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日と月と星にしるしが現れるだろう(Luke 21:25) 1

 一比古は深呼吸を二、三度繰り返す。

 真夜中新聞社特派員、赤羽一比古。一人では手に負えないスクープを入れたらどうする。

「編集長に報告だろ」

 白峯の携帯に電話をした。数度のコール音で白峯が出た。が。


「はい白峯――ああっ! 社長、なにをするんです!」

「一比古! さっきは悪かった! 全員反省した! さあ状況を報告しろ」

 どうやら携帯をヴァイヤーに奪われたようだ。と、こちらも携帯をもぎ取られた。東の御方は、ここに話しかけるのか? と言いながら怒鳴った。

「おう、真夜中新聞社の長殿か。先刻はようよう妾を魔女呼わばりしてくれたの。お主ら旧教ぷろてすたんと新教かとりっくも、進歩がないのう! 自らを世界宗教と名乗るなら、十把ひとからげに己の枠に押しこむ石頭をまず治したらどうじゃ? 一比古が許しても妾が許さぬぞ!」

「人の道を捨てた『鬼』の分際で正道を説くとは笑止」

「ぬう小娘め、口ばかり賢しくしおって……」

「ストーップ!」

 一比古は携帯をとり返した。

「言い争うのは後でしょ。社長は司令塔なんだから、しっかりして下さい」

 ヴァイヤーのため息が聞こえた。

「お前に諭されるとは私もまだまだだな」


 一比古は佐田の証言、魔女の場所を教えた。

 一方、たまの携帯には御舟から連絡が入ったようだった。魔女狩り事件の一件目で「老女」が言った言葉「私を恨むなら、殲滅戦を恨め」が伝えられた。

「それを待っていたッ」


 ヴァイヤーと東の御方の声が重なった。

「魔女の名は、ブリューネスハイム!」

「鬼女、布津木(フツキ)カヨ子!」


「な、な、なに? どういうこと?」

 東の御方は、妾のせいじゃ、と呟いた。

「《殲滅戦》の際、妾は参戦を拒否した。その代わりに人間の術師が代わりに雇われたと聞いている。名は布津木カヨ子。形代の術を得意とし、紀州の巫女の血筋であったという」

 呪いで戦争に勝とうなんて、ちょっと無理があるんじゃないか、と一比古が言うとヴァイヤーが答えた。

「ない。むしろ常套手段さ。イギリスだってソ連を連日呪っていたし、ソ連だって同じ。ドイツのSSは密教の秘術を探すためチベットに捜索隊を出したほど。戦争と神秘主義的呪術は切り離せないのだ。だが、一人の魔術師に頼るには、あの戦いは巨大すぎた」


「私は、布津木に一度会ったことがあります。出征前に禊を受けるために。戦況は日増しに悪くなっていて、彼女はだいぶ疲弊し、精神的にも追いつめられているようでした。それが戦後、魔女になっていたとは……」

と白峯の声が聞こえた。

「後は予想がつく。首脳部は壊滅する戦線を布津木のせいにした。戦後は裁判を免れたようだが、それゆえに、ごみ同然に捨てられたのだろう。彼女の心に残ったものを量るのはそう難しくはない」

 一比古にも分かる。

 憎しみ、怒り、悲しみ、無力感。東の御方と同じだ。祖国のためにと役目を引き受けた彼女は、きっと強い正義感の持ち主だったのだろう。

 それが粉々に打ち砕かれた。


「残ったわずかな自尊心。そこを魔につけこまれたのやもしれぬ。悪魔さたんと契約し、名を『ブリューネスハイム』と改めたのじゃろ」

「『青の家』……青線の隠喩か?」

「物知りだのうドイツ女は。ま、恐らくはそれで当たりじゃ。心に抱くは、この世に復讐を、この世をわが手にと。妾にも覚えある感情」

 だが、それは間違っている。

「これで詰んだな」

「そうだの」

 一比古は通話を遮って叫んだ。

「ちょっと待てー! そいつがどうして俺を狙う!」


 ヴァイヤーは頑然として言った。

「最後の講義だ、一比古。よく聴け。

 お前には『人間版・賢者の石』とでもいうべき、結晶化の能力がある。理由は今をもって分からない。最後に残された謎だな。ブリューネスハイムは、人の忌まわしき記憶を引き出すという、魔女特有の能力に優れている。ユニコが見せた赤羽の記事から、なにかを読み取ったのだと思う。

