日と月と星にしるしが現れるだろう(Luke 21:25) 2
水面に映る赤い月が、一比古を見ている。
「彼女を助けようだなんて偽りの希望を口にしたがために、彼女は余計に苦しみの海を漂う」
振り返ると、首に縄をかけられたミノタウロスがいた。
「お前も俺とともに死ね」
……違う。
「ミノタウロスはそんな事は言わない。お前は布津木カヨ子。ブリューネスハイムだ。人を惑わす魔女だ!」
途端、一比古の喉をなにかがせり上がってきた。吐き出すと、黒い血だった。
ミノタウロスの顔に驚愕が浮かんだ。
「馬鹿な。破られるなんて……」
「まやかしよ退け!」
糸を伸ばし、水面の月を破る。
パアン! 破裂音がして、今度こそ一比古は目が覚めた。
細かい泡が乱れ飛ぶ水中。一比古に馬乗りになって首を絞めていた茗の体が、ぐらりと傾いだ。
「ちっ!」
茗の体は水上に跳びあがった。一比古とアイリスも水上に顔を出す。
「ぷはっ! はあ、はあ……」
空に茗が浮かんでいる。びっしょり濡れた髪は顔に貼りつき、両手で自分を抱きしめるようにして、がたがたと震えている。
「お兄……私、どうなってるの……」すぐに歪んだ笑みが浮かぶ。「この娘もしぶといな! 追ってみやがれ!」
ブリューネスハイムは空を蹴って高く舞い、陸の方へ向かった。
二人は運河から上がった。アイリスは一比古から背を向けて座りこんだまま動かない。空き地でアイリスが言っていたことを思い出す。
『本当の私の姿を知ったら、あなたはきっと去っていく。私は醜い』
アイリスは、童話の『人魚姫』と違い、王子を殺した。
自分を捨てた王子を恨んで。王子だけでなく姫までも。
どんなに辛かっただろう。
どんなに後悔しただろう。
彼女はずっと戦い続けてきた。
ミノタウロスを助けられず、軍に連れ去られ、瓦礫の山で人が死に尽くすまで。魔女を処刑するのではなく「救う」という信念のヴァイヤーに出会うまで。
戦って、戦って。
「俺はどこにも逃げない。一緒に行こう、アイリス」
背を向けたまま、彼女は首を振った。一比古はさっきアイリスがそうしたように、彼女の肩に手を置いた。
がくん、と視界がぶれた。頭が割れるように痛い。再びあの声が聞こえた。
『お前は罪人の子。生きていてはいけない』
「ぐっ……お前は……誰だ」
体に巣食う404の黒い霧が視界をふさぐ。全身が震え、拒絶している。
異変に気づいたアイリスが必死の形相で一比古の背中をさすってくれるが、震えは収まらない。
「茗の足に糸を巻きつけた。俺はもう持たないかもしれない。俺も頑張るから。最後にするんだ。ここで終わりにしないと、また泣く人が増える。お願いだ」
アイリスの顔が歪む。でも、と口が動く。
「悔しいじゃんか……」痛む全身をおして立ち上がる。「一人で戦うのは、やめようよ。ここには俺もいるし、社長も白峯さんも、みんないる。一人では無理でも、きっとできる」
倒れそうになるのを、アイリスが支えようとして、もろともに転んだ。その時、懐中電灯の明かりが二人を照らし、声が上がった。
「いたぞ!」
《魔女の鉄槌》か? 反撃する力は残っていない。
だが、違った。何人かの男女が走ってきたのだ。大学生らしき男性が一比古とアイリスを抱えて立たせた。隣の制服姿の女子高生が声をかける。
「赤羽君だよね? 安心して。私たちユースケの呼びかけで集まったの。君たちの援軍。ウィチハンの住人なの」
「……え?」
後ろには二十人くらいの人が集まっている。その中に昼間、一比古の胸倉を掴んだクラスメートの姿を見つけた。彼は近寄ってきて、頭を下げた。
「まだ名前も覚えてないよな。俺、三浦ってんだ。今日はごめん。謝って済むことじゃねえけど。手伝うから」
