。同時に鉄の器具が指を締めつける。
「うああああっ、知らない、そんなもん知らない!」
「知らないか。実に残念。では告解しろ。『私は悪魔と契約し、下僕になりました』と。そうすれば手枷は外してやる」
スターンの両手にキリがひらめく。そのまま両腕を交差させ、両の太ももへ。
バシュン、バシュン。
目の前が白く明滅し、一比古の中でなにかが折れた。
白い視界に闇が虫食いのように広がる。闇が自分を覆い尽くす時。
死ぬ。
おれはしぬ。おれはしぬ。しぬ……。
口の端から涎がだらだらと垂れた。
「わたしは、あくまと」
しぬ、しぬ、しぬ。
スターンがクク、と笑っていたが、一比古にはもう聞こえなかった。
磔になり、炎に包まれる自分が見える。周りには若い女性、老婆、みんな磔になって油にまみれた身をよじらせ、絶叫していた。茗の姿もあった。
ああ、俺が悪いんだ。俺は罪人だ。俺は、
魔女だ。
「けいやくを――」
その時、轟音が耳を裂いた。
ドドドドドドド!
ガラス窓が粉々に砕け散る。大きな羽音。
朦朧と一比古は顔を上げた。
地上五十四階の空中に、人の形をした漆黒の影が二丁の機関砲を構えていた。山伏のような白い装束をまとい、顔には太い嘴がある。三メートルはありそうな黒翼が羽ばたき、逆巻く風を切る。
鴉の化け物――。
鴉は視線をスターンに定めると、右手のМ61バルカンをガシャンと肩に背負いなおし、M134を構えた。両方合わせると砲身だけで百キロをゆうに超える戦闘機用機関砲だ。人間が持てる代物ではない。
無言でトリガーが引かれる。部屋じゅうに7・62ミリ弾が乱れ飛んだ。部屋が丸ごと破壊されそうなほどの銃弾の嵐。スターンの血飛沫が一比古の頬に降りそそいだ。
狂ったように上級審問官は笑った。
「ハハハハ! 貴様がキ一〇一号、F‐0ナイトホッパー! 空母の敵! ベトコンの敵!」
「お初にお目にかかる。魔女狩り将軍の血筋よ」声は、白峯のものだった。「俺は猛烈に怒っている。死んで詫びろ」
ガガガガガガッ! M134が火を噴く。スターンの体が壊れた人形のようにでたらめに動き、直撃を受けた右腕が木っ端微塵に砕けた。そのまま一比古の上に倒れこむ。生暖かい血がじっとりと一比古の身に染みた。
し、死んだ……?
いや死んでいない。こいつ、ただの人間じゃない。
全身を痙攣させながらも、好敵手を見つけた悦びからか、スターンは笑い続けた。左手はねじ切れ、足もちぐはぐな方を向きながら、獣のようにゆっくりと身を起こす。喉からヒューヒューと空気が漏れた。
「遊び足りないが、今夜は退こう。覚えておけ赤羽よ、貴様は認めかけた。自身の罪を。次こそはコキュートスに放りこんでやる」
「待てッ!」
スターンは十字を切り、口の中でなにかを唱える。男の体を膨大な光が包み、輪郭が消えていく。
再び部屋に薄闇が戻った時、上級審問官の姿は消えていた。
「一比古!」
羽をたたんで、鴉が飛びこんでくる。抱き起こされた時、その姿は白峯に戻っていた。
「畜生……我慢しろよ、死なせてたまるか」
白峯の必死の形相をぼんやりと眺めながら、一比古は、自分は助けられる価値なんてないのに、と思った。
自分逃げた。怖かったから。
「白峯さん、奥の部屋にアイリスと社長が……」
「応援が来る。心配ない」
「できなかった……なにも」
「頼む、喋るな! 俺の前でもう死なないでくれ!」
白峯の悲痛な声が聞こえる。
そんな、資格は、俺にはないのに。
◇◇◇
二度目の夢を見た。
赤い和室に、再び一比古は立っていた。前よりも赤さが薄い。
そっと格子に手をかけると、意外なほど軽く格子戸は開いた。軒下に板張りの廊下が続く。修学旅行で行った平安神宮、あるいは歴史の資料集で見た、平安時代の宮廷だ、と一比古は思った。
すぐ隣に同じ造りの棟があり、廊下で繋がっている。
一比古はなにげなく足を向けた。御簾の向こうから、子供の泣き声がする。
えーん、えーん。
えーん、えーん。
一比古は御簾をはねのけた。体が引っぱられる強い感覚があり、気がつくと、枯れ草の中に横になっていた。
茜色の空を、大きな雲が小さな雲をしたがえ、ゆったりと流れている。
思い出した。これは俺の記憶だ。
