第9話 皇帝の正体
私の屋敷は、嵐の前の静けさに包まれていた。
マリアが淹れてくれたハーブティーの香りが、リビングに漂う。
平和だ。
このまま一生、この時間が続けばいいのに。
「……リーゼ。覚悟はできているか?」
向かいの席で、ジークが書類を片付けながら言った。
彼はいつものラフなシャツ姿ではなく、どこから出したのか、仕立ての良い漆黒の軍服に身を包んでいる。
その肩には、皇帝を示す「双頭の鷲」の紋章。
「覚悟? 二度寝の?」
「とぼけるな。……来るぞ。今度は『軍』だ」
ジークの視線が鋭くなる。
その言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。
ズズズズズズ……。
地響き。
コップの水面が揺れる。
前回の比ではない。
これは、数百人の足音ではない。
重戦車級の質量が迫ってくる振動だ。
『警告。敷地境界線に高エネルギー反応。王城クラスの戦略兵器を検知』
脳内のセキュリティシステムが、最大級の警戒レベル(レッドアラート)を告げた。
「……はぁ」
私はカップを置き、深いため息をついた。
しつこい男は嫌われるって、王立学園の教科書に載せるべきね。
「行きましょう、ジーク。私の『退職』を認めないブラック上司に、引導を渡してあげなきゃ」
◇
テラスに出ると、光景は一変していた。
屋敷を包囲しているのは、騎士団ではない。
国境警備軍、約一〇〇〇名。
そして先頭には、巨大な砲門を備えた魔導戦車が三台。
その中心で、カイル王太子が剣を振り上げていた。
『リーゼ・フォン・アルメリア! 貴様の悪事はすべて露見したぞ!』
カイルの声が、拡声魔法で空気を震わせる。
『貴様は、我が国のシステム情報を隣国へ流した! 先日のシステムダウンも、貴様がスパイとして仕組んだ破壊工作だ! これは国家反逆罪である!』
「……スパイ?」
私は首をかしげた。
情報の漏洩?
していない。
ログを見れば、私がただ「更新しなかった」だけなのは明白だ。
論理が破綻している。
『問答無用! 反逆者には即時の死を! 魔導砲、充填開始!』
カイルが叫ぶ。
戦車の砲門が、唸りを上げて青白い光を帯び始めた。
あれは、王城の結界すら貫く攻城兵器だ。
私の屋敷の結界でも、防ぎきれるか怪しい。
「……あの馬鹿。ここが国境付近だってわかっているのか?」
隣でジークが低い声で呻いた。
こんな場所で戦略級魔法をぶっ放せば、余波が帝国領土に届く。
それは即ち、宣戦布告だ。
「マリア、農耕一号を盾に……」
私が防御指示を出そうとした、その時。
「待て、リーゼ。……ここからは、私の仕事だ」
ジークが、私を庇うように前に出た。
黒いマントが風に翻る。
「ジーク? でも、あれは……」
「下がっていろ。……私の『未来の妻』に、指一本触れさせるものか」
彼は低く、しかし戦場全体に響き渡るような「王の声」で告げた。
彼は手すりに足をかけ、虚空へと踏み出した。
落下しない。
見えない階段があるかのように、彼は空中に立ち、眼下の軍勢を見下ろした。
その瞬間。
空気が凍りついた。
魔法ではない。
圧倒的な「格」の違い。
生物としてのランクの差が、本能的な恐怖となって一〇〇〇人の兵士を縛り付けたのだ。
『な、なんだ貴様は!? リーゼの情夫か!? 構わん、撃て! 一緒に吹き飛ばせ!』
カイルだけが、恐怖に気づかずに叫んでいる。
「……撃てるものなら、撃ってみろ。カイル・フレデリック・アルメリア」
ジークが静かに言った。
拡声魔法など使っていない。
なのに、その声は戦場の隅々まで届き、鼓膜ではなく魂を震わせた。
「その砲撃が放たれた瞬間、アルメリア王国は地図から消滅するぞ」
『は、はったりを言うな! たかが一人の人間に……』
「総員、抜刀!!」
ジークが右手を掲げた。
ザッッッッ!!
