プロローグ 人を裁くな、自分が裁かれないためである(Matthew 7:1) 2
背中まで伸びた豊かな黒髪。西洋人とも東洋人ともつかない顔立ち。目はやや緑がかっている。右目に色つきのガラスをはめ込んだ片眼鏡。小柄だが仕立てのいいパンツスーツに身を包み、手にはカール・ワルサー社製P99拳銃。銃口は男に向けられている。
彼女はためらいなく引き金を引いた。男の足元で火花が散った。
「次は額だ。それともフスばりに地獄の業火で焼き尽くしてやろうか!」
スーツの襟についた社章を見て、男が悲鳴をあげた。
「お、お前ぇぇぇぇ、ヴァイヤー!」
「下級審問官ごときに呼び捨てにされる謂れはない!『フォン・ガルントハイム』を付けなさい」口をあけて笑う。「アイリス! 我らの敵だ。排除せよ!」
ガシャン!
今度は窓ガラスが割れ、破片の舞うなか、金髪の少女が飛びこんできた。
ガラスが青い光を受けて輝く。彼女の瞳も同じ青色だった。しっかりと前を見定め口をひき結んでいる。一比古と同じかやや年上。スカートに薄いブルーのポロシャツは、どこか借り物の服のように思えた。
彼女はガラスを踏んで着地すると、顔を上げた。肩までの髪が散る。
少女は、細い腕を背に回した。
ずるり、と長い三叉の槍が現れる。
短く息を吐いて槍を繰り出し、一比古を縛る青い光柱を貫こうとした。しかし、耳障りな反響音とともに跳ね返されてしまった。形のいい眉が険しくなる。
「無駄だ、お嬢さん! ゲオルギウスの竜はただの斬撃では破壊できん!」
男は笑いながら、一比古めがけて大ぶりのナイフを投げつけてくる。
「アイリス、立ち防げ!」
少女はナイフと一比古の軌道上に入り、両手を広げた。
「止め――」
ナイフが右腕に刺さる。彼女は微動だにしなかった。
「ははははは、楽しいダーツだ!」
男はナイフを続けて投げる。彼女の足に、胸に。
「おい、あんた死ぬぞ!」
必死に一比古が止めても、金色の髪がそよぐ以外、彼女は動かない。男の甲高い笑い声ばかりが響いた。
「あはあはあはははははっ!」
「下衆め。そこまでだ」
ヴァイヤーと呼ばれたスーツの女性が、中空に円陣を書き終え静かに言った。宙に浮かぶ円や線を交えた方形。それはスーツの襟についた社章と同じものだった。
ヴァイヤーがさっと右手を滑らすと、円陣は淡い光を帯びる。
「〝神のテトラグラマトン。哀れな子羊へ請い願う。ロゴスとゾーエーの名において、同じ運命辿らんとするものを、架台から解き放ち給え!〟」
ヴァイヤーの言葉に応えるように、円陣から溢れた光は、一比古を縛る柱を包んだ。
アイリスという少女が耐えていたのは、この魔方陣を完成させるための時間稼ぎだったのだ。一比古の眼前に迫っていた鉄杭が砕け散り、光柱にひびが入った。
「断ち切れ、アイリス!」
少女は、渾身の力で三叉の槍を横薙ぎに振るった。ガラスが砕けるような音がして、青い光柱は細かい破片となって四散し、一比古の体が自由になった。
「あ、ありがとう……」
アイリスは表情を変えずに頷くと、腕に、胸に刺さったナイフをためらいもなく抜き、男に向けて放った。
だんだんだん!
