第2話 廃屋敷
ガタゴトと揺れ続けた馬車の旅が、ようやく終わった。
十日間の座りっぱなし生活。
腰が爆発しそうだ。
お尻の感覚もない。
「……到着いたしました、リーゼ様」
御者台からの声。
私は重いまぶたを擦りながら、窓の外を覗いた。
そこには、絶望が立っていた。
「…………」
言葉が出ない。
目の前にあるのは、かつて「領主館」と呼ばれていたであろう残骸。
屋根は半分崩落し、窓ガラスは一枚もない。
壁には不気味な赤紫色の蔦が血管のように絡みつき、庭は背丈ほどの雑草が生い茂る魔窟と化している。
『お化け屋敷』
その六文字が、脳内で点滅した。
「……想定以上に、終わっていますね」
先に降りた侍女のマリアが、元暗殺者らしい冷静な声で呟いた。
彼女はトランクを下ろすと、悲壮な決意を込めて腕まくりをした。
「お嬢様は馬車でお待ちください。私が、寝室だけでも確保してまいります」
彼女の手には、箒と雑巾が握られている。
その目は「徹夜」……いや、「三日三晩の不眠不休」を覚悟していた。
私は戦慄した。
手作業?
今から?
この広さを?
「待ちきれないわ、マリア」
私は馬車から飛び降りた。
ヒールが腐った雑草を踏みしめる。
「えっ、お嬢様!? 埃まみれになります、お下がりください!」
「いいえ、下がるのは貴女よ。……見ていられないわ」
私は傾いた玄関の前で立ち止まる。
中を覗くと、巨大な蜘蛛の巣のカーテンと、床を埋め尽くす埃の積層が見えた。
これを人力で掃除するなど、人生の浪費だ。
その時間で何回二度寝ができると思っているの。
「掃除なんて労働、私が排除するわ」
「は……?」
私は右手を掲げた。
脳内で、愛用の統合開発環境を開く。
通常の魔導師なら、ここで『風よ、塵を払え』などと詠唱し、大量の魔力を消費して埃を舞い上げるだけだろう。
非効率極まりない。
必要なのは、複合プロセスによる完全な浄化だ。
私は虚空に指を滑らせ、術式を記述する。
検索(Search): 対象範囲内の「有機汚れ」「カビ」「害虫」「劣化建材」。
風属性(Wind): 吸引・剥離。
水属性(Water): 高圧洗浄・研磨。
火属性(Fire): 瞬間乾燥・滅菌。
土属性(Earth): 破損箇所の充填・構造補強。
動力源は、地下五十メートルを流れる地脈に直結。
私の魔力は使わない。コンセントから給電する。
「術式展開。……『全自動清掃・完全版』」
パチン。
私が指を鳴らした、その瞬間。
シュオオオオオッ!!
屋敷全体が、目に見えない奔流に包まれた。
窓から黒い粉塵の塊が、砲弾のように吐き出され、空中で霧散する。
気味の悪い蔦がシュルシュルと枯れ落ち、崩れた屋根瓦がビデオの逆再生のように組み上がっていく。
割れた窓枠には、土中の珪素を再構成した透明度一〇〇%のガラスが嵌め込まれた。
所要時間、一五秒。
嵐が収まると、そこには新築同然……いや、王城の離宮のように輝く白亜の洋館が建っていた。
「……え?」
マリアの手から、箒がカランと落ちた。
彼女は絶句し、屋敷と私の顔を交互に見ている。
「さ、入りましょう。換気も済ませておいたわ」
私はスタスタと、ピカピカになった玄関ホールへと足を踏み入れた。
床は大理石のように磨き上げられている。
これなら、頬ずりしてもいいレベルだ。
「あ、ありえません……! これほどの規模の物質修復と浄化を、無詠唱で……!? これでは、国家予算レベルの公共事業を一瞬で終えたことに……!」
マリアが震える声で追いかけてくる。
「大げさね。ただの『一括置換』よ」
しかし、問題はまだある。
「……寒いわね」
屋敷の中は綺麗になったが、気温は外と同じだ。
