残照の照らす夜道を行く3
ローテーブルを二人で囲んでお茶を飲む。文字通りの意味でだ。
二つ並んだペアグラスはクリスタルカットのしゃれたデザインのもの。普段使いのコップはみんな使いさしだったので、戸棚の奥から引っ張り出さざるを得なかった。
よく冷えたおーいお茶が喉を潤すと、少し熱を持っていた頭の中の緊張の糸が緩んだ。
ふと思いなおせば、そもそもは二日酔いを醒ますために水を飲もうと思っていたのだった。そうしたら難儀に巻き込まれたものである。
朝は、いっそこれがアルコールの見せる幻覚だったらなあと思いながらペルを見ると。
「そういえば、まだ名前を伺っていませんでしたね。お名前はなんと?」
幻聴ではない、現実の空気の振動が朝の鼓膜に届いた。
美声の表現に、鈴を鳴らしたような、とよく言う。しかしペルの声は鈴は鈴でも風鈴の音のようだと朝は感じた。透き通るような高い声なのに、耳に突き刺さるということが全くない。
朝は相対する自分の声を考えて、喉元まで出かかった声が詰まった。
はっとペルを見ると、片眉をあげて怪訝そうに朝を見つめている。
名前を尋ねて答えがないとなればそんな顔もするか。と、朝は慌てて言葉を紡ぎなおした。
「扇谷。扇谷朝」
ペルは答えに小さくうなずいて、
「では扇谷さん。私をこの家に置いてくださいませんか」
話を、蒸し返した。
「ちょっと待って、ペルさん。いいの悪いのの前にちゃんと説明して欲しい」
どこの誰ともわからない相手を家に置くのを即断できるほど、朝は度胸が据わってもいないし馬鹿でもない。というか、むしろそのあたりの機微はペルの側で斟酌すべきものではないか。これほどに美しく、しかし幼い少女が、名前も知らなかった男の家に居候しようなどというのはやはり尋常ではないだろう。
ならばあるのだ。おそらくはろくでもない理由が。朝はそう思った。
「年下なんだから、呼び捨てで構いませんよ。どうぞペルと」
「なら、ペル。まずいくつか聞かせてもらうけど……今いくつなんだい?」
ペルが迂遠に返したので、朝もまずは無難な質問をする。
「12歳です。向こうだと数えなので13でしたけど」
おおむね印象通りの解答。
「そっか。俺は20歳で、大学の二回生だよ」
大人ですね、とペルが合いの手を入れる。よかった、と小さくつぶやくのも聞こえた。子供だと不都合でもあるのだろうか。
いや、それをこれから聞き出すのだ、と朝は少し気合いを入れて。
「うん。それで、だ。その、『向こう』ってのはどういうこと?」
気負って尋ねた朝に、ペルは変わらぬ調子で答える。
「異世界ですよ。さっきもいいましたけど」
そう。さっきも聞いた話である。だからそれだけ言われてもしょうがないのだ。
朝がそれで、と水を向けると、ペルはこほんとせきばらいして話し始めた。
「たぶん、並行世界のようなものなんです。それも、ずいぶん昔にこちらと分化した世界。確証はありませんけどね。太陽や月の周期とか大陸のおおよその形とか、だいたい一緒だったことから推測するとそんな感じです。人間はほとんどそのままでしたけど、動物や植物は見たこともないようなのがたくさんいました」
こんなに大きなセミとか、とペルは両手を肩幅に広げた。30cmもの大きさのセミは、確かに地球上にはいないだろう。
「もちろん歴史なんかは地球とはまるで違っていて……あ、向こうはだいたい中世後期ぐらいの世界なんですけど。私は、えっと、北の方の小国の生まれで」
お姫様だったんです、と小声で、恥ずかしそうに。
話し方も内容も12歳にしてはやたらと大人びているペルだが、こういうところは夢見がちな少女のようでちぐはぐさを感じる。
「あの長ったらしい名前ですけど、こっち風に言うと、そうですね……雪華北嶺国第一王女、って言ってるわけです」
やっぱりペルも長ったらしいと思っていたようだ、と朝は自分の感性に安心した。しかし、それにしても。
「ペルってのは、なんか最後にそんな響きがあったけど、そこからとってるんだよな?」
朝が訊くと、ペルはそうです、とうなずいた。
「それじゃ名前っていうより役職じゃない? 個人名は別にあるんでしょ?」
ペルは首を振って。
「ありませんよ。あの国では王族には名前が無いんです。分家を作ったり臣籍に降りると名前が貰えますけど、王と王子、王女はみんな番号制です」
ひどい話です、とペルは苦笑いした。あるいは王族を特別扱いしているのかもしれないけれど、だいたい覚えにくいだろうし。後の世で歴史を履修する学生が不憫だ、と○○何世ですら苦労した覚えのある朝は同情した。
