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プロローグ 人を裁くな、自分が裁かれないためである(Matthew 7:1) 1

 読者諸兄に忠告。

 この世には分からない事が、多い。

 この世の分からない事は、分からないままにしておくのがよい。

 要領よく生きたいならば。

 世界の裏側を覗き見たいと願えば、死より辛い現実が黒々と待ち構えている。

 それに対して抗議の意を叫ぶ者がいたとしよう。


 世は彼をこう称すだろう。「愚者」と。


 ここに、一人の愚者がいる。名を赤羽一比古という。


 5月の末のいやに肌寒い日、赤羽一比古は叫んだ。

「言いにくいけど、赤羽君のお家は……茗ちゃんの教育によくないわ」

「先生、それは俺が悪いってことかよ!」



 築二十五年、木造アパートの一〇一号室。

「先生はお兄が悪いって言ったんじゃないのに! あんな言いかたないよ」

「いーや! 俺が全部家のことやってるんだから『家が良くない』って言われたら、俺が悪いってことだ」

「それ被害妄想!」

「んなことない! あの教師、人んちの事情も知らないで!」

 今日もまた喧嘩をしてしまった。しかも相手は、茗のクラスの担任だ。

 学校を早退してまで行った三者面談。現れた中学生の「保護者」を見るなり、女性教諭の顔が曇った。そしてあの言葉。

 一比古と妹の父親は、大学の准教授である。フィールドワークと称して全国各地を回っており、一年の半分は家を空ける。その結果がこの八畳間だ。半分が本で埋まっている。父親が各地から集めてきた古書の類だ。

 母親はというと、いない。茗を産んで数年後、死んでしまった。

 なぜか母が死んだ日のことを、一比古は覚えていない。きっと、ショックで忘れてしまったのだろう。

 だから赤羽家は、一比古と茗の二人家族。そう言っても過言ではない。

「あーもう、来週どんな顔してガッコ行ったらいいの! お兄のバカ!」

 茗がちゃぶ台に突っ伏す。

 一比古はいらいらとコロッケを鍋に投入した。油が飛び散る。

「熱ッ!」

「ほーら、バチが当たった」

「うっさい!」

 右手の甲が赤く腫れている。水道水で冷やしていると、茗が救急箱から軟膏を出して塗ってくれた。

「……さんきゅ」

 言い合いはそれでおしまい。

 ちゃぶ台に食器を並べながら、夏期講習は申し込んだのかと茗が言うので、聞こえないフリをした。妹がしつこいのは、全兄妹の決まりごとだ。追いうちをかけてくる。

「どうするの受験! 中卒は許さないからね、私が!」

「高校は行くけど。塾は行かない」

「……お金なら、気にすることないよ?」

 立場が逆だよ、と一比古は思った。

 普通、兄が妹に言うセリフだろ。

「どうせ勉強できないし。塾なんて行くだけ無駄」

「誰に似たのかしら」

「ほんと、誰に似たんでしょうかねえ」

 父親は大学の准教授だし、茗もクラスで常に一、二を争う成績だと、今日担任から聞かされたばかりだ。それこそ茗を塾に入れられたら。私立の、エスカレータ式の小学校に通わせてあげられたら。

 でも、口が裂けても言えない。茗はきっと嫌がるから。

 一比古は頭は良くないし、伸びてはいるけど、身長も百六十センチぎりぎりと、中学三年にしては小さい方だ。運動はそこそこ。友達もそこそこ。

 俺にしかないものって、なんだろうな。一比古はぼんやりと考えた。

 考えを読んだかのように、茗が唐突に言った。

「でも、お兄がキレてちょっぴりスッとした」

「俺は、ちょっぴり後悔しはじめてる」

「遅いよ! お兄の良いところは、へこたれないとこだよ」

「それはあれだな、お兄様をアホだと言いたいんだね?」

「はいはいまた被害妄想~」

と言いながら座布団に座り、茗はテレビのスイッチを入れた。ニュースが流れる。

『都内おもちゃ屋で赤ちゃんの人形ばかりが盗まれるという――』『今月、会社員の女性(25)が、自宅にいるところを何者かに襲われた事件ですが、被害女性は軽症だったものの、精神的ダメージが大きいとして、事情聴取は難航――』

 物騒な世の中だ。

 見知らぬ人に危害を加えようだなんて。とても嫌な感じだ。

「お前も気をつけろよ。一人では帰るなよ。変なやつに声をかけられたら大声を出して、走って逃げるんだぞ」

「……ん」


 その時。

 ザザ、ザザッ。


『逃げようったって甘いんだよ』


 ニュース原稿を読んでいた男性キャスターが言った。

「……え?」

『見つけたぞ、赤羽一比古』

 途端、画面いっぱいに中年の男の顔が大写しになる。

『みぃぃぃぃつけたぁぁぁぁぁぁぞぉぉぉぉぉぉ』

 画面がノイズでぶれ、男の笑みが揺れた。


「いや、な、なにこれ……」

 ずお。テレビから手が突き出した。

 映像じゃない本物の手。とっさに一比古は叫んでいた。

「離れろっ!」

 コロッケを盛った皿を投げ捨て、茗の手を引く。テレビの腕が茗の足首を掴んだ。

「いやあ!」

「茗!」

『はなすかぁぁぁぁぁぁあっ、赤羽ぇぇ』

 次々と生える無数の手。さわさわと茗の体に巻きつき、テレビの中へ引きずりこもうとする。まるで底なしの沼のように、ものすごい力だ。

「お兄、助けて!」

 絶叫が一比古の耳を貫く。手を離したらおしまいだ。絶対に離すか!