 これは悠介の受け売りだが、ウィチハンも歯車のひとつ。罵詈雑言を集め、殺害を中継して、人の恐怖や悪意を煽る『装置』なのだと。その結果、404が産み落とされた。

 悪意の塊404は、お前の身体の中にとりあえず封印されている。ブリューネスハイムはチェーンメールの件といい、ウィキペディア改竄の件といい、ネット社会に順応している。一比古が純度を高めた悪意を回収し、仮に、ウィルスの形でネットにばら撒いたらどうなるだろうか?」


「ウィルス?」

 突然出てきた言葉に、一比古は戸惑った。

「駆除ソフトなど役に立たない。回線を通じてモニターから直接人体に影響するウィルス。仮にエボラ出血熱がネットで感染すると考えてみろ」

 人体に影響するウィルス。名は悪意の塊。

 一比古は背中に寒気が走った。自分が悪意を強化している。きっと、ウィチハンの罵声などとは比較にならないものだ。

 もしこれが解放されたら。


 ヴァイヤーは続けた。

「裏サイトどこの話じゃない。今首都圏だけでもネット回線がどれだけある? 全滅だ。リアルに全滅。実現には『淑景北記』に記された術が必要らしい。これも悠介がネットの協力者と調べあげた。以上が、お前が狙われた理由だ」

 アドミニスター=布津木カヨ子=ブリューネスハイムが企む全貌が、見えた。

「社長、絶対に止めるからな!」

「いい覚悟だ。全員よく聞け! これより真夜中新聞社は布津木カヨ子=ブリューネスハイムの掃討に入る! 各自担当を伝える。本社通信指令班に堺、御舟。編集長代理に拝島。現場サポートは龍宮と松原、強襲班は赤羽、アイリス、白峯、そして陣頭指揮には私があたる。以上九名。一比古、お前にはすぐ迎えを寄越す。作戦開始は二三〇〇(フタサンマルマル)!」

「了解!」


 続けざまに悠介から着信が入った。東の御方が強引に割りこむ。

「『淑景北記』はどこにある、小僧」

「東の御方ですね? 初めまして、堺と申します。解明板の捜索隊に赤羽の家を探してもらいましたが、それらしきものは見つかりませんでした」

「お前ッ、俺んちに不法侵入したわけ!?」

 一比古の抗議はあっさり無視された。東の御方が続けた。

「よいか堺、実物がなくとも『淑景北記』は召還が可能。じゃが召還には文言が必要で、赤羽の者しか知らぬ」

「なるほど、ダブルコントロールってわけですか」

「一比古はこのザマじゃし、どうせあの放蕩親父と連絡はつかんのじゃろ」

 ん? 一比古はひっかかるものを感じた。東の御方は、父親を知っているのだろうか。

 一比古が物思いにふける間にも話は進む。

「なら茗ちゃんですね。そう考えればブリューネスハイムが、審問官から茗ちゃんを奪取したのも筋が通る。そして未だ動きがないところを見ると、その文言は聞きだせていない。ブリューネスハイムはウィルスの散布に『淑景北記』内の最大禁忌を使うと、僕たちは推測しています」

「『紅葉炎環(くれはのえんかん)』じゃ。それこそ妾が拒否した禁呪」


 慌てて一比古は確認した。

「とにかく、茗を助ければ形勢逆転できるんだな?」

「バカ流に意訳すればそうだ。奪還かつ、支配を解かないといけないけど」

「お前らさあ! そろって俺をバカにしてるだろ!」

「してないよ?」

「堺、妾は『雲林大鏡』を為す。人手が必要になる術じゃ。手配を頼めるか」

「任せて下さい。赤羽! 君への謝罪を後回しにすることを許せ」

「俺もだよ」

 お互い含み笑いをして、通話を切った。


 五分もしないうちに、神社の入口でギャンと鋭くタイヤがこすれる音がし、大型スクーター並みの自転車が止まった。ヘッドライトが一比古を強く照らした。

「赤羽! 乗れ!」

 荷台はむき出しの鉄板である。サドルにまたがる人物には首から先がなかった。ぎゃあ、と悲鳴をあげそうになると、

「こっち、こっち」

と下から声がした。右腕に抱えた丸いもの、それが運転者の頭だった。流線型のヘルメットを被った男の頭が一比古を見上げ、ニッと笑う。松原だった。

「マツさん、こ、こ、これ」

「俺の正体だよ。首なしライダーならぬ首なしバイカー。特殊電動モーター積んでるから百キロは軽いぜ。しっかり掴まってろ!」


 ヴォォン!