そう言うと、ペルはそうかもしれませんねとさらに笑った。
「でも、たぶんテストには出ないから大丈夫です。小さい国だし、それにもう滅びてしまいましたから。せいぜい国名ぐらいが関の山でしょう」
どうやらこのあたりが核心のようだ、と朝は感じ取った。
「王族は私以外みんな死んで、国民もたくさん殺されて。でも、それは歴史の中で消えていった多くの国にありふれたことですよね」
「ただ、普通じゃないことがあった、ってことだよな? ……それが」
「私、ということです。国を追われて逃げる王族は数あれど、異世界に亡命したのは私くらいのものじゃないでしょうか」
なるほど、日本に亡命してきた亡国の王女。確かにレアだ。それも、ウルトラレアのパラレルが印刷ズレしているぐらいの。ヤフオクに出したらどれぐらいプレミアがつくだろうか、と朝は想像を巡らせた。
ちなみに、想像の中でオークションにかけられているのは、目の前の可憐な少女であった。豪壮なホールの壇上に引きだされて、自分を値踏みする視線にさらされ、商品として引き渡される屈辱に頬を濡らす、そんなイメージが浮かんでくる。
朝の不埒な妄想をかきたてたのは、ペルの装いである。ずっと気になっていて、しかし面と向かって問うのははばかられた。しかし、ペル自身の言葉からおおよその事情がつかめるようになった、それは。
「それは、その時にされたもの?」
ペルはうつむいて、ほんの少し首を縦にふった。ずっと聞かないようにしていた音が、ちゃり、と響いた。
朝が向けた人差し指は、ペルの首元。細く白い首筋にはあまりに不釣り合いな、大きく重いにび色の首輪が。そしてその首輪からはやはり金属製の短い鎖が垂れていて、ペルが身じろぎをするたびに首輪とぶつかって音をたてるのだ。
ペルに科せられた縛めは首の一つではない。両の手首と足首にも、それぞれ手枷と足枷が重くのしかかっている。それらは鎖で繋がってこそいないが、その重量だけでも、小さな少女のペルの身体に負担をかけているに違いない。
きっとそれは、ペルの国が滅びたときの悲劇の証。どんなにペルの話が荒唐無稽でも。とても信じがたい、ふわふわと宙に浮いたような不確かなストーリーでも。あの鉄枷たちがペルを地面に引きずりおろして縛りつける。
朝はペルを妖精のようだと感じた。しかし、朝がペルを幻だとは思わなかったのは。
きっとそういうことなのだ。
「いいよ」
え、とペルが顔をあげる。
「都合のつく限りは、ここで暮らしていい」
いいの、と。信じてくれるの、と。
「ああ、信じるさ」
もし異世界とやらが嘘八百でも。ペルに行くあてがないことと、ペルを虐げた人がいたことは間違いない。なら。
「可愛い女の子の一人ぐらい、守ってやるのは男のロマンの内だもんな」
あぁ、と。そのあとは涙声になって聞こえなかったけれど、たぶんペルはありがとうと言ったのだ。泣き崩れたペルの、その心の裡まではまだわからない。追いついてきた恐怖と喪失と、今手に入れた安心と。雪崩のような感情の何もかもを認識するのは、おそらくペル本人にだって不可能なことだと思う。泣かなければ壊れてしまうほどの感情の氾濫が、きっとそこにはあったのだろう。12歳の少女が、ひとりでこんな情動を抱えて、今の今まで泣くことすらできなかったのが、何よりも残酷だと朝は感じた。
ペルが泣きやんだとき、ずっとペルを抱き支えていた朝は、ペルの銀の髪を梳きなでながらささやいた。
「最後に一つ訊きたいんだけど」
左右の目を同じ色なるまで泣きはらしたペルは、枯れかけた喉でうん、と応え。
「ペルは、どうして俺を選んでくれたの?」
少し、困ったような表情で考え込んだ。言葉を探るようにああ、うんと何度も口にして。結局ごめんなさいと言った。
「ここにたどり着いたのは、本当に偶然だったの。あなたと出会ったのもね。でも……」
やはりペルは、重要なことほどさらっとしゃべってしまう性質のようだった。朝は一言一句も聞き逃さないよう、耳に意識を集中して。
ちゅ、とペルの唇がたてた音に驚いて。大事なことを聞き逃した。
「助けてくれたのがあなたでよかった。帰って来てよかった」
最低限、あらすじに嘘付かないだけの内容は確保しました。
おそらくこの作品中のシリアス最高潮。
……つまり、後は落ちる一方ということですが(笑)
これからもご愛顧のほど、よろしくお願いいたします