第5話 潜入した皇帝と『完全安眠結界』
午後三時。
人類に許された、もっとも贅沢な時間がやってきた。
私はリビングの長椅子に深々と沈み込み、窓の外を眺めていた。
窓ガラスは『遮光・遮熱結界』で多重コーティングされており、直射日光を柔らかな間接照明へと変換している。
「……完璧ね」
私は紅茶を一口すする。
温度は六五度。猫舌の私に最適化された温度だ。
現在の室温、二四度。湿度、五〇%。
さらに、微弱な音波で脳波をα波へと誘導する『環境音楽結界』も稼働中。
ここはもはや、ただのリビングではない。
私が前世の知識と今世の魔法技術を総動員して作り上げた、
『完全安眠結界』
の内部である。
ここでは、怒りも、焦りも、労働意欲も、すべてが強制的にデトックスされる。
ただ「眠る」ことだけが許された、約束の地。
「ふわぁ……」
あくびが出る。
マリアは地下でワインの在庫管理をしている。
誰もいない。静かだ。
このまま二度寝……いや、三度寝に突入しようとした、その時。
『警告。第一層・認識阻害結界、突破されました』
脳内のセキュリティ音声が、無機質に告げた。
「……は?」
私は眉をひそめた。
突破?
あの結界は、認識そのものを滑らせる仕組みだ。
物理的な破壊なら感知できるが、警報が鳴ったということは「結界を認識した上で、正しく扉を開けた」者がいるということだ。
「……面倒なお客様ね」
私は体を起こそうとして、やめた。
起き上がるのが面倒くさい。
どうせここ(リビング)に入ってくれば、タダでは済まないのだ。
私はクッションを抱きしめ直して、ドアの方を見た。
数秒後。
バンッ!!
重厚なマホガニーの扉が、乱暴に開け放たれた。
「……ここか。異常な魔力源の中心は」
低い、地を這うような男の声。
そこに立っていたのは、長身の青年だった。
黒い軍服風の外套。
月光を固めたような銀髪。
そして、私を射抜くような、凍てつくアイスブルーの瞳。
その瞳の奥には、幾何学模様の光(魔眼)が揺らめいている。
美形だ。
絵画から抜け出してきたような、圧倒的な「主人公オーラ」がある。
腰には剣を帯びている。
ただ、一つだけ残念な点があった。
目の下のクマが、酷い。
肌は青白く、頬はこけ、目は血走っている。
まるで、三徹(三日徹夜)明けのシステムエンジニアのような、濃密な「死相」が漂っている。
「貴様が……この屋敷の主か」
男が剣の柄に手をかけた。
殺気。
空間がビリビリと震えるほどのプレッシャー。
普通の令嬢なら、この威圧だけで失神しているだろう。
「……誰?」
私は寝転がったまま尋ねた。
「不遜な態度だな」
男はズカズカと部屋に入ってきた。
靴音が荒い。
「私はガ……いや、ただの旅人だ。この近辺で異常な魔力干渉と、経済撹乱が起きていることを調査しに来た」
旅人?
嘘おっしゃい。
その服の生地、国宝級の魔獣の革でしょう。
それに、その立ち振る舞い。ただの権力者ではない。
まあ、どうでもいいけれど。
「用件はそれだけ? なら帰って。私、これから寝るの」
「寝るだと? 武装した男を前にしてか?」
男が眉間の皺を深くした。
彼は警戒心を剥き出しにして、さらに一歩、私の方へ踏み出した。
その瞬間。
彼が、私の『完全安眠結界』の有効射程圏内に入った。
「貴様、何のつもりで……国境に……こんな……」
男の言葉が、途切れた。
彼の足が止まる。
険しい表情が、ふっと緩んだ。
張り詰めていた肩の力が、糸を切られた人形のように抜けていく。
「……な、んだ……これは……」
男がよろめいた。
剣を握る手が震えている。
この空間では、交感神経(興奮・緊張)は強制的にシャットダウンされ、副交感神経が優位になる。
長年張り詰めていた糸ほど、切れた時の反動は大きい。
ましてや、彼のように限界まで疲労を溜め込んでいる人間には――。
「体が……重い……いや……軽い……?」
男の目が、とろんと虚ろになる。
彼は抗おうとした。
必死に首を振り、理性を保とうとしている。
「幻術、か……? ええい……どけ……私は……まだ……確認しなくては……書類が……承認印が……」
ああ。
可哀想に。
「働かなきゃいけない」という強迫観念(呪い)が見えるわ。
前世の私と同じだ。
カフェインと責任感だけで体を動かしている、悲しき社畜の末路。
「いいのよ」
私は優しく声をかけた。
「もう、頑張らなくていいの」
その言葉が、トドメ(トリガー)になった。
「あ……」
男の膝が折れた。
彼はそのまま、スローモーションのように前へと倒れ込む。
ドサッ。
彼が崩れ落ちたのは、私が寝ている長椅子の足元。
ふかふかのムートンラグの上だった。
頭が、ちょうど私の足首のあたりに乗っかる。
「……」
ピクリとも動かない。
死んだか?
いや、規則正しい寝息が聞こえる。
気絶ではない。熟睡だ。
それも、数年ぶりの泥のような眠り。
「……なんだ。ただの迷子の子猫ちゃんじゃない」
私は呆れて息を吐いた。
警戒心バリバリで乗り込んできて、勝手に癒やされて寝る。
迷惑な客だ。
とりあえず、リスク管理はしておこう。
私は指先を動かし、魔法(念動力)で彼の腰から剣を抜き取った。
重い。
これを、部屋の隅へふわふわと移動させる。
ついでに、服のあちこちに仕込まれていた短剣も全て没収。
「よし、これで無害化完了」
追い出す?
面倒だ。この巨体を動かすなんて重労働はしたくない。
それに、この死にそうな顔を見ていると、なんとなく親近感が湧く。
過労死寸前の人間を叩き起こすほど、私は鬼ではない。
「マリアが帰ってきたら、つまみ出してもらおう」
私はテーブルの上にあった予備のブランケットを、魔法でふわりと浮かせて、男の背中に掛けてやった。
「おやすみ、名も知らぬ社畜さん。……私の足をよだれで濡らさないでね」
私は男の頭――月光のような銀髪の感触を足先で少しだけ楽しみ、再びクッションに身を沈めた。
静寂が戻る。
見知らぬイケメンと添い寝(?)することになったが、まあ、ラグの上なら邪魔にはならないだろう。
私もまた、心地よい眠りの波へと落ちていった。
まさかこの男が、大陸最強と謳われる「氷の皇帝」であり、この惰眠がきっかけで国家規模の求婚を受けることになるとは。
今の私は、まだ夢にも思っていなかったのである。