「いや……あ、頭あげてくれよ。俺も噛みついて悪かったんだ」
「敵はあのタワーマンションの上に逃げた。行け、赤羽」
三浦は顎をしゃくって、ひときわ高い建物を示した。
視界の黒い霧がすこしずつ晴れていく。
まだ生きている。生きてさえいれば、なんだってできる。
しぶといのが俺のとりえじゃないか。
「ここで退くなよアイリス。ミノタウロスに胸張って地獄で会おうぜ。遺言ちゃんと守ったよ、って自慢するんだ。そしたら満点だ」
今度こそ。行こう。一比古が差し出した手を、アイリスは握り返す。
「赤糸よ、導け」
糸の車の部分がくるくると回り、赤い糸を巻き取る。二人の体がふわりと宙に浮いた。地上で驚いた顔をしている三浦たちに声を飛ばす。
「ついて来て! でも絶対に無茶はしないでくれ!」
「一比古君が……変容しつつあります」
目を瞑ったまま、御舟が言った。顔は青ざめ、微かに唇が震えている。寒い、と御舟は言った。キーボードを叩く悠介の手が止まった。
「どういう意味ですか」
「あまりに多くの過去を視すぎた。私も千里眼を行った翌日は、すこぶる体調が悪化します。彼は限界を超えた。持たない。自我が崩壊するかもしれない」
悠介は唇を噛んだ。そんなことさせない。
ウィチハン@解明板は作戦決行段階に入っている。実行班、解明班、捜索班を組織し、実行班を台場に向かわせた。そろそろ到着する頃だ。
『淑景北記』の中に記された術のひとつ、「雲林大鏡」。
原典『大鏡』は、作者不詳の紀伝体の書。京都・雲林院において大宅世継と夏山繁樹という語り手が、文徳天皇から後一条天皇の間の一七六年の歴史を語るというのが筋である。「大鏡」には真実を映しだす鏡、という意味がある。
それを素にした術「雲林大鏡」は、解明班が調べたところ、五つの「言の葉」と「大鏡」によって、魔を封じる術だと判った。完成には人手が必要らしい。昔、加持祈祷で多くの僧がひとつの経を読んだように使うのだろう。
問題は大鏡だ。大鏡とは単なる鏡ではなく、魔を引きつけ、寄代になる人物を指す、というのが解明班の見解だった。
その人物とは、一比古に違いない。
「赤羽……お前、耐えられるのか?」
山へ、山へ逃げるんだ。
布津木カヨ子は思った。帰るべき紀の国へ。
その姿は、殲滅戦に参戦した二十代の頃に戻っていた。黒い喪衣。長く乱れた黒髪。切れ長の一重まぶた。薄い眉が歪んで皺をつくった。
湾岸沿いに林立するタワーマンションのひとつ。屋上に立ったカヨ子は知らずのうちに拳を握りしめていた。こんなに山海を壊して。こんなに塔を立てて。
まやかしだ、こんなもの。
しかし。この高さまでは敵も追ってこられまい。
カヨ子の横に、空を飛んできた茗が無表情で降りたった。水に濡れ、顔は青白く、目はうつろだ。長く意識を乗っ取ってきた。放っておけば死ぬかもしれない。カヨ子は前を向いたまま言った。
「早く開錠の文言を教えな、赤羽茗。じゃないと死んでしまうよ」
ばさあ。
カヨ子はなにかの羽音を聞いた気がした。上空を見る暇はなかった。
ドガガガガガガッガガガガッ!
無数の銃弾がカヨ子の体を砕き、カヨ子はその場に膝をついた。
「うおおおおおおお!」カヨ子の黒い目は、黒い鴉天狗を捉えた。「大天狗なら知らず、鴉天狗風情が、布津木カヨ子に仇為そうとは! 百年早い!」
「もう千年歳を経たら聞こう」
と鴉天狗は答えた。ガシャン、とM134機関砲が構えられた。
「俺の別名を教えてやろう。中島飛行機製造・夜間試作戦闘機。キ一〇一号。夜に活動するものを射殺す戦闘機さ」
嘘だ、とカヨ子は思った。あの戦さの遺物がここにも。
このままでは赤羽茗まで巻き添えになる。カヨ子は宙に身を投げた。
ドドッドドドドドドッドド!