小学生の一時期。目の色が違うため「ガイジン」と言われて、放課後の遊びの輪に入れてもらえなかった。
いつも一人で帰った。母さんは布団で苦しそうにしているから、できるだけ遅く帰りたかった。そんな時、一比古は下校路を外れた空き地で時間を潰した。
ここにいると、余計なことを考えなくていい。
一人。やっかいなのがいたけれども。
「逢魔ヶ刻に独りでいる童は、喰ってしまうぞえ」
白い髪の女の顔が、にゅうと一比古の視界を塞いだ。
空き地には幽霊がいた。巫女みたいな緋色の袴に薄紫の打掛を羽織って、白く長い髪には一筋だけ黒いものが混じっていた。
一比古は投げやりに答えた。
「食べれば。石垣はイジメ相手がいなくなって困るかも。いい気味だ」
「そんな事を言うてはならぬ。母背が泣くぞえ」
結局食べる気ないじゃん、と一比古が言うと、女の幽霊は口を押さえ笑った。優雅な笑みだった。初めて遭った時こそ驚いたが、一比古はこの幽霊が怖いと思ったことは、不思議となかった。
「妾は妖怪変化とは違うでの。幽鬼とも違う。人は喰わぬ。からかってみただけじゃ」
「お化けでも幽霊でもないってこと? じゃあなんなの」
女はつ、と暮れゆく空を眺めた。鳥の群れが東の方へ飛んでいく。白んだ半月の方角に消えてしまうまで、女は鳥の群れを追っていた。
「お兄ちゃーん」
遠くから幼い声が近づいてくる。茗だ。草むらをかき分け、鼻を垂らした丸い顔が覗いた。まだ三歳だ。
一比古はびっくりして起き上がった。
「一人で出歩いちゃ危ないだろ」
「だって、だって……お父さんが」
もじもじと下を向く。女の声がいくぶん緊張を帯びた。
「童。今日は、はよう戻り」
「なんで」
「戻れば判る」
女は蝋燭を吹き消すようにいなくなった。
「ちぇ、言いたいことだけ言って」
「お兄ちゃん誰とお話してたの?」
茗がきょとんと首を傾げる。茗には女の姿が見えないらしい。
なんでもないと言って、茗の手を握り、重い足を引きずりのろのろと家に帰った。珍しく父が帰っていて、母の枕元に座っていた。
一比古は玄関先で立ちすくんだ。まさか。
父がうつろな目でこちらを見た。
「お母さんが……死んだよ」
うわぁぁん、と茗が泣きだす。
布団の膨らみから母の顔は見えなかった。見たくなかった。
父は、悲しいかい? と聞いた。一比古は答えられなかった。父はなぜか、ごめんな、と言った。
続く言葉を聞いた一比古は、制止を振りきり駆けだしていた。
「一比古。お前の母さんは、この人じゃない。ずうっと遠くにいるんだ」
すっかり暗くなった道を一比古は走った。鈴虫の鳴く草むらに、女がぼう、と後ろが透けた姿でいた。鼻水を拭うのも忘れ、必死に声をはり上げた。
「ぼくのお母さんは、あなたですか!」
女は弱々しく笑った。
「そうだったら良かったのに。お主の母背は、妾と同じく罪人なのじゃよ」
「知ってるなら教えてよ、ほんとうの事を!」
「ならぬ」
「どうして!」
「今はまだ半月。刻は満ちておらぬ」
女は懐から木製の糸巻きを取りだした。細い木の棒に、車輪のような芯がついている。これが回転して糸を巻きとる仕組みだが、今は糸はなく、むき出しの木目が見えるだけだった。
女は薄紫の打掛の裾をさばいてしゃがみ、糸巻きを土に埋めた。
「刻満つれば、いづれお主の援けになろう」
そして女はすらりと扇を広げた。
「暫しの別れじゃ、妾のことを忘れないでおくれ。お主は惑う宿命にあるが、くじけてはならぬ。例え泥の道であろうと歩みを止めてはならぬ。前へ。前へ。さすれば必ず両の手は誠を掴もうぞ」
扇が空に舞い、女は消えた。
「待って――」
半月の夜空に、低い声が風のように詠っている。
「見る人に 物のあはれをしらすれば 月やこの世の鏡なるらむ」
◇◇◇
目を覚ますと、新聞社の応接ソファの上だった。向かいのソファにアイリスが眠っていた。頭と腕に包帯を巻かれているが、命に別状はないようだ。
思い出した。
むかしむかしの話を。死んだ母さんは、俺の本当の母さんじゃない。茗とは母が違うと。そう告げられた日を。ずっと忘れてきた遠い記憶を。
幽霊でもなく、妖怪でもない女。あれは一体誰なのだろう?
