はじめに言葉があった。(John 1:1) 1
急いで下高井戸駅へ向かい、テストが終わって下校してきた悠介とおちあった。彼の自宅は住宅地にあるごく普通の一戸建てだった。
「両親とも働きに出てるから、気遣わないでいいよ」
自室で、悠介はペットボトルからめいめいのコップにお茶を注いだ。
六畳程度の決して広くはない部屋。しかし生まれてから自分の部屋を持ったことがない一比古には羨ましかった。一人用のパイプベッド。小物が置かれた棚、漫画や小説が詰まった本棚。自分用の机に自分用のノートパソコン。
アイリスがなにかを書いて悠介に手渡す。
「『なぜ協力する?』」悠介はメモをピンと弾く。「いい質問だね。字は汚いけど」
悠介は立ちあがり、西側の窓のカーテンを開いた。むっと湿気が入りこんでくる。
隣屋の二階の窓が同じ目線にある。両開きの窓はガラスが半分割れていて、ダンボールでふさいである。薄いピンクのカーテンはぴったりと閉ざされていた。
「あの部屋にいるのは細野真衣子。十九歳。短大一年生。僕の幼馴染みで、『お隣のお姉ちゃん』だった。先月までは」
「それは……」
「そうとも。六月十日、彼女は『魔女狩り事件』の第二の被害者になった。幸いすぐに退院できたけど、お見舞いに行ったら、目はうつろ。手が震えていて、僕のことも分からなかった。彼女はひたすら言っていた。『あたしは、まじょじゃない』」
窓を閉め、カーテンを引く。
「それから僕は色々調べた。魔女のこと、魔女狩りの歴史。そして《魔女の鉄槌》や真夜中新聞社の存在を知った」
「それで俺のことも知ってたのか……」
悠介の手がだらりと垂れ下がった。
「中世からの因縁とか、僕にはどうでもいいんだよ。関係ない。でも、身近な……大事な人が滅茶苦茶に壊された。命こそあるが彼女はもう、彼女じゃない」
それで納得してもらえるかな、と悠介は言った。もちろん、と頷く。
「誰かに聞いて欲しかったんだよな」
「さあ、どうだろうね」
自嘲っぽい笑みが悠介の顔に浮かんだ。彼は一人で戦ってきた。そこへ一比古が現れた。安堵の気持ちはきっとあったに違いない。
悠介は喉を鳴らしてお茶を一気に飲み、はぁっと息をついた。
「ああもう、話の腰を折らないでくれ! 君らを呼んだのはそういう事を言いたいんじゃない。別の話だ。昨夜のドタバタで確信した。君たちは心底バカだ」
「な、なにおう……」
悠介はノートパソコンを起動させた。モニタの横には増設部品がむき出しのままラックに積んである。一比古とアイリスは後ろからモニタを覗きこんだ。
「ずっと綾瀬戦の動画が気になってる。一般ユーザーがなぜ事前にカメラをセットできたのか? いいか、僕はウィチハンに一度も晒されてないんだぜ。名前すらね」
「綾瀬が自分で仕掛けたんじゃねえの?」
「その線はない。僕が狙われた理由はただひとつ。『知りすぎた』から。ならなぜ事前に予告をしない? 見せしめとは、『こいつを何々の理由で殺す』って犯行予告をしてこそ効果がある。そして問題は動画アップの時の言葉」
悠介はウィチハンの過去ログを表示させた。
666.@審問官見習い
666ゲト。
速報! 一比古タンが女子大生とガチバトル!
