エピローグ
眠る茗の頭から、一比古は一本の黒い糸を引き抜いた。朝日にさらされた糸は細かい霧になって消えていった。操られていた時の記憶は、彼女から消えるはずだ。
これがいい事かどうか、分からない。
でも一比古はそうしたいと思った。ヴァイヤーも賛成した。
「普通の人間として生きていく。それがいいのさ」
「俺たちは忘れないからな」
ウィチハンの実行班から、クラスメートの三浦が歩み出て言った。他のメンバーも頷く。
「まだこういう事は起こるかもしれない。そん時今回みたいに踊らされないようにしなきゃな」
「しんどかったけど楽しかったし」
「始発もう動いてるんじゃない? 駅行こうよ!」
石段に座りこんだたまが、長い長いため息をついた。
「人間って図太いよねえ。知ってたけど」
ウィチハン実行班を駅まで見送った直後、白峯の携帯が鳴った。会社に残された拝島が泣き声をあげていた。
「助けてー! 木場工場のじじいが、降版は一分たりとも動かさないって怒鳴ってる! 一面はどうなってんすか!」
「ここからだったら、木場で直接書いた方が早いな。仕方ない。移動するか」
「てか旦那、写真は!?」
「あ、忘れた」
「旦那ぁ―――――――!」
「今いるメンツでいいだろ。はいチーズ」
白峯の手で、デジカメのフラッシュが光った。
「なんすかその社長なみの適当っ! 一面トップ!」
「あーうるさい! 今日はお前が編集長だろ。二面書いてさっさとファックスしろっ!」
「鬼だあああああああ」
拝島の絶叫に、全員が耳をふさいだ。
夏休み二日目のこと。
ぷるるる、ぷるるるる……ガチャ。
「もしもし、わたしメリーさん。今、あなたの後ろにいるの……」
「おう、メリーさん! 慰安旅行で九十九里浜にいんだけど、取材で白峯編集長と御舟課長が一旦戻るって。入れ替わりにメリーさんも来たら?」
「ほんと!? 行く~! みんなにも声かけとくねっ」
通話を切って一比古は呟いた。
「みんなって誰だよ……」
一比古はひとり、海の中へ入っていく。ヴァイヤーの声が背に届く。
「あまり沖へ行って、流されても知らんぞ!」
まだ冷たさの残る海に潜り、深みへ泳いでいく。
濃い青が一比古を包む。潮に乗りながら、意識を集中する。周りにこぽ、こぽ、と泡がまとわりつき、球形の空気の層ができた。
これが、俺に宿る母さんの片鱗。林間学校で無意識のうちにみんなを守った力。
自分が海の魔女の息子であることを、アイリスにはなんとか伝えた。
呪いの元凶が日本に流れ着き、自分が産まれた事情を、途切れ途切れに、ぽつぽつと。それから一度も会話をしていない。こちらから目をそらしてしまう。
当然、他の皆には話せていない。それが心苦しい。騙しているみたいで。
耳元で東の御方がじっとりと囁いた。
「小娘はケチじゃ。『ぐあむ』とか『さいぱん』に連れてゆけ」
「白峯さんが泣いちゃうからダメなんだって」
「戦地か……。まあそれはよい。皆へはよう白状せい。海の魔女は《魔女の鉄槌》によってどこかに幽閉されている。奴の罪は奴のもの。お主にはなんの罪もないのだから」
「……分かってる。たまには一人にしてくれよっ!」
「生意気に反抗期かえ。妾も少し羽根を伸ばしてくるかの」
くすりと笑い、東の御方は沖合いへ消えていった。
今日、父親が帰ってくると連絡があった。まず父と茗で話をして、それからちゃんと真夜中新聞社の皆に話そうと思う。
大丈夫だ。きっと。
海の魔女は、404と戦った時人魚の声を奪ったその力で、一比古への罵声を奪った。たったひとり、声をかけてくれた。
『お前はお前の成せることをおやり』と。
必ず、助けに行こう。海の魔女は一度だけ神に祈った。
誰でも、祈り、願う。大事な人が苦しめられないようにと。
一比古は祈る。心から願った。
この世の誰もが、海から陸を目指した人魚が、子供を助けようと懇願した魔女が、銀髪の審問官が、千年を生きる鬼の女が、そして自分自身が。
正しい道をまっすぐに歩いてゆけるように。
空気の層に誰かが入ってきた。振り返るとヴァイヤーに見繕ってもらったピンクの水着を着たアイリスがいた。やわらかな体の線。白い肌、金色の髪。
そして無数の傷の残る足。
母さんの、罪。
白い手が一比古の手をそっと握る。瑠璃色の糸が触れる。
「お願いがあるの」
「……なに?」
心臓が縮こまる。詫びろ? 償え? 覚悟はできているつもりだ。
アイリスはもじもじと下を向いた。
「社長が取ってくれた大好きなミュージカルのチケット、二枚あるんだって。一緒に行って……くれますか?」
「でも俺は……」
アイリスは繋いだ手を上に掲げた。導かれるままに、見上げる。
「アンデルセンさんの書いた人魚姫は、誰も憎まなかった。あなたも私もそうありたい。ダメかな」
海面の中心に浮かんでいるもの。人魚姫が憧れ、いつも見上げていたもの。
まんまるの光。
その光を、一比古は掴みたいと思う。手を伸ばす。二人の体が浮きあがる。
波間を割って、海原と空の間で大きく息を吸いこみ、一比古は答えた。
「もちろん!」
夏の太陽は力強く、そして平等に、生きるものたちを照らしていた。
《了》
『真夜中新聞社、躍る』完結となります。
ここまで読んで下さったあなたに、心からの感謝を。
感想などありましたら、ぜひお寄せ頂けるととても嬉しく思います。