 モーターがうなりをあげ、お化け自転車は地を這うように走りだす。荷台から落ちそうになるのを、首なしの胴に必死にしがみついた。

「おらおらおらおらおら! どけえええええっ!」

 右左、車線を縫うというより、車をはねのけるように坂を下る。東京、有楽町、銀座、豊洲……煌々とした夜の街を、獰猛な獣が走っていく。

「マ、マツさん、これ道交法違反じゃ」

「都市伝説に法律は適用外だ!」


 運河を越え、長く盛り上がった橋を渡る。塔のようなマンションが乱立し、右手には白く輝くレインボーブリッジ。橋を渡りきればそこは台場だ。一比古は後ろを振り返った。雷鳴を響かせ黒雲が迫りくる。

 橋を渡り、九十度のカーヴをドリフトで曲がると、急に風が生ぬるくなった。

「気圧が下がってる。五分で目的地に着くぜ。赤羽、ちょっと前詰めろ!」


 見上げると、上空にかかるモノレールの車線に人影があった。

 人影はためらいなく、ぽおん、と宙空に身を投げる。一回転すると走るマツの自転車の荷台、一比古の後ろに着地した。その間も自転車は一切減速しない。

 荷台に立つアイリスは、髪をなびかせ、一比古と目を合わせると、こくりと頷いた。

 一比古の中で、欠けていたものがぴったり埋まった気がした。

「ありがとう! メールも、書きこみも!」

 耳を切る風に飛ばされないよう、一比古はアイリスに声をかけた。

「お二人さん、感動の再会は後だ。埠頭に着く。二十三時十分前。いいか、慎重にな!」


 オレンジ色の街灯に照らされ、人気のない工業エリアに入る。

 倉庫が建ち並び、道の先は堤防になっている。向こう岸にコンテナの列が見えた。行き止まりまで進み、敷地を区切る二メートルはあろうかというフェンスを、ウィリーで駆け上がる。

「おらああああ! 跳べっ!」

 体が重力から開放された。車体を蹴って跳ぶ。

 ギャギャガガガッ

 松原の車体は派手にバウンドし、一比古とアイリスは無事に着地した。

「一番奥の倉庫だ! 白峯さんと社長は別の場所で待機している。二十三時ちょうどに赤羽とアイリスは正面から突入。茗ちゃんの保護を最優先。いざとなったら俺が離脱させる」

「了解っす!」


 生ぬるい空気をかきわけ、一比古とアイリスは奥の倉庫に走った。他の真新しい倉庫と違い、波打つトタンは剥がれ、雨に流れた赤錆の跡が血を思わせる。

 この中に茗がいる。

 今すぐ飛びこみたい気持ちを、なんとか落ち着かせようとする。アイリスがそっと肩に手を置いてきた。一比古を見つめる青い瞳。風になぶられぼさぼさの金色の髪。

 一比古はおそるおそる、手を重ねた。

 アイリスの手は温かかった。生きている。自分もアイリスも。そして茗も。

 誰も殺させやしない。


 携帯でウィチハン@解明板を少しだけ見た。名前の知らない人々が、知識を結集させ、最善を尽くしてくれている。佐田や平巡査らしき書きこみもあった。

 これだけの人が、背中を押してくれる。負けるわけにはいかない。

 携帯で時報の音を聞きながら待つ。アイリスは入口を背にして立ち上がり、背中から三叉の槍を抜いた。一比古も左手に糸巻きを持った。

 糸は血のように赤い。

「只今、午後十一時……」


 ピッ、ピッ、ピッ、ピッ……

 ポーン


「行くぞ!」

 アイリスが口の中でなにかを唱え、槍を横に薙いだ。小さな南京錠で閉められた鉄のドアの中央から光が漏れ、次の瞬間、真ん中からふたつに割れる。鉄の臭い。熱風の中を、一比古は倉庫に飛びこんだ。

「ブリューネスハイム! 来たぞ!」

 茗が縛られていた椅子には誰もおらず、コードが延びて、装置に繋がっている。ピッ、とモニタに浮かんだ緑色の文字が赤く染まった。


 ドオオオオオオオオオオオオン!