マジこれはゴイス。
「君たちはアドミニスターを、イコール《魔女の鉄槌》と考えてる。ところがだ。この666番は《魔女の鉄槌》の投稿のはずがないんだ」
「はずがない? アイリス分かる?」
アイリスは首を振る。悠介はあきれた顔で二人を見た。
「決定的バカ……あのねボクたち。自分がこてんぱんに叩かれて負けるシーンを『ゴイス』なんつって、得意げに公開する奴が、どこにいますか? 特にプライドの固まりみたいな奴らが」
「お、おおお……なるほど!」
《魔女の鉄槌》からしてみれば、自分たちが弱いと宣伝してるようなものだ。
悠介は続けた。
「まだある。赤羽のプロフと眞夜中新聞の紙面を投稿した『まるちゃん』ってユーザー。新聞社に近い人間じゃなきゃ知り得ない情報だ。重箱の隅をつつかせてもらえば、神の側に立って魔女と戦ってると――少なくともそう思ってる――《魔女の鉄槌》が、黙示録の魔獣の象徴である666番をゲットして喜ぶってのも変だ。法王が『F●●K!』って言うようなものさ。完全NGだ」
悠介はウィチハンをトップ画面に戻し、くるりと振り返った。
「結論。真夜中新聞社、あるいは新聞社に非常に近しいところにいる人物が、情報を流している」
一比古の背に冷たいものが走った。
ヴァイヤーの疑いは正しかったのだ。
それが一比古か別の誰か、という点が違うだけで。
「うしろの正面、だーれだ?」
外から幼い声がした。アイリスが勢いよく窓を開け放った。
黄色いカーデガン、ジーンズ。二つに結った髪。
「茗!」
茗が宙に浮いていた。さらわれた時と変わらないままだ。茗は手を差しだし、にっこりと笑った。
「久しぶり、お兄。一緒に行こ?」
身を乗り出す一比古の腕を、アイリスが掴む。一比古はそれを振り払った。
「い、行くってどこへ。家へ帰ろう、な?」
茗の眉が吊りあがった。唇を歪め笑う。
「お兄と私、お母さんが違うんだってね。騙してたんだね」
「騙してたわけじゃない。俺だって知らなかった。違う、わ、忘れてて」
「魔女なんでしょ、お兄って。騙してたのは許してあげるから、一緒に行こ? みんなお兄を疑ってるよ。後ろで刃を研いでるよ。私が助けてあげる」
「赤羽、様子が変だ」
悠介の囁きも、一比古の耳には入らない。
「お兄が一緒に行ったら、許してくれるか?」
「きゃははははは!」体を折って茗は笑った。「ばーか。ヤだよ許さない。本当のウィチハンはこれからだから。じゃあね、魔女」
そう言うと茗の姿は忽然と消えた。
「茗――!!」
一比古は、悠介とアイリスによって二人がかりで引き戻された。
「離せ。茗が! 茗が!」
ぱんっ。
頬に鈍い痛みが走った。アイリスが頬を打ったのだ。声を失い、一比古はアイリスを見返した。しっかりしろ、と目が言っている。
頭にのぼった血は、時間をかけてゆっくりと降りていく。
「ご、ごめん……」
茗は明らかに可怪しかった。そもそも宙に浮けるはずがない。《魔女の鉄槌》が、一比古の動揺をさそうため、茗の姿を借りたに違いない。
一比古は自分の両手でぱん、と両頬を叩いた。
しっかりしろ。本当の茗はあんなこと言うはずがない。惑わされるな!
「『ウィチハンがこれから』って、どういう意――」
パソコンを操作していた悠介の呟きが途切れた。目がモニタに釘づけになっている。
「どうした」
見れば、数分前にアドミニスターから書きこみが投下されていた。
139.アドミニスター
【緊急告知】
第二回「黒」判定
都立F中学校 H・T(女)
私立R高校 G・K(男)
私立T高校 E・S(女)
以上を魔女と認定する。諸君の助力に心からの敬意を表する
処刑楽しみに待っててね!vv
一比古と悠介は同時に叫んだ。
「なんだよこれッ」
「彼女が言ってたのはこれかッ」
「キタこれ!」「俺H・Tと元同中だけど確かにキモかった。てことでプロフあげ」「マジこれは魔女っぽいw」「動画早くクレ!」「実名やべえだろ」「削除くるぞ」「魚拓確保済み」「GJ」「狩りの時間だっ」「まとめサイトつくた」「仕事早w」「おまいら学校とか仕事どうしてんだwww」
書きこみの数秒後から投稿が殺到し、イニシャルをもとに三人のフルネーム、学校、顔写真、住所、所属する部活動、親の職業……全てが暴かれていた。
乾いた悪意。もしかしたら悪意なんてないのかもしれない。
ゲームのように。ただひたすら楽しく。
人が本当に死ぬと考えているのだろうか。彼らの中で、人が死ぬというのは、そこまで軽いのか。
