悪役令嬢を演じたら二人とも殿下はいりません
王太子から求婚されたとき、ミレイユ・ド・ヴァロワは相手の名前より先に、その婚約者の顔を思い出した。
春の大夜会には王都中の貴族が集まり、広間の中央では楽団が次の舞曲を奏で始めている。黄金の燭台から落ちる光の下で、王太子アレクシスはミレイユの手を取ったまま微笑んでいた。周囲の視線が一斉に集まっても、彼はそれを祝福だと疑っていないらしい。
「初めて見た瞬間に分かった。ミレイユ嬢、私はあなたを妃に迎えたい」
「殿下にはモンフォール公爵令嬢という婚約者がおいでです」
聞こえなかったはずはないのに、アレクシスは苦笑して彼女の指を握り直した。公爵家との婚約は幼い頃に決められたものにすぎず、そこには心がないのだという。十年にわたる婚約を三文で片づけた口調には、迷いも後ろめたさもなかった。
「エレオノールとは話し合う。私は王太子だが、自分の心まで国に差し出した覚えはない。あなたも私と踊れば、この出会いが運命だと分かるはずだ」
「申し訳ございません。今夜は踊れる靴ではありませんので」
我ながら苦しい断り方だったが、ミレイユは手を引き抜いて一礼した。踵を返すと靴音を立てずに歩き、広間を出てから裾を持ち上げて走った。踊れないはずの靴は、王太子から逃げる役には十分に耐えてくれた。
三日後、ミレイユはモンフォール公爵邸の応接室にいた。正面に座るエレオノールは深緑の瞳を細め、差し出された王太子直筆の手紙を最初から最後まで読んでいる。便箋は五枚もあったが、要約すれば夜会で語った運命について言葉を替えて繰り返したものだった。
「確認いたします。殿下の求婚を受けるおつもりはありませんのね」
「ございません。お断りしても屋敷へ花と手紙が届きます。父が王宮に返答すれば政治問題になりかねませんので、先にエレオノール様へお話しすべきだと考えました」
「賢明ですわ。花は燃やしても構いませんが、手紙は残しておいてください。証拠になります」
予想外の答えにミレイユが顔を上げると、エレオノールは便箋を丁寧に畳み直していた。怒りを隠しているというより、慣れた事務を処理しているように見える。その手元には同じ筆跡の手紙が三通置かれており、宛名だけがすべて異なっていた。
「二年前は伯爵夫人、昨年は隣国の大使令嬢、その前は王宮楽団の独奏者でした。いずれも殿下が真実の愛を見つけたとおっしゃり、先方が拒むか王妃陛下が止めると元の婚約へ戻ってきました」
「それでも婚約を続けてこられたのですか」
「王太子妃になるため十年を費やしましたから、その努力を捨てるほうが無責任だと思っておりました。けれど私が耐えるたび、殿下は許されたと学んだのでしょうね」
エレオノールはそこで初めて笑ったが、楽しさによるものではなかった。婚約を解消したいだけなら公爵家から申し入れられる。しかし王太子が一時の迷いだったと言い張れば、悪者にされるのは嫉妬深い婚約者と誘惑した令嬢であり、彼だけは恋に不器用な青年として残る。
「そこでミレイユ様にお願いがございます。殿下が思い描いた女性を、徹底して演じていただけませんか」
「殿下が思い描いた私とは、どのような女性でしょう」
「王太子に愛されたことを権利だと思い、婚約者を追い出そうとする強欲な令嬢です。世間でいう悪役令嬢というものですわね」
ずいぶんな役を頼まれたものだとミレイユは思ったものの、不思議と腹は立たなかった。エレオノールの計画では誰かを傷つけたり、物を壊したりする必要はない。すべての嫌がらせは公爵令嬢本人の協力を得て行い、目撃者と記録を残すことになっていた。
「目的は殿下が私の訴えだけであなたを責めるか、あなたの言い分を確かめるかを見ることですか」