落下する体を銃弾が貫く。血飛沫が散る。
「布津木。潔く頭を垂れろ」
「嫌だ! 出征前の貴様らに祈りを捧げてやったのは誰だと思ってる!」
雷雲から雨粒が落ちてくる。カヨ子は空中で一回転して体勢を整えた。符を飛ばし結界を張る。砲弾が金属音をあげて弾かれる。
「人間は変わらない! 戦さに駆りだしておいて謝罪のひとつもなく、用が済んだら捨てる。あたしの祈りは殺しのためだった」
ざあっと雨が降ってきた。
「貴様だって戦場で殺してきたのだろ! 何百何千!」
白峯の顔が歪む。
「何万と」
「ならあたしの気持ちが分かるはずだ! 誰が悪いかッ 本当にあたしが悪いのかッ」
「悪いさ!」
カヨ子の背後で声がした。雨に打たれて、中空に浮かぶふたつの影。雷光が二人の姿を浮かび上がらせた。金髪の少年と少女。
「ブリューネスハイム。お前は間違ってる」
「赤羽、一比古……」
一比古の背後に白い影が現れた。薄紫の打掛の女。
その姿を見た瞬間、カヨ子は雷撃を放った。
「東の御方! てめえが、てめえが! てめえが協力しなかったから、あたしがこうなった!」
東の御方は扇で雷撃を弾いたが、あまりの強さに顔が歪んだ。
「それに関しては……お主に済まないと思う。だが、戦さと、戦後お主が人の道を外れたこととは無関係じゃぞ!」
「黙れ、詭弁だ! はは、下に人間まで集めて、殺して下さいって言っているようなもんだ」
地上には米粒ほどの人の固まりが五つに分かれて、マンションの下に集まっている。たまが、実行班と連携しているはずだ。それはある図形を描いている。カヨ子はそれにまだ気づいていない。
カヨ子は妙な節回しで祓詞を唱える。彼女の周りにエネルギーの霧が集まり、形をとりはじめる。
「つゐゆるきし、ねらろちもとこ、やなむいよみふひ……」
「させるか!」
一比古は緋色の糸を出し、印を組む手を縛った。アイリスが糸を伝って跳躍し三叉の槍を振りかぶる。
「馬鹿め! 魔女に刃を向ければお前は死ぬ!」
違った。さっと横切る黒い影。白峯がアイリスの体を抱え、ぐん、と高度を上げた。頭上高く、黒い雷雲を目指して上昇していく。雷雲を割ろうというのだ。追おうと飛ぶカヨ子を、一比古は体当たりで止めた。
一比古の体は中空で逆さ吊りの状態で止まった。胃液が逆流する。
「忘れるな! お前の妹の命は、あたしが握っていることを!」
「忘れるわけがないだろ。ついてこい、ブリューネスハイム」
左手の象牙の糸巻きを回し、一比古はマンションの屋上に跳んだ。
雨粒が一比古の頬を打つ。
追いかけて来い。
一比古を追って屋上に降りたったカヨ子は、気づいた。茗の姿がない。
「……小娘をどこへやった」
「ヨッド・ヘー・ヴァヴ・ヘー」低い声がした。「赤羽茗への支配は解かせてもらったぞ。ブリューネスハイム」
給水塔の影から、小柄な女が茗を従えて現れた。茗は一比古の姿を見ると駆けだした。
「余計なことを!」
カヨ子は上空の雷雲に手を掲げた。瞬間辺りが闇に包まれ、白光の柱が女を貫いた。殺った、とカヨ子は思った。
しかし女――ヴァイヤー――は無傷だった。風になぶられた黒髪が舞う。
ぱり、ぱり、と彼女の周りを雷電が取り巻き、彼女が手をかざすと、光は凝縮されて、無数の小さな弾となった。弾は女の周りを円を描いて回る。
「『お前には何も為す術はない、生まれ生き死に、無限の悪夢に落下し、誕生の悪夢を迎え、生きることの悪夢を行き、悪夢を死に、死において無限の悪夢へと落下しゆく』愚か者よ、己が運命に戦慄せよ!」
