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第四話 蟹川沙紀(かにかわ・さき)

 蟹川沙紀はファミレスに来ていた。テーブルごとに柱や壁で仕切られた半個室。夕飯には遅い時間だが、客席はほぼ満員で、部活帰りの中高生が宿題をやっていたり、子連れの家族がやかましく過ごしたりしている。


 沙紀は四人掛けのテーブルに一人でぼんやりと座っており、目の前には食後に出されたコーヒーが所在なさげに湯気を立てている。沙紀は遠くを見つめて、これまでの出来事を思い返していた。




● ● ●




 夫はずいぶん前に死んだ。娘が十歳のときだった。


 兆候はあった。体調が悪い日がたびたびあった。仕事を優先する夫に何度も休むよう伝えたが、聞き入れてもらえることはなかった。当時は専業主婦だったこともあり、文句は強く言えなかった。


 倒れて入院し、悪性腫瘍が見つかってからは早かった。数か月で別人のように痩せこけ、治療も効果が見られないまま、あっという間に死んでしまった。


 駆け落ちの末に結婚したこともあって頼れる人はいなかった。だから、娘のために自分がしっかりしなければならないと思った。




 不幸中の幸いにも夫が買った家は残った。保険金もそれなりにもらうことができた。それで当面の生活には困らなかったが、娘の将来に備えて働きに出ることにした。


 仕事はなかなか見つからなかったが、パートタイムで働きながら簿記の資格を取り、正社員として経理の仕事をするようになった。


 娘が中学校に通う頃には、自分一人の稼ぎだけでもなんとか生活が成り立つほどになった。


 娘が高校で怪我をさせられたときは流石に心配したが、中退してやりたいことが見つかるまでゆっくり過ごせばいいと思っていた。


 だから、あの日は嬉しかった。




 たしかあの日もこのファミレスのこの席だった。娘が話したいことがあると言ってわざわざ自分を連れ出した日。


 娘は高校を中退して五、六年が経っていた。バイトをして過ごす中で好きな男でもできたかと思い内心そわそわしていたものであるが、彼女の口から告げられたのは、まったく予想していなかったことだった。


 今でもその席で弾けるように話し出した娘の姿を鮮明に思い出すことができる。




『お母さん、あのね、私、バーチャル配信者のオーディション受かっちゃった!』


 当時の沙紀にはバーチャル配信者というものが何であるか全く分からず、詐欺にでも遭いかけているのではないかと大変心配した。


 よく聞いてみれば、インターネットでお絵かきをする配信活動をしていたが、声や雑談を褒められたので、そういうことを専門でやっているタレント会社のオーディションを受けたのだという。あれよあれよという間にオーディションが進み、気が付けば大した労もなく受かってしまったらしい。




 たしかに昔から趣味でイラストを描いていたのは知っていたし、カフェのメニューや本屋のポップを描かせてもらったという話は聞いていたが、まさかそんなことをやっていたことは知らなかった。親である沙紀にバレないよう深夜にこっそりやっていたそうである。




 定食が届いたのも構わず、娘は活動について熱く語り続けた。


 アニメーションするイラストを本人として活動するため顔を出す必要がないこと。バイト代を貯めているので活動開始の軍資金は自分でなんとかできること。会社からある程度の給料も出ること。最初はイラストとお喋りで活動するが、歌やダンスなどにも活動の幅を広げる素地が会社にあること。ぜひこの挑戦を沙紀にも応援してほしいと思っていること。




『絶対後悔させないから!』


そう言われても、沙紀としては馴染みがなさすぎて判断が付かなかった。とはいえ、娘の進みたい道が決まったのである。それに、娘がこんなにも本気の眼差しを向けてきたのはこれまでにないことだった。だから、良いと思うのならやってみると良い、と言ってその判断を信じることにした。