「半分は正解です。もう半分は、あの方に選んでいただくためです。王太子として国との約束を守るのか、恋する男性としてあなたを選ぶのか。どちらを選んでも責任だけは負っていただきます」
「どちらも選ばなかった場合はどうなさいます」
「そんな器用な逃げ道があるなら、私も十年前に教えていただきたかったですわ」
四月最初の茶会で、悪役令嬢ミレイユは誕生した。王太子が見守る前でエレオノールの席へ近づき、そこは自分のために用意された席だと言い張ったのである。実際には前夜に二人で席札を入れ替えており、事情を知る侍従長が遠くから成り行きを見守っていた。
「エレオノール様には別のお席がふさわしいのではなくて? 殿下のお隣は、殿下が望む者に譲るべきでしょう」
声が裏返りそうになるのをこらえ、ミレイユは扇を広げて顎を上げた。エレオノールは見事な演技で唇を引き結び、反論せず末席へ移る。その瞬間、アレクシスはミレイユのために椅子を引き、満足そうに彼女を座らせた。
「エレオノールもようやく立場を理解したようだ。あなたは何も遠慮することはない」
「ですが殿下、あのお席はもともとエレオノール様のものではありませんでしたか」
「席順など私が決めればよい。あなたを不快にさせるほうが問題だ」
質問は一度だけと決めていたため、ミレイユは微笑んで茶杯を手に取った。向かい側に座った王妃セシリアがこちらを見ている。眉一つ動かさないものの、扇の骨を指先で二度叩く様子から、この振る舞いを快く思っていないことは伝わった。
二度目は春の離宮で開かれた音楽会だった。ミレイユはエレオノールのドレスに果実水をこぼしたふりをし、空になった杯を床に落とした。中身は直前にエレオノールが自分で裾へ垂らしており、ミレイユの杯には最初から何も入っていない。
「まあ、エレオノール様。わたくしの前へ急に出ていらっしゃるから」
「私は動いておりません。ミレイユ様が杯を傾けたのではありませんか」
「わたくしを嘘つきだとおっしゃるの?」
エレオノールがアレクシスに視線を向けると、彼は濡れたドレスよりミレイユの震える肩を気にした。床に落ちた杯の位置も、近くにいた給仕の証言も確かめないまま、婚約者に謝罪を命じる。その理由はミレイユが泣きそうだからというものだった。
「殿下、わたくしは事実を申し上げただけです」
「エレオノール、あなたはいつも正しさを振りかざす。少しくらい譲る優しさを持てないのか」
「承知いたしました。ミレイユ様、申し訳ございません」
頭を下げられたミレイユは勝った顔を作りながら、自分の爪が手袋に食い込むほど拳を握った。これが芝居でなければ、エレオノールは何度も事実を奪われてきたことになる。王太子のいう優しさとは、彼が調べる手間を省くために一方が黙ることらしい。
三度目の嫌がらせはエレオノールから贈られた首飾りを壊す計画だったが、ミレイユは実行を断った。物には罪がなく、細工師の仕事を芝居のために損なう必要もない。代わりに留め具の外れた模造品を用意し、エレオノールが嫉妬から壊したという筋書きへ変更した。
アレクシスを呼び出したミレイユは、掌の上に切れた首飾りを載せた。彼はエレオノールから事情を聞こうともせず、すぐに新しい宝石を贈ると約束する。そこでミレイユが公爵令嬢を罰してほしいとねだると、彼はためらいながらも王太子妃教育の中止を口にした。
「では、婚約も解消してくださいますか」
「もちろんだ。父上と母上には私から話す。あなたほど純粋な女性を傷つける者に、この国の妃は務まらない」
「エレオノール様が否定なさったら?」
「あなたの言葉を信じる。愛とはそういうものだろう」
ミレイユは返事の代わりに首飾りを握りしめた。愛とは一人の言葉を信じ、もう一人の言葉を聞かないことではない。そう告げるのは簡単だったが、今ここで正体を明かせば、彼は騙された被害者へ戻ってしまう。