雷電の弾がカヨ子めがけ、一直線に空を切る。
一比古は駆け寄ってきた茗の体を、しっかりと抱きとめた。
「遅くなって本当にごめん。無事でよかった。怖かったよな」
茗はしゃくりを上げながら言った。
「私、ずっと見えてた。お兄にひどい事たくさん言った。ごめんなさい」
「大丈夫だよ。あれは茗じゃない。いいか大事なことなんだ、親父からなにか呪文みたいなの、教えてもらってないか?」
茗は何度も頷いた。
「ずっと前、福島のおばあちゃんちで古い本を預かった。なにかあったらお兄に渡せって。どこにいても、お兄が望めばすぐ手元に来るって。唱えるの」
茗はある言葉を一比古に囁いた。
「ありがとう」一比古は茗をぎゅ、と抱きしめた。「もう少しだけ我慢して。そこの塔の影に隠れていて。すぐに終わる」
「うん……お兄」茗は一比古の頬に触れた。「お母さんが違っても、お兄は私の大事なお兄だよ。絶対に死んじゃいやだ」
一比古は返事ができなかった。
糸を操り、給水塔の上にふわりと飛び上がる。
背中に糸車を隠し、ひそかに糸を這わす。
三メートルほど下に、滝雨に打たれ、ヴァイヤーと対峙するカヨ子の姿があった。ヴァイヤーの雷撃の弾を受け、全身から黒い血が流れ出していた。
一比古は声を限りに叫んだ。
「ひとつだけ聞きたい! 魔女狩り事件の最初の被害者は、《魔女の鉄槌》じゃなくてあんたが襲ったんだな!」
カヨ子はへばりついた髪を払いのけ、口の端を歪めた。
「だからなんだと?」
「魔女は嬰児を生贄にするってネットに書いてあった。でもあんたは、お母さんのお腹を裂いて子供を取り出せず、結局逃げた」
「は、あたしが臆病だって言いたいのかい」
「違う! あんたには、ほんの少しでも良心ってもんが残ってるんじゃないか? やり直せないのか?」
カヨ子の動きが止まる。ヴァイヤーも言った。
「大いなる神の慈悲はキリスト教徒以外にも注がれている。哀れな羊たちはそれに気づかぬだけ。ブリューネスハイム、お前が魔女になるにあたって契約した悪魔の名を言え! 悪魔を退ければ、お前を助けることもできる!」
「嫌だね! あたしは、もう、人間には戻らない!」
カヨ子の絶叫は、頬を流れる雨で泣いているように見えた。
やらなければならないのか。
三百六十度の風景が一比古の目に映る。
一比古はかたく目を瞑り、再度見開いた。あいつは、既に一人、殺した。
背後に浮く東の御方に、一比古は言った。
「いくよ、御方。第一首だ」
「ああ、我ら生けるものは屍を踏みしだこうとも、歩みを止めてはならぬ」
「長き夜の はじめをはりもしらぬまに 幾世のことを夢にみつらん」
限界まで伸ばした糸巻きを掲げた。
がらがらがらがらがらがら……。
赤い糸の束がカヨ子の周りを囲んで浮き上がった。なにかの形をなしており、五つの頂点があった。ひとつの角が光っている。五つの言葉で編む檻。
東の御方が耳元で囁く。
「二首目。崇徳帝」
一比古は糸巻きをくん、と引いた。
「見る人に物のあはれをしらすれば 月やこの世の鏡なるらむ」
さらに一辺が明るくなる。
「三首。辛いの。崇徳帝の最期の叫び」
「夢の世に なれこし契り朽ちずして 醒めむ朝に逢ふこともがな」
もう一辺に光が灯る。
「四首は再度、花山帝」
「つらければ かくてやみなんと思へども 物わすれせぬ恋にもあるかな」
四辺に光が灯った。
どれほどの人生を夢に見たろう?