 男の上半身が画面から突き出てきた。目を見開いて歯を鳴らす。喉の奥が真っ赤に見えた。一比古に顔を寄せ、

「処刑だぁぁぁぁっ」

と叫んだ。

「うわああああああっ!」

 一比古の手から細い腕がすり抜ける。いとも簡単に。茗が必死に一比古の名を叫びながら、目に涙をためて振り返る。

 口、鼻、目そして頭。

 どぽん。

 茗の姿はテレビの中に消えた。

「茗! 茗!」

 入れ替わりにテレビのふちに手をかけ、男が這い出てくる。男の服は紺のスーツで、一見中年のサラリーマンに見えた。ただ、ぎらつく目が異様だった。テレビから抜け出た男は、背を伸ばし、こう言った。

「お前はぁぁぁなぜ逮捕されるか分かるか」

「め、茗を返せ!」

 力いっぱい声をはり上げているのに、体は勝手に後ずさる。が、本の山に逃げ場をふさがれ、一比古はしりもちをついた。腰が抜けた。

 ふわりと体が宙に浮き、一瞬ののち畳に叩きつけられていた。情けない声が漏れた。

「うあっ!」

 ちゃぶ台がひっくり返る。金縛りにかかったように、指一本動かせない。

 胸が苦しい。息が詰まる。

 男はしゃがみこみ、一比古の耳元で怒鳴った。

「なぜ逮捕されるかって、聞いてるのはこっちなんだぁぁ答えろよぉぉぉぉ!」

「し、知らない! 知らないよ!」

 中年の男は、呆れたようにため息をついた。顔を離すと、立ち上がって、早口で話しはじめた。

「いかなる者であろうと、十分な証拠なしには捕縛したり拷問にかけたりしないのが、我々の掟である。時にその右手はなんだ」


 おかしい。この男、絶対おかしい。

 少し変だとかそういうレベルじゃない。

 目が完全に違うところを見ている。

 狂ってる……一比古は呟いた。男が大声をあげた。

「右手はなんだと聞いているんだ!」

「く、薬塗っただけ――」

「膏薬!」男は嬉しそうに言った。「膏薬の使用、意味不明な独り言。アンリ・ボゲ『魔女論(Discours des sorciers)』第六十二章四項および三十一項に適合するな。さあ、自白しろ」

「なにを――」

 男の指がパチンと鳴る。

「お前が、魔女だと」

 青い光に包まれ、一比古は宙吊りになる。手が勝手に後ろに回った。青い光線は柱のように天井まで伸び、一比古は磔刑の罪人のように吊るされた。

 気を失いそうになる。

 夢だ。これは夢だ。悪い夢。

 こんなこと、起こるはずがない。

 だが次の言葉で、一比古は現実に引き戻された。

「妹は助けてやってもいいぞ? お前が罪を認めれば、な」

「茗はっ、茗はどこに行ったんだ! 助けてくれ!」

「お前が認めれば、戻してやるよ?」

そう言って、男はひひひひひ、と笑った。


 『茗ちゃんの成績はクラスで一番』

 『赤羽君の家は茗ちゃんのためにならない』


 担任の声が蘇る。自分がお荷物になっているなんて絶対に認めたくなかった。でも現実は。大人の言う通りかもしれない。

 俺がいなかったら。

 俺さえいなければ。茗は。


 一比古は声を限りにふり絞った。

「……認める。認めるよ、俺が悪いんだ! だから茗を返してくれ!」

「ファンタスティック! 我らは今、確たる自白を得た。『(ゲオルギウス)のあばら』よ、刑を執行せよ!」

 再びパチンと指の音。青い柱から、鉄の杭が飛び出し、肋骨のようにカーブを描いて曲がる。両開きの戸を閉めるように、杭は軋んだ音をたててゆっくりと迫ってくる。左右に五本ずつ。それぞれ、目、口、喉、心臓、腹を狙っている。

 刺されば痛いだろう。痛みはどれほどか。一瞬で死ぬのか。とても苦しいのか。死。あまりに唐突な死。背筋が鉄の棒を通されたように痛んだ。

 死まであと五センチ。

 人間いつかは死ぬけれど。まだ死にたくない。

 高校に行きたいし、だりぃとか言いながら、クラスメートと下らない話がしたい。昨日観たテレビのお笑い芸人のこととか、ゲームのこととか。そんな、ささやかな日常すら望んではいけないのか。

「嫌だ、やめろ! お願いだから!」

 薄笑いを浮かべ男は冷たく言い放った。

「命乞いとはみっともない」

 死まであと二センチ。

 必死にもがく。杭の先が頬ををかする。火で焼かれたような痛みが走った。これが目に、口に、刺さったら。

 嫌だ嫌だ嫌だ! あんなことを言った担任を見返してやりたい。

 自分に茗を守る力があると証明したい。

 つぎはぎだらけの自分に、ここにいるべき価値が欲しい。

 死まで一センチ。


 ドガッ!


 玄関のドアが蹴破られた。低い女の声。

「アンリ・ボゲだと? なんという時代遅れ!」


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