王太子が婚約解消を申し出たのは、五月の王国議会が閉じた日のことだった。国王夫妻、公爵夫妻、ヴァロワ伯爵、そして当事者三人が白百合宮の会議室へ集められた。アレクシスは中央に立ち、エレオノールがミレイユに重ねた非道な行いを語り始めた。
席を奪われた話ではミレイユが被害者となり、果実水の件ではエレオノールがわざと進路を塞いだことになった。首飾りに至っては嫉妬に狂った公爵令嬢が引きちぎったという。いつの間にか話は派手になり、ミレイユ本人でさえ初めて聞く悲鳴や罵倒まで付け加えられていた。
「以上の理由から、エレオノールとの婚約を解消し、ミレイユを新たな婚約者とする許可をいただきたい」
「ミレイユ嬢、今の話に相違はありませんか」
国王アンリに問われ、ミレイユは椅子から立った。隣ではエレオノールが背筋を伸ばしている。二人は互いを見ず、事前に決めた順序どおり証拠を卓上へ並べ始めた。
「相違がございます。席札を入れ替えたのはわたくしです。果実水はエレオノール様がご自身でドレスに垂らしました。首飾りは細工師に作っていただいた模造品であり、最初から留め具を外してありました」
「何を言っている。エレオノールに脅されているのか」
「いいえ。すべてエレオノール様と相談して行った芝居です。こちらに計画書、使用した品の明細、立ち会った侍従と侍女の署名がございます」
アレクシスは書類を取り上げ、ページをめくるうちに顔色を失った。日付も手順も記されており、それぞれの出来事の後には王太子の発言まで添えられている。最後に置かれた三通の手紙は、エレオノールが保管していた過去の求婚騒ぎの記録だった。
「殿下を試したと申すのか。王太子を謀る行為が、どれほど無礼か分かっているのか」
「分かっております。ですから処罰を受ける覚悟で、この場へ参りました」
「責任は私にございます」
ミレイユの言葉にエレオノールが続き、公爵家の権限を利用して計画したと認めた。ところが国王は処罰を命じず、王太子に一つずつ質問を始めた。席順を確認したか、給仕から証言を得たか、壊れた首飾りを調べたか。そのすべてにアレクシスは答えられなかった。
「では、お前は何を根拠にエレオノール嬢との婚約を解消しようとした」
「私はミレイユを信じました。愛する者の言葉を疑うなどできません」
「そのために十年を共にした婚約者の言葉は聞かなかったのですね」
王妃の問いは穏やかだったが、アレクシスは答えずに唇を結んだ。やがて何かを思いついたように顔を上げ、ミレイユとエレオノールを交互に見る。その瞳へ戻った自信に、ミレイユは嫌な予感を覚えた。
「確かに私は早まった。しかし今回の件で、二人がそれぞれ異なる資質を持つと分かった。エレオノールには王太子妃としての知識があり、ミレイユには私が忘れていた情熱を思い出させる力がある」
「殿下、何をおっしゃりたいのですか」
「どちらかを選ぶ必要などなかったのだ。エレオノールを正妃とし、ミレイユを第二妃として迎えよう。そうすれば公爵家との盟約も守られ、私の愛も偽りにはならない」
誰もすぐには口を開かなかった。国王は額を押さえ、王妃は閉じた扇を膝に置く。ヴァロワ伯爵は立ち上がりかけたが、娘に手で制されて椅子へ戻った。
「第二妃を置くには正妃の同意が必要ですわ、殿下」
「だからエレオノールに頼んでいる。あなたなら国のために受け入れられるだろう」
「お断りいたします」
エレオノールは即答し、十年を費やした婚約そのものについても解消を願い出た。王太子妃教育で得た知識は国のために使うが、それはアレクシスの妻にならなくてもできる。今後は公爵家の外交顧問として西方諸国との条約改定に携わりたいと、すでに父から許可を得ていた。
「感情的になるな。あなたが正妃であることは変わらない。ミレイユより上の立場も保障する」