頭の芯が焼き切れそうだった。
本当に、死人が出る。
真夜中新聞社へ電話をかける。ノイズ交じりの音で女の応答があった。
「わたし、メリーさん……今あなたの後ろにいるの……」
「うっさい、メリーさん! 緊急事態だ。新聞社に誰かいるか!」
「うふふふ、ちょっと待ってね」
ぱたぱたと足音が遠ざかり、正常な通話に戻った。御舟が出た。
「すみません。いたずら電話防止にメリーさんに電話番を依頼して……」
「それはいいです! ウィチハン見ましたか!」
「おい、赤羽。スカイプ使え」
悠介がインターネット通話の回線を開いていた。モニタの向こうに御舟とたま、そしてヴァイヤーの姿が映る。ヴァイヤーはウィチハンを確認すると「シャイセ!」と絶叫した。
「三人に護衛をつける。たま。白峯とマツに連絡を取れ。私も行く。今日の紙面は全て拝島に仕切らせろ」
「はい!」
「アイリス、マツのサポートにあたれ。あいつは接近戦向きじゃない」
一瞬迷うようにアイリスがこちらを見た。一比古は、心苦しさが顔に表れないように、笑顔で答えた。
「大丈夫。前みたいな無茶はしないから。社長、俺はどうすればいいですか」
「そこは堺の家なんだな? 私とE・S宅へ。堺はIP抜ける奴はごっそり抜け」
自分の目の届く範囲で、一比古を見張ろうというつもりだろう。一比古は素直に頷いた。隠すことはなにもない。
「分かりました」
アイリスはバッグを手に取ると、脱兎のごとく階段を下り、家を出て行った。回線を切る直前、ヴァイヤーは、
「聞きわけの良いお前はなんだか気味が悪い」
と顔をしかめ、ウィンドウがログアウトした。
部屋には悠介と一比古だけが残された。一比古は悠介に聞いた。
「デジタルビデオとか持ってる? 俺が囮になる」
悠介はすべてを理解したらしい。一階に降り、録画機能のついたデジタルカメラを取ってきた。
場所が特定されないようにベッド側の壁を背にして立つ。少し離れて悠介がデジタルカメラを構える。悠介はぶつぶつと独り言を言った。
「僕はこういう釣り、本当は大嫌いなんだ……でも、気分は君と同じさ」
「ネットではなんて言う?」
「さあ。ファックで十分だろう」
自然と黒い笑いが忍び漏れた。
そうだ。まずはお前たち。無実の人たちを危険に晒すお前たち。
ぶっつぶしてやる。
792.@赤羽一比古
おまえたちの大嫌いな俺がきたよ
動画みろ F●●K!
「ようカスども。今晩は魔女の集会には良い夜だ。血を!血を!血を! 今から新宿に行く。俺を狩ってみろよ。貴様ら一人ずつ×××の×、×××してやる。こっちはIP調べ尽くしてんだ。せいぜいイエス様と仏様にかしわ手でも打っとけ。クソども」
ドアップの一比古が舌を出し、親指で首を掻き切る真似をし、下に向ける。
ブラックアウト。
悠介は、
「正直ドン引き。君はどこでそんな汚い言葉覚えてくるんだ」
とため息をついた。へへ、と笑ってごまかした。ミノタウロスの処刑の時の見物人の真似をしたのだ。
「あのな。奴らは怒りなんてしない。むしろ狂喜する。火に油を注ぐだけだ」
「いいんだよ。奴ら、三人より俺の処刑が見たくなるはず」
「確かに。要求するだろう。『赤羽の死体を早く見せろ』ってね。君まさか――」
「《魔女の鉄槌》も、そしたらターゲットを変更せざるをえなくなるだろ」
「囮ってそういう意味か! やめろ、今すぐ!」
悠介の手をかわし、一比古は部屋を飛びだした。
「逐一報告入れるから! 悠介は俺と御舟さんの中継ぎしてくれ! もし。もし俺が死ぬようなことがあったら、そっちに動画送る。俺の携帯十秒くらいしか撮れないけど!」
悠介が、バカ野郎、とわめいていた。
外は夕焼け。地面から闇がせり上がってきて街全体を包もうとしている。
熱気を含んだ空気をかきわけ、一比古は走る。
鬼さんこちら。手の鳴るほうへ。
下高井戸の駅まで戻り、一比古は荒い息をつきながら注意深く辺りを見回した。帰宅する社会人たちに混じって学生の姿もちらほら見える。
その時、悠介からの電話が鳴った。一比古は人目を避けて駅のトイレに入った。
「無事か?」
「うん。今、駅」
E・S、江藤という女子高生宅はここから数駅だ。
「じゃあ江藤の家へのマップ送る。ウィチハンはすごいことになってる。『赤羽を殺せ』の大合唱だ。一押しするだけで雪崩を打ったように動く……大衆心理の見本だね。アドミニスターからの反応はまだない」