『ありがとう!! 私、頑張るから!』


満面の笑みでそう宣言する娘を落ち着かせ、すっかりぬるくなっていた定食を一緒に食べた。定食は冷めきっていたにも関わらず、やけに美味しく感じられた。




● ● ●




 沙紀は、ギュッと目を閉じてから数度瞬きをして現実に焦点を合わせた。


 一人きりのファミレス。食後のコーヒーが湯気を立てている。一口飲んだが、味がしない。いや、実際は味があるはずだった。


 沙紀は娘の死後、味覚障害を患っていた。ストレス性のものだろうと診断され、薬を処方されているが、改善の気配はなかった。




 とはいえ、食感と温感だけでものを食べたり飲んだりするのにはもう慣れた。一年も続いているのだ。最初は焦りなどもあったが、今ではその焦燥感も薄れている。


 沙紀は温かいだけの黒い水を飲み干し、セルフのお冷をドリンクバーまで取りに行った。席に戻ってバッグから漢方薬を取り出し、お冷で飲み下す。




 沙紀はテーブルの上の封の開いた薬袋を見て、長めの溜息を吐いた。


 沙紀本人としては、娘の死はもう乗り越えたつもりだった。娘が亡くなった直後はもちろん悲しかったし、落ち込んだりもした。


 だが今ではこれまで通り仕事も続けているし、家事も完璧である。今日だって、娘の元同僚と一緒に墓参りに行き、その後も楽しくカフェで歓談したのだ。味覚障害が治らない理由が無い。それなのにどうして味がしないのか。




 店内のBGMが変わり、凪野みなもの『水面の太陽』が流れ始めた。店の雰囲気に合うよう、ゆったりとしたテンポにアレンジされたものだ。


考えても仕方がないと思い、沙紀は会計を済ませて店を出た。




● ● ●




 家に着くと、娘の中学の時の同級生と遭遇した。今日は同窓会のイベントがあったそうで、十五年前の娘が書いた手紙を持ってきたのだという。


 彼女は娘の死を知らなかったようで動揺していたが、高校以来娘との関係が切れていたようなので仕方ないだろう。




 沙紀は彼女を落ち着かせて帰らせたあと、家に入る前にポストを確認した。すると、見慣れない送り元からの封筒が投函されていた。


 差出人は臓器移植管理委員会。


「有希の……」




 昨年事故に遭った娘は即死ではなかった。頭を打っていたが、数十分後に病院に搬送された際には微弱ながら呼吸はあった。


 しかし気管挿管後しばらくして、自発呼吸が停止した。その翌日、数回の脳波検査で平坦脳波であることが確認され、脳死と判定された。


 


 娘が身に着けていたパスケースには、臓器提供意思表示カードが入っていた。沙紀も運転免許証の裏で意思表示を行っているが、免許証も持っていない娘がわざわざ取り寄せていたことには驚いた。


 脳死判定後すぐに臓器を提供するかどうか確認を迫られたときには頭が真っ白になったが、娘がそうしたいと思って持っていたのだからと思って承諾した。




 臓器の摘出手術は迅速に行われた。戻ってきた娘の遺体には喉元からへその下あたりまで一本の傷跡ができていた。そのほかには特に凹んでいるところや欠けているところなどはなく、安らかに眠っているような顔をしていた。


 沙紀は不意に娘の背中の傷のことを思い出して泣いた。涙が止まらなかった。




 その後は告別式や火葬の準備などがあり、臓器提供のことは頭から遠ざかっていった。参列者は娘の会社の社長や社員、近しい同僚だけだったが、それでも一人で色々な準備を整えるのは大変だった。


 無事娘を空に送って一息ついた頃には、臓器提供に関わる事柄はすべて終わったものと思い込んでいた。




 そう思っていたが、封筒が届いた。家に入って封筒の中を確認すると、サンクスレターというものらしい。臓器移植を受けた人から提供元の遺族へ、個人情報を伏せた形で感謝の気持ちを伝える手紙だそうである。


 手紙を読むと、重度の心疾患があった十代の女の子のようだった。心臓移植を受け、予後も良く快復したこと。病気で学校には行けなかったが高卒認定試験を受けること。美大に進学したいと考えていること。ドナーの方には本当に感謝してもしきれないと思っていること。その他色々なことがぎっしりと書かれていた。