「わたくしが求めているのは、彼女より上の椅子ではございません。事実を確かめ、誤りを認め、決めたことに責任を負える方と働くことです。殿下の隣にその椅子はないと分かりました」
アレクシスは助けを求めるようにミレイユへ向き直った。エレオノールは役目に縛られて頑なになっているだけで、愛を選べるミレイユなら分かってくれるという。その言葉を聞き、彼が二人の話を何一つ理解していなかったことだけは疑いようがなくなった。
「ミレイユ、あなたは私を愛しているからこそ、危険を冒してまでエレオノールの本性を暴こうとしたのだろう。正妃の件は時間をかけて説得する。まずは私の求婚を受けてほしい」
「お断りいたします」
「恐れることはない。父上も皆の前で認めてくださる」
「陛下の許可を恐れているのではございません。初めてお会いした夜から、殿下の求婚を一度も受け入れておりません」
ミレイユは王太子から届いた五枚の便箋を取り出し、彼の前へ返した。そこに書かれていたのは運命の相手の優しさ、純粋さ、慎ましさであり、どれも一度踊りを申し込んだだけの相手から知れることではない。彼が愛したミレイユは、断らない都合のよい女性として作り上げた幻にすぎなかった。
「では、なぜ私のそばで笑っていた」
「芝居です。わたくしが何をしても殿下が許すので、途中から笑わずにいるほうが難しくなりましたが」
王妃が扇で口元を隠し、国王は咳払いを一つした。エレオノールの肩がわずかに揺れている。ここまで無表情を保ってきた彼女まで笑っていると気づき、ミレイユもようやく悪役令嬢の顔を捨てた。
国王はその日のうちに婚約解消を承認し、王太子の公務を停止すると告げた。廃嫡については議会と協議したうえで決定されるが、少なくとも事実確認を学び直すまで重要な判断を任せることはできない。アレクシスは反論しようとしたものの、国王から自分の発言記録を読むよう命じられ、書類を抱えて会議室を去った。
白百合宮を出ると、夕暮れの回廊に長い影が伸びていた。ミレイユは隣を歩くエレオノールへ頭を下げ、果実水の染みがドレスから落ちたか尋ねた。公爵家の侍女が処置したため跡は残らなかったが、あの色は二度と選ばないという。
「ミレイユ様は見事な悪役令嬢でしたわ。最後の一言だけは台本にございませんでしたけれど」
「事実を述べただけです。それにエレオノール様も笑っていらしたでしょう」
「否定はいたしません。ところで、これから王都で悪評に耐える覚悟はできていますか」
計画を公表すれば王太子を試した不敬な令嬢と呼ばれ、伏せれば公爵令嬢を虐げた悪女の噂が残る。どちらにしても社交界で穏やかに暮らすのは難しい。ミレイユはそれを承知で協力したのだが、エレオノールは鞄から一枚の任命書を取り出した。
「西方との条約改定には、羊毛と織物に詳しい補佐官が必要です。ヴァロワ伯爵から、あなたほど適任の者はいないと推薦をいただきました」
「いつの間に父とそのようなお話を?」
「首飾りを壊す案が模造品へ変わった頃です。物の価値と作り手の仕事を考えられる方なら、数字だけを追う役人より信頼できますもの」
差し出された任命書には、モンフォール公爵家外交顧問補佐としてミレイユの名が記されていた。半年後には西方の織物産地を巡り、現地の商人と取引条件をまとめることになる。王太子の寵愛より、こちらのほうが彼女の望む将来に近かった。
「お受けします。ただし一つ条件がございます」
「伺いましょう」
「今後わたくしを囮にする計画を立てるときは、最初から報酬についても相談してください」
「まあ。悪役令嬢は欲深いものですわね」
二人は顔を見合わせ、今度こそ声を抑えずに笑った。背後の白百合宮では、一人の王太子が二人の女性に断られた理由を考え始めているはずだった。答えにたどり着く日が来るかどうかまで、彼女たちが待ってやる義理はなかった。