 地面が激しく揺れ、音が鼓膜を刺す。

 しかし、体が焼かれることはなかった。

 薄目を開くと、炎の中、白い髪が翻っていた。一比古たちは薄い光の膜で爆風を逃れていた。

「これしきの発破で、妾を焼こうとは、浅はかなり」

 東の御方は緋色の扇をはらはらと舞わせた。穴の開いた天井から吹きこみ、風が煙を払う。

「姿を現せ。真名は握っておるぞ、布津木カヨ子」

 黒煙の向こうに小柄な影が現れる。

「赤羽、来たな。約束守った。褒めてやるよ」

 黄色いカーデガンにジーンズ。茗だ。しかし顔つきも声も、彼女のものではない。目が血走り、顔は青白い。彼女を操るブリューネスハイムのものだ。

「よいか、布津木自身は別の場所に隠れておる。まずは娘を捕らえ、呪縛を解くのが先決――」

「死んじまえよぉぉぉ!」


 飛びかろうとした茗を、アイリスの槍が押しとどめた。槍を一回転させ、柄で肩を突く。よろけたところで脚をすくい上げた。

 槍を振り上げたアイリスの手が止まった。

 鬼のような表情が消え、茗が現れたのだ。

 茗は自分の置かれた状況が理解できず、迫る槍を見て悲鳴をあげた。

「い、いやあああぁ!」

「茗!」

 駆け寄った一比古の目の前で、茗の目が光り、口の端を持ち上げ舌を出した。くぐもった声が言った。

「バーーーカ! あたしは魔女だよおおお!」

 茗の腕が伸び、抗えないほどの力で髪を掴まれた。ぐん、と体を抱えあがられる。茗は裏口から運河に飛びこんだ。当然、一比古も引きずりこまれる。

 東の御方が怒鳴りつける声が聞こえた。

「ほんにうつけめ! 何度同じ手にかかるか!」


 暗い水中は上も下も分からない。

 耳と鼻から水が入りこみ、肺がたまらず空気を吐いた。首を掴まれ、引きずりこまれる。と思えば上からのしかかって胸を押してくる。小さな茗とは思えない力だ。

「死ね! そして身中に収めた黒き人の業を寄越せ!」

 意識が遠のき、糸巻きを手放しそうになる。

 遠くで水音がした。

 月の光が水に揺れている。ゆらゆらとアイリスが「立って」いた。

 水は本来彼女の領土。彼女の生まれた土地。

 アイリスは槍を構えると、地面のように水を蹴って、茗の背後まで跳躍した。

「ちぃッ」

 アイリスが暴れる茗をはがいじめにする。

「これであたしを殺せると思うな。魚の娘……見えるぞお前の業。それも寄越せ。『紅葉炎環』に加えてくれる」

 茗の口ががば、と開き、黒い霧が水中に散る。意思を持った蛇のように、それは一比古とアイリスの口を冒した。

 もうひとつの水が、一比古を呼んでいる。意識が遠のく。




 薄青いひんやりとした霧が流れている。

 映写機に映し出されるように幻影が見えた。

 天蓋つきの洋風のベッドに、茶褐色の髪の男女が眠っている。まだ若い。きっと十代だ。枕元には男の王冠と女のヴェールが置かれていた。若い王子と王女。手を繋ぎ、幸せそうに眠っている。二人の左手の薬指には真新しい結婚指輪が光っていた。

 ベッドの脇に、少女がもう一人。

 彼女の金髪は腰まであった。からみ、ほつれあい、まるで鳥の巣だ。簡素なネグリジェからのびる足は素足で、真っ赤に腫れあがっていた。

 彼女は右手にナイフを握っていた。これからなにが起こるのか――一比古は嫌な予感がした。


 少女が顔をあげる。

(……アイリス!)

 髪の長さこそ違うが、間違いない。彼女の唇が動いた。

 ゆるさない――。

 彼女はナイフを振りかざした。

(やめろっ!)

 アイリスは、力をこめてナイフを突き立てた。王子の胸に。白いシーツにじわりと赤い染みが広がる。アイリスはナイフを抜き、振りかぶり、振り下ろす。ぶしゅっ、と風船から空気が漏れるような音がする。

 二度、三度、四度。

(やめろ、やめろ、やめろぉっ!)