男は壁に追いこまれていく。
最後のナイフを投げると同時に、アイリスは短く息を吐き、床を強く蹴ってターンすると、一瞬で間合いを詰めた。わずかに彼女の歪んだ横顔が見えた。
彼女は男の首を、正確に槍の叉でとらえて壁に打ちつけた。
男は悲鳴をあげた。
「ぎゃあああ!」
少女は、どうしますか、と言いたげに振り返った。
ヴァイヤーと呼ばれた黒髪の女は丁寧に靴をそろえて脱ぐと、ぐるりと部屋を見回し、肩をすくめた。
「日本のアパートというのは、どうしてこうも古くて狭い。さて。君はこいつを、どう処すべきと思う?」
急にヴァイヤーに聞かれ、一比古は歯切れ悪く答えた。
「ええと……追い払う?」
「甘いあまーい」と男の後頭部に銃口を向ける。「死ね」
「ま、待て! まだ茗が」
「む、一理あるな。ちと急いたか」
「それに、殺すってそんな簡単なことじゃない……はずだ」
ヴァイヤーが小声で「シャイセ!」と呟いた時。うわずった笑い声が聞こえた。
「ひっけけけけけけ! つくづく甘い餓鬼だぜぇぇぇ!」
男が左手に聖書を開き、ページから光が漏れた。
「まずいっ転移される! 乱暴に行くぞ、アイリス防御しろ!」
言うが早いか、ヴァイヤーは左手で空中に円陣を描く。
最後に、天から地へ走る一本の線が円陣を断ち切った。
「アル・ファス・フネス、我が祖ヨハン・ヴァイヤーの名にかけて、アキレウスの楯よ! 行く手を塞げ!」
目がくらむほどの膨大な光が溢れ、一比古たちを包んだ。
ギォォォォン!
破裂音と同時に、一比古はその場にしゃがみこんだ。
耳がきぃんと鳴る。息をすると喉に、鼻に、細かい粉塵が張りついてくる。ぱらぱらと落ちてくる木の破片にまじって、冷たい雫が頭を濡らす。
振動が収まるのを待って顔をあげると、目の前にアイリスという少女が自分に覆いかぶさる格好で一比古を守っていた。いたるところから滴る血。さっきのナイフの傷だ。
目が合うと、自分は大丈夫だと言いたいのか、かすかに頷いた。
「チッ逃げられた。アイリス追うぞ。小僧、破った窓ガラスの請求はここへ!」
と言って、ヴァイヤーは折り畳んだ紙を投げ、振り返りもせず、玄関から飛びだしていった。
「おい、ちょ、ちょっと待って――」
アイリスは、去り際、ちら、と一比古を振り返った。青い瞳。金色の髪。
あ……。一比古の中に記憶が蘇る。海の少女。
「君、あの時の」
彼女は肯定も否定もせず、スカートの裾を翻して走っていった。少し足を引きずりながら。
ただ一人残され、一比古は呆然とした。
男が現れてから、十五分も経っていないというのに。
これは一体なんだ? あの男は一体何者で、男が言っていた「魔女」という言葉はどういう意味なのか。
「俺、男なのに……」
一比古は、煤だらけの顔を拭った。涙を堪えるので精一杯だった。
茗……。どうしたらいいんだ。
ヴァイヤーが残した二ツ折りの紙を拾う。
そこには「眞夜中新聞」と、太い明朝体の文字が並んでいた。
「眞夜中新聞」一面、社長コラムより抜粋――
某月某日付
(注…ダ・ヴィンチの暗号を解いていく海外ミステリーがブームだった頃)
〝アメリカ人作家の浅学さに呆れる。暗号官がなぜアナグラムに気づかない。いくらフランス人とて、そんな無能はいまい。我が社なら即刻クビだ。アメリカ人はテンプル騎士団さえ出せば何とかなると思っ――〟(以下お詫びの上、編集長の「季節の俳句」に差し替え)
某月某日付
〝ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』以後、ヴァンパイアの魅力につかれ、様々な作品が世に送り出されてきた。それは良い。だが、彼奴らが全ての魔族の王として描かれている作品がいかに多いか。彼奴ら、この世に生まれてたかだか百六十年。無知な戯作者よ、覚えておけ! 真の夜族とは! 一九六九年ヴュルツブルグで私が遭遇した――〟(以下お詫びの上、「カンタン! 夏の和菓子レシピ」に差し替え)
五月某日付
〝先日、三十年余にわたり、浦賀水道沖にて船舶を襲撃してきた海坊主が、弊社記者により拘束された(一、二面記事参照)。その際、偶然現場に居合わせたA・K君(都立高校三年生)は、友人を助けたい一心で、無意識の結界によって海坊主の高波を退けた。かように、特殊な力を持つ者の多くは、稀有な能力に気づくことなく、人生を終える。
私には分からない。彼らが幸福であるか、不幸であるか。
因みに弊社は、慢性的人手不足に悩まされている。我こそはと思う猛者よ、履歴書を四ツ谷左門町・弊社採用係まで郵送されたし。
【中途採用(記者・編集)】年齢経験不問、二十四時間交代制、週休八日(不定休)、給与固定+歩合制。霊感、体力のある方求む!〟
第1章 ひとつの獣が海から上ってくるのを見た(Revelation 13:1)へつづく