罪人だという俺の本当の母さん。一体誰なのだろう?
答えは、霧の中だ。
と、ドアが開いてたまが現れた。
「きゃあ、起きたんなら言ってよ! 社長! 赤羽君が~!」
ドタドタと複数の足音がし、
「赤羽っち、無事~?」
拝島がひょいと顔を出した。顔に無数の絆創膏が貼られている。
「拝島さんこそ大丈夫っすか」
「かすり傷さ。手が動けば記者はつとまる!」ふと真顔に戻り、「ほんと、ごめん。俺の判断ミスだ。エレベータ降りた時点で引き返すべきだった」
拝島は頭を下げた。
「い、いや、大丈夫っす。それより、あの鴉のお化けって」
「白峯の旦那。お化けって言ってくれるなよ。鴉天狗だってば」
「こら拝島ぁ! 椅子から尻を離すな!」
白峯の声が編集部から飛んできた。拝島はくすくすと笑う。
「柄にもなく照れてんだ、旦那」
「聞こえてんだよ馬鹿! 工場の爺から電話だ。入稿は一分たりとも延ばさねえとよ!」
「マジすか! オニだあ……」
拝島は姿を消した。壁掛け時計を見ると夜の十一時過ぎで、あれから数時間しか経ってないらしい。
入れ替わりにヴァイヤーがやってきた。彼女自身も両腕に重症を負っていた。
「拝島も軽率だったとはいえ、君を守れなかったのは私の責任だ。すまない」
いつもとは違う調子に、こちらが恐縮してしまう。
「あの……いいんす。それより社長こそ」
「こんなもの日常茶飯事さ」
たまが大きな壷を抱えて戻ってきた。
「はい、オペのお時間でーす。赤羽君、ブスブス刺されたんでしょ? いたそー。普通なら病院行くところだけど、お金もったいないし。速攻治しましょう! ほら、社長はやること盛りだくさんだから出て下さーい」
たまに押しだされながら、ヴァイヤーは振り返った。
「金輪際、真夜中新聞社の揉めごとに巻きこまないと誓う。たま。作戦会議は校了後だ。一比古、本当にすまなかった」
ヴァイヤーは苦そうに微笑み、ドアを閉めて出て行った。
たまは壷の蓋を開け、中の緑褐色のゲルを手に取った。強烈な匂いが鼻をついた。まず背中のキリの傷に塗りつける。激痛に思わず悲鳴をあげた。
「いいいいいいってええええ!」
「我慢してー! 霊験あらたかな河童の膏薬だからバッチリ!」
「なにがバッチリか分からないけど! ねえ、たまさん」涙目になりながら一比古は言った。「俺が狙われる理由、真夜中新聞社は目星ついてるんでしょ?」
「まいったなぁ……社長から口止めされんだけど」とたまは前置きした。「ちょっと前からね、こういうチェーンメールが出回ってるの」
たまは自分の携帯に、あるメールを表示させた。
「隠しててごめんね。社長の気持ちも分かってあげて。赤羽君がショック受けるかもしれないって。御舟課長が発信元を特定しようとしたけど、ガードが固くて分からなかった。まず、《魔女の鉄槌》に間違いないけど」
《件名:Fw:Fw:FW:Fw:Fw:Fw:転送してください
都立N中学校の赤羽一比古は魔女です。
私は呪いをかけられ、T病院に入院しています。
思い出すだけで体が震えます。こわいです。
これ以上被害者が出ないでほしいです。
もう一度言います。赤羽一比古は邪悪な魔女です。
このメールを今日じゅうに五人に回してください。
でないと、あなたの身にも、赤羽一比古の呪いがふりかかります。》
こんな偽りのメールのせいで。
熱くなりかけた頭が、違う、と言った。
名前も分からない一比古の母親。一比古が魔女とされる理由がきっとそこにある。それを敵は知っている。そして、他ならぬ一比古自身は忘れていた。
忘れてはならぬ、と言われたのに。
『例え泥の道であろうと、歩みを止めてはならぬ。前へ、前へ』
ずっと後ろへ逃げていたんだ。
ばかやろう、と自分を叱りつけた。なにが自分に価値が欲しいだ。
目をそらしていたのは、自分自身だ。
目をそらして、逃げて逃げて。永久に逃げつづけることなんかできやしない。
立ち向かうしかないんだ。奥底に眠る勇気をふりしぼって。
大事な人を守るために。
真実を捉えるために。
「たまさん」一比古は顔を上げた。ぴり、と頬が引きつった。「会議に参加させて。俺も戦う」
両の手に真実を。願いは、ただそれだけ。
満ちゆく月が俺を見ている。
3へつづく