辛い記憶ばかりだった。
想いは、消えることはない。
たとえ愛する人を殺したとしても。いつまでもいつまでも。
「最後は私にも詠ませておくれ。佐渡までお供申し上げた君、順徳の帝」
東の御方の声は悲しく聞こえた。
「五月雨の はれまも青き大空に やすらひ出づる夏の夜の月」
五点が光り、結ぶ糸がぼう、と浮かび上がる。
退魔の五芒星。
上空を見上げる。小さい点となった白峯とアイリスが暗雲を断ち、わずかに月の光が差しこんでいた。それを頼りに、赤い糸の作る星の光が天へ伸び、雲を割る。
一比古の頬を打つ雨が止んだ。
雲間から明るい夜空が現れる。
満月が、一比古たちを見下ろしている。すべての真実を暴くように。
身動きの取れなくなったカヨ子が絶叫する。
「忘れるな! 貴様の中の黒い塊はいずれ貴様を喰う!」
「一比古、仕上げじゃ。『雲林大鏡』を為す。書を呼び出しておくれ」
一比古は手を差し出した。茗から教えられた言葉を叫ぶ。
「『我名は大宅世継なり』」
東の御方の手に藍色の巻物が現れた。
巻物を解き、東の御方は唱える。
「雲林院において世を告ぎ、世を継ぎ、世を紡ぐ。月なる大鏡の名において、真なるもののみ残り、偽敗れん。夢儚く塵のごとく。塵芥は塵芥に帰せ。怨讐は雲林の前に果てつ。その名布津木カヨ子、又はブリューネスハイム。大宅世継の前に伏せよ、首を地より深く垂れ、黄泉を覗かん!」
空から振る月光がカヨ子の体を石のように固める。
「有明じゃ一比古! 夜明けに星は消える!」
糸巻きを巻き戻す。五芒星の一辺が縮み、カヨ子を縛した。一比古の口から、
「ちくしょうッ」
と自分でも思いもよらない声が漏れた。力の限り腕を引く。
カヨ子の体は粉々に砕け散った。
白む月光に、砕けたカヨ子の破片が光を受けて輝いていた。首半分になった彼女は最期に、
「……お前の業を見せてやる。あたしへの同情なんて吹き飛ぶさ」
と言い、それきり動かなくなった。
「あ――」
一比古の視界が突然、暗くなった。脳がじゃりじゃりじゃりと喰われる音が耳に届く。一比古の体はバランスを失い、無限の虚空へ投げ出された。
追いつかれた、俺を喰らうものに。
誰かが叫んでいる。
「一比古!」
◇◇
一比古は、淑景北舎に横たわっていた。御簾から温かい光が漏れ入ってくる。梅の香りがし、鶯が鳴いていた。
隣では、東の御方が文机に向かい、手紙をしたためていた。一比古の存在には気づいていないようだ。
と、御簾の外を誰かの影がよぎった。
血の臭い。
東の御方は顔を上げ、鋭い眼差しで人影を呼び止めた。
「誰じゃ。隔世に渡ってくるとは只者ではないの」
「ここは隔世というのですか」男の声が言った。「助けてください。女の人が死にそうなんです」
「妾は幽閉されておる。お主らにその御簾を上げる力があれば、手当てをせんでもないが無理じゃろ。なにしろ陸軍が――」
「助けて下さるんですか! ありがたい!」
御簾が開いて若い男が土足のまま入ってきた。
一比古はその顔に、見覚えがあった。
昔の写真で見たことがある。
父だ。
「そ……その女は」
東の御方の注意は、男が担ぐ瀕死の女に向けられていた。
金髪の老婆は、胸に十字の杭を打ち込まれ、血を流していた。東の御方を見ると、老婆は微かに笑った。
「同じ《五の災人》といえど……逢うのは初めてか。東の御方」
アイリスから奪った声だけが若い。海の魔女だ。
「若人よ。悪いことは言わぬ。その婆を捨てて、現世に戻れ」
「嫌です」父ははっきりと言った。「この人は大勢に囲まれて、私刑にかけられるところだったんです。そんなの酷いじゃないですか」
「それだけの悪事をはたらいたのじゃよ、この婆は」
海の魔女はくっくっと笑った。