辺境の夜は冷える。
それに、森に近いせいか湿気もひどい。
「すぐに暖炉の準備を!」
「いいえ、マリア。薪割りも灰の処理も面倒だわ」
「で、ではどうすれば……」
「環境を設定すればいいのよ」
私は再び指先を動かす。
屋敷の敷地境界線に、不可視の膜を設定。
設定温度:二四度(春の陽気)。
設定湿度:五〇%(快適)。
空気清浄機能:オン。
害虫侵入防止:オン。
「『環境制御結界』、起動」
ブン、と低い音がして、空気が変わった。
肌にまとわりつく湿気が消え、柔らかな暖かさが満ちる。
高原の風のような、爽やかな空気が循環し始めた。
「こ、これは……高位精霊の加護!? いえ、結界術の応用……? この規模を常時展開するなど、魔力が枯渇して死ぬはずでは……!?」
マリアがその場に跪き、床を撫で回している。
目にはうっすらと涙が。
よかった、彼女も掃除や薪割りから解放されて嬉しいのね。
「これでやっと眠れ……」
『ガアアアアアアアッ!!』
『グルルルル……!』
突然、窓の外から空気が震えるほどの咆哮が響いた。
近い。
森の方だ。
「ッ! 魔狼の群れです! それに、あのアークベアの唸り声も……!」
マリアが瞬時に短剣を抜き、殺気を放つ。
「お嬢様、下がってください! ここは魔境の入り口……血の匂いを嗅ぎつけたようです!」
うるさい。
非常に、うるさい。
「……マリア、武器をしまいなさい」
「ですが! このままでは窓を破られます! 私が囮になって……」
「安眠妨害よ」
私の声は、絶対零度まで冷え込んだ。
睡眠導入前のリラックスタイムに、野犬の遠吠えなど不要。
断じて許容できない。
「彼らに『ここは存在しない』と思わせればいいだけのこと」
私は三つ目の術式を組む。
対象は、屋敷を中心とした半径五キロメートル。
光の屈折率操作による視覚遮断。
音響振動の完全相殺。
そして、精神干渉による『認識阻害』。
「『静寂領域』」
世界から、音が消えた。
咆哮も、風の音も、虫の声さえも。
窓の外を見ると、巨大な熊のような魔物が、屋敷の方へ突進してくるのが見えた。
マリアが息を呑む。
だが。
ズルッ。
魔物は屋敷の手前数メートルで、何もない空間にぶつかるように方向を変えた。
キョロキョロと周囲を見回し、「あれ? 獲物は?」という顔をして、そのまま森へ帰っていく。
「見えていない……? いえ、認識そのものが滑っている……?」
マリアの手が震えている。
「これは……王都の城壁を超える防御強度……それを、寝るためだけに……?」
「これでよし」
私は満足げに頷いた。
静かだ。
温度も完璧。
清潔さも最高。
これで、誰にも邪魔されない「理想の寝床」が完成した。
「マリア、二階の一番日当たりのいい部屋を私の寝室にするわ。トランクから『人をダメにするクッション(試作三号)』を出して」
「……は、はい! 直ちに!」
マリアは弾かれたように動き出した。
その背中には、以前よりも強烈な忠誠心(と若干の恐怖)が滲んでいる気がする。
数分後。
私は、運び込まれた巨大なビーズクッションに、背中からダイブした。
「ふあぁ……極楽……」
体が沈み込む。
完璧な室温。
無音の静寂。
ここはもはや廃屋ではない。
私の城だ。
ぐぅ。
お腹が鳴った。
そういえば、ここには食材がない。
「……明日の課題は『食料調達』ね」
私は思考を放棄した。
明日のことは、明日の私が効率的に処理するだろう。
今はただ、この完璧に調整された空調の中で、泥のように眠りたい。
「おやすみなさい、お嬢様……最強の、ご主人様」
マリアの呟きを子守唄がわりに、私は意識を手放した。