森の中から、無数の影が現れた。
黒い鎧に身を包んだ、帝国の精鋭騎士団。
その数、五〇〇。
彼らは音もなく展開し、王国軍の背後を完全に包囲していた。
そして、空には飛竜部隊。
屋敷の周囲は、瞬く間に帝国の支配領域へと変わっていた。
『な……て、帝国の紋章!? なぜこんなところに……!?』
カイルが狼狽して後ずさる。
ジークは銀髪をかき上げ、冷徹な瞳で告げた。
「私は、ガルディア帝国皇帝、ジークフリート・レオンハルト・ガルディアである」
『こ、皇帝……!? あの「氷の皇帝」が、なぜ敵国の、しかも追放令嬢の屋敷に……!?』
「敵国? 認識を改めろ」
ジークは私の方を振り返り、片手を差し出した。
「彼女は、我が国の『国賓』だ。……いや、それ以上だな」
彼はカイルに向き直り、嘲笑を浮かべた。
「貴様は、彼女を『怠惰』だと言って捨てたそうだな。……愚か者め。彼女の才能は、資源の乏しい我が国において、金貨一億枚にも勝る価値がある」
「……一億枚?」
私が小声で突っ込むと、ジークは真顔で頷いた。
「彼女の構築した自動化システム、物流管理、そしてこの安眠結界……。これらを導入すれば、我が国のGDPは三年で倍増する。それを『無能』と断じて追放するとは……貴様の目は節穴か? いや、眼球がついているだけの飾りか?」
痛快な罵倒。
カイルが顔を真っ赤にして震えている。
反論できないのだ。
実際に、彼の国は今、システムダウンで崩壊寸前なのだから。
「彼女はスパイではない。私が、正規の手続きでヘッドハンティング(引き抜き)したのだ。……なぁ、リーゼ?」
ジークが私を見た。
その目は、契約を迫る悪魔のように、甘く、魅惑的だった。
「リーゼ・メルクリウス。我が国に来い」
彼は空中から舞い降り、私の前で跪いた。
まるで、騎士が姫に愛を誓うように。
「君専用の研究所を用意しよう。予算は無制限だ」
「……ふむ」
「優秀な部下を一〇〇人つけよう。君が指一本動かす必要はない。君のアイデアを形にする手足となろう」
「……魅力的ね」
「そして何より」
ジークは私の手を取り、その甲に口付けた。
「君の睡眠時間を、私が法律で保証する。一日一〇時間……いや、一二時間でも構わない。君が安らかに眠れるよう、私が全力で国を守り、環境を整えよう」
ドキン。
心臓が跳ねた。
愛の言葉?
いいえ、そんな薄っぺらいものではない。
これは「魂の救済」の提案だ。
「君がまどろんでいる間に、世界は私が平和にしておく。だから、君は私の隣で、ただ安心して寝息を立てていればいい」
「……ジーク」
私は彼を見つめた。
過労で死にかけた前世。
無能扱いされて追い出された今世。
そんな私を、「怠けている君こそが至高だ」と肯定してくれる人が、かつていただろうか。
答えはイエスだ。
今、目の前にいる。
「……条件があるわ」
私は震える声で言った。
「なんだ? 言ってみろ」
「枕は。……枕は、最高級のホワイトグースダウンじゃなきゃ嫌よ」
「約束しよう。世界中から最高の羽毛を集める」
「シーツはシルク一〇〇%」
「当然だ。肌触りにはこだわろう」
「……採用」
私は彼の手を握り返した。
「貴方を、私の『永久就職先』として認定します」
「交渉成立だな」
ジークが立ち上がり、私の腰を抱き寄せた。
そして、呆然としているカイルたちに向かって宣言した。
「聞いたな? 彼女はこれより、未来の『帝国皇后』となる。手出しは一切無用。……文句があるなら、この場で国ごと焼き払うが?」
『ひっ……!』
カイルが腰を抜かし、馬から転げ落ちた。
兵士たちが一斉に武器を捨てる。
勝負ありだ。
「さあ、行こうかリーゼ。……私の城へ」
「ええ。……でもジーク、一つだけ問題があるわ」
「なんだ?」
「荷造りが面倒くさいの」
「……ははっ!」
ジークは声を上げて笑った。
氷の皇帝とは思えない、少年のような笑顔だった。
「安心しろ。屋敷ごと転移させる。……私の魔力すべてを使ってな」
こうして。
私の「辺境ニート生活」は終わりを告げた。
代わりに始まるのは、隣国の皇帝に溺愛され、全力で甘やかされる「皇后ニート生活」である。
ランクアップにも程がある。
私はジークの腕の中で、勝利のあくびを噛み殺した。