「ほうら見ろ。東洋の魔女は冷たいのさ。赤羽さん、お帰り。あたしはもう疲れた。ここらで死んでも構わぬ」
「死んでもいいなんて言うな!」
夜の暗い海辺。松林の中に一比古は立っていた。
黒服の集団が松明をかかげ、老婆を追いかけている。
老婆は産着に包まれた赤子を抱き、砂浜を素足で走る。足がもつれて転んだ。赤子がぎゃあああ、と泣いた。
「よし、よし。泣かないでおくれ……」
ざ、と黒い足が海の魔女を取り囲む。
「追いつめたぞ、海の魔女」
「頼む、この子に罪はない。あたしはいいから子は見逃しておくれ……」
審問官の一人が唾を吐いて言った。
「おぞましい。魔女の子は魔女。罪人の子。生かしておけぬ」
「お願いじゃ、どうか……」
海の魔女は額を砂にすりつけて懇願する。燃える松明が迫る。
「待て」
審問官の一人が言った。銀髪の背の高い男。
「魔女の子供が今まで成人した例はない。様子を見てみるのも悪くない。育って害になるようなら、殺せばいい」
「……一理ある。今後の研究にも役立つかもしれないな」
「寄越せ。父親の手に返してやる」
赤子は銀髪の男に奪い取られた。
「天にまします父なる神よ、どうかこの子にとこしえなるご加護を」
「笑止。魔女が神に祈るか。連れて行け」
海の魔女はどこかに連れ去られていった。最後まで赤子の方を見、涙を流していた。銀髪の男が赤子に語りかけるように言った。
「お前は罪人の子。本来生きていてはならぬ。さてどこまで生き延びられるか」
一比古の頬を涙が伝った。
あれは俺だ。
あれは母さんだ。
母さんは……海の魔女だった。
俺は罪人の子だった。
分かった。もう十分だ。
景色が急速に遠のき、一比古は真っ黒の空間に一人、取り残された。
目を閉じる。
このまま、終わりに――
「お願い、戻ってきて」
頬に、雫が落ちた。
温かい涙。
俺を生かそうとする手が、髪を撫でている。
一比古は左手を伸ばした。その手から白糸が伸びた。
生きたい。許されるならば。
でも、耐えられるだろうか。罪の重さに。
「糸を辿っていけ」
振り返ると、ミノタウロスが立っていた。
「お前はまだここに来るには早い。お前が背負わされた404の業は、俺が引き受け地獄に送ろう。だからその糸を辿っていけ。俺を倒したテーセウスがアリアドネの糸を辿ったように」
「ミノタウロス、俺は……どうしたらいい」
「生きてくれ。俺の分も。彼女と一緒に」
ミノタウロスの体を炎が包む。404の黒い炎だ。焼かれながらもミノタウロスはにっこりと笑った。
「さあ、振り返らずにゆけ」
一比古は糸を頼りに全速力で走った。
先に光が見えた。かすかな、一筋の希望が。
「一比古……」
目を開けると、アイリスの顔があった。横たわった一比古は、アイリスの膝の上に頭を載せられていた。潤んだ青い目から涙が一粒、落ちた。それは乳白色の真珠の粒になり、一比古の頬に当たってころころと転がった。
一比古はアイリスの小指に巻きつけた瑠璃色の糸を握りしめていた。
皆が一比古を見守っている。
ヴァイヤー、白峯、たま、そしてウィチハンの人たち。
「ただいま。戻って、こられたよ」
わずかに顔を上げる。
雷雲の去った東の空が、薄紫色から薔薇色に染めかえられつつある。上空に、白髪をなびかせた東の御方が見えた。ぼんやりと朝焼けを見つめていた。
アイリスが泣きそうな顔のまま、口の端を持ち上げ微笑んだ。
「まだ終わりじゃないけど、ひとつ終わった。こうやって、少しずつあなたと歩みたいの」
一比古も自然と笑みがこぼれた。
「うん、あがいて笑えたら……満点だよな」
海の彼方から澄んだ風が吹いて一比古の頬を撫で、陽の光が東の空をまばゆい金色に塗り変えていった。
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