 かけ寄ってアイリスの腕を掴もうとしたが、通り抜けてしまう。


 王子は最期に目を開け、驚いたようにアイリスを見た。

「どうして――」

 声を断ち切るように、アイリスは王子の喉に、深々とナイフをつき立てた。乱れた髪が顔にしだれかかる。頬には、返り血が散っていた。


(やめろよ、なあアイリス、やめてくれ……)


 ぐい、と頬の血をふき取ると、アイリスは王女の胸も突いた。ひいっ、と小さな悲鳴が上がる。血に染まった腕で王女の頭をベッドに押さえつけ、刺す。

 一度、二度、三度。


(止めろやめろやめろおおおおおおおおおおお)

 触れられない彼女を、一比古は抱きしめ、押しとどめた。

 アイリスは顔を歪め、歯を食いしばる。血の気を失って王女が絶命すると、ナイフを投げ捨て、天を仰いで声なき咆哮をあげた。

 涙は出なかった。それでもアイリスは、確かに泣いていた。


 びいぃぃん……!


 聴いたことのない高い音で和琴が鳴り、東の御方の声がした。

「あやつが来る! はよう目を覚ませ一比古! これは布津木が見せている過去じゃ。お主にはどうにもできん。いいか、声を発してはならぬ。見つかれば過去に引きずりこまれるぞ!」

 ごおっ、という音とともに部屋に海水が満ちた。

「アハハハハハハハハ!」

 髪をふり乱した老婆が渦巻く中心にいた。腕に無数の海蛇を巻きつけ、目はぎらぎらと光っている。不思議なことに、声だけは若い女性のものだった。

 死した王子と王女の髪を掴み、老婆は死体を高く掲げた。


「殺した、殺した! ウフフフ」

 アイリスがなにか言いたげに一歩踏みだす。老婆は舌なめずりをした。

「ああそうさ。姉君の髪と引き換えにあげたそのナイフで王子を殺せば、お前は人魚に戻れる。そういう約束だった。でもね、お前は王女まで殺した。あたしゃ、そんな事許してない。契約違反には仕置きをくれてやらなきゃねえ」

 アイリスは、かぶりを振って後ずさる。

「お前の宿命、妾がもらう。心の臓が動きを止める時まで三百年、お前はあたしら魔女を守れ。忌まわしい審問官どもを殺せ! 首を刎ねろ! 四肢を裂け! 心臓を潰せ! 殺し尽くせ!」

 そんな……。

 アイリスにかけられた不死の「呪い」とは、これだったのか。

 《五の災人クイントゥス・マレフィキス》の筆頭。本来魔女は水を怖れるが、唯一、水を自在に操る真の魔女。


「お前が……『海の魔女』か」


 口の端から泡が漏れる。海の魔女がぎろりとこちらを睨んだ。

「誰かそこにいるね。出ておいで!」

 ばれた。一比古めがけて海蛇が水中を突進してくる。しかし、アイリスが立ちふさがって両手を広げた。

 見えているはずがないのに。

「やめ――」

 海蛇はアイリスの髪に噛みつき、のたうちまわって髪を食いちぎっていく。アイリスはそれでも微動だにせず、一比古をかばった。

「ふうん、大した者じゃなさそうだし、お前の髪と引き換えに見逃してやるよ」

と、海の魔女はつまらなそうに、長い爪の生えた人差し指を動かした。

 ざん。水が鋭い刃になって、アイリスの長い髪が刈りとられる。

 金糸が無残に散った。

 海蛇が泳いで髪を集め、魔女に渡した。


「くくく、これでかつらでも作ろうか。いいかい六番目の娘。契約を忘れるんじゃないよ。裏切ろうものなら、即座に心の臓が破裂して死ぬからね。アハハハハハハ!」

 海の魔女は高らかな笑い声を残して消えた。同時に海水も引いていった。

 張りつめた緊張の糸が切れ、アイリスはその場に膝をついた。そして、嘔吐した。ざんばらの髪が顔にはりついている。


 俺が、声を出したからだ。

 べおんべおんべおん、おんおん……。

 夢を破ろうとする和琴の音色。


「つらければ かくてやみなんと思へども 物わすれせぬ恋にもあるかな」


 夢、いや。かつて「実際に起こったこと」が終わる。



  2につづく

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