どうなるか先は誰にも分からない。
「悠介はグリモアって知ってるか?」
「グリモワール? レメトゲンとか、ソロモンの大鍵とか、赤竜とか?」
「それそれ。あと『日野禍津抄』? 『淑景北記』? とかって知ってる?」
「君が既に疑問形なのを、僕が分かるか」
「だよな。しかたないや。またなにか動きがあったら連絡ちょうだい」
「赤羽。その……死ぬなよ」
ホームに電車が入ってきた。
目的の駅で降りると、あ、と声が上がった。一比古と同じくらいの中学生がこちらを見て目を丸くしていた。ゆっくりと少年は携帯電話を取り出し、一比古の方へ向けた。
「待ってくれ、俺は――」
携帯を持つ少年の手が震えていた。
「……E・Sさんを助けに行くの?」
一比古は頷いた。
「携帯。しまってくれるよな」
やがて。少年は学生鞄の中に携帯を戻した。
よかった、と少年が呟いた。
「え?」
「本当は分かってたよ……君は、たぶん悪くない……でもウィチハンを見てると何時間も過ぎて、だんだん君が悪い奴だ、そう思えてくる。リアルで会えて良かった」
胸がぐっと苦しくなって、涙が出そうになった。
「手ぶらなの? 腹、減ってない? あ、急いでるよね」
途端にぐう、と腹が鳴った。お互い、ふっと笑いが漏れた。
少年は「昼の残りだけど」と言って、菓子パンをくれた。
「ありがと。行くわ。俺と一緒んとこ見られたら、君だって危ない」
走りだした一比古の背中に、少年の声が響いた。
「ここは僕の町なんだ。十四年住んでる。なんの変哲もない住宅街だけど、この町で誰かが死んだら、僕は悲しい」
大丈夫。そんなことはさせない。
名指しされた女子高生E・Sの家は、住宅街の中の普通の一戸建てだった。
似たような家が並ぶ細い道路。苦しい時も楽しい時も、家という箱の元に家族が集う。かけがえのない場所。
今の一比古にはない場所。
頼りない街灯が道に光を落とす。
影に潜み、一比古は数メートル先の家の様子を窺った。淡い明かりが灯り、異常はなさそうだ。周囲に野次馬がいる気配もない。
ヴァイヤーはどこだろう。
「ご苦労」
背後からワルサーの銃口が押し当てられた。
「俺がアドミニスターだと思ってるんでしょう」
ガチリ、と撃鉄が起こされる。
「呑みこみが早いのは、やはりお前の美点だな。私はお前が魔女でも構わない。なぜなら魔女それ自体は悪ではないからだ。だが、人心を扇動するなら話は別」
「俺は、アドミニスターでもその使い魔でもない!」
「じゃあなんだ、あのふざけた動画は!」
一比古は左手で糸巻きを持ち、右手で糸を引き出した。
がらがらがら!
けたたましい音がして糸は一比古の手を離れ、トリガーに手をかけるヴァイヤーの右手を固定した。
「いいすか社長。裏切り者が新聞社に――」
「この糸をどう説明する? 裏切り者はお前だろう!」
「それは新聞社のみんなの意見ですか」
「私の独断だ。長年の経験にもとづいた」
「じゃあ、間違いだ!」
絶妙のタイミングで携帯が鳴った。それも一比古、ヴァイヤー同時に。
先にヴァイヤーが口を開いた。
「……取るぞ。緊急事態だ」
「分かりました」
自分も携帯電話の通話ボタンを押すと、悠介の悲鳴が耳を貫いた。
「ブラフだった! 畜生ッ、三人とも囮だ! 殺されたんだ、別の『灰色』が!」
「え――」
殺された? 誰が。
三人とも、真夜中新聞社の誰かがついているはずだ。スターンもまだ復帰できないはずだ。なのになぜ。
「だから! アドミニスターは『黒判定』とは別の、まだ『灰色』だったやつを殺して動画をアップしたんだ!」
「一比古、一旦この糸を戻せ」
争っている場合ではない。糸を巻き戻す。
ヴァイヤーがバッグから小型のノートパソコンを取り出し、回線を繋ぎはじめた。帰宅途中のサラリーマンが不思議な顔をしてこちらを見ていた。
「シャイセ! 駄目だ、PHS回線じゃ全然繋がらない。御舟、『ダイブ』の用意だ。今すぐ帰社する! 一比古、堺にもすぐ社に来るよう伝えろ。白峯、アイリス、マツは現場待機! 第二の殺人は絶対に防げ!」
「ここは?」
「プルフラスを強化して守護させる。話の続きは後だ」
「殺さないんですか、俺を」
「二度言わせるな。魔女とは、それ自体は悪ではない。悪魔に誑かされた哀れな人間の成れの果て。救うべき存在なのだ。それがヴァイヤー家の教え」
しかし、アップロードされた画像は、ヴァイヤーの理念を押し潰すほどのおぞましさに満ちていた。
2につづく