 ありがたい手紙だったが、沙紀の表情は変わらなかった。最後まで読んで、手紙を封筒に戻すと、さきほど受け取った十五年前の娘の手紙の上に重ねて置いた。


 一緒にお焚き上げしてもらおうという心づもりである。娘の元同僚にもメールを送った。今度お焚き上げをするから、もし何か送りたいものがあれば教えてほしい、と。




 沙紀はそのままリビングのソファに腰かけてテレビをつけた。毎月サブスクしている動画配信サイトを開いて、興味が持てそうな番組がないか探す。


 しかし、上から下まで全部の作品を眺めてみても、見たいものは特になかった。


 仕方がないのでテレビ番組を適当に映した。バラエティ番組だった。都市伝説は本当に実在するのか検証するらしい。今回はお盆スペシャルということで、お盆にあった不思議な体験談を検証するそうである。深夜の街をスタッフが駆け回っている様子が映し出されている。




 沙紀がぼんやりとテレビの画面を見続けていると、さきほどコーヒーを飲んだにもかかわらず、瞼が重くなってきた。思考も徐々に止まり、テレビの音声が何を言っているのかも分からなくなる。


 夢と現実の狭間のまどろみ。心地良い眠気に身を任せるまま、沙紀は意識を手放そうとした。




 そのとき、玄関の方で音がした。




 ビクッと体が緊張して目が覚める。何かが落ちたような音ではない。金属製の玄関のドアに何かがぶつかるような音だ。それも、虫などが当たった軽いものではなく、質量のある音。当然来客ではあるまい。酔っ払いが扉を殴ったりしたのだろうか。




 また音がした。




 沙紀は音をたてないようにそっと体を起こした。恐る恐るリビングから顔を出して玄関の方をうかがう。玄関のドア横の擦りガラスからは、人影らしいものは見えない。沙紀はゆっくりと静かに玄関に向かった。早くなる呼吸を深呼吸して抑えつつ、ドアスコープから外を覗いた。




 誰もいなかった。


 が、地面に白いものが見えた。猫だ。


 沙紀は玄関のドアを開けた。毛並みの良い白猫が行儀よく座っている。そしてその白猫の前に子猫の三毛猫もいた。生後どれくらいかは分からないが、もぞもぞと動いている。


 親子なのだろうか。沙紀が疑問に思っていると、親猫と思われる白猫が、子猫の首根っこをくわえた。そして躊躇なくひょいと玄関から家の中に上がり込み、沙紀のスリッパの隣に子猫を置いた。


 じゃ、そういうことで、と言わんばかりに沙紀を見上げると、にゃおんと鳴いて一目散に走り去ってしまった。




 残されたのは、何が起こったのか分からず目を白黒させている沙紀と、細い声で鳴く子猫。


 ひとまず沙紀は玄関のドアを閉め、子猫を拾い上げた。嫌がる様子はないが、よく見るとかなり痩せている。原因は不明だが体の震えもあり、このままだと子猫の健康が怪しい。というか命も危ういと思われる。


 仕方がないので夜間に診察してもらえる動物病院を探したが、自転車で行ける距離にはなさそうだった。タクシーなら行けそうなところは見つかったが、お盆で休診しており、もはや自分でなんとかするしかなさそうだった。




 沙紀は子猫にノミがいないことを確認すると、毛布に包み、まだ解体していなかった段ボールに入れた。


 そしてそのまま自転車に飛び乗り、二十四時間営業のスーパーで子猫用ミルクと総合栄養食のペーストフードを購入。すぐに帰宅して湯を沸かす。


 湯が冷めるのを待つ間に子猫の臀部を刺激して排泄させる。下痢は無い。


 冷めた湯にミルクの粉を溶かし、熱すぎないか確認。哺乳瓶もスポイトもないので、ストローで代用する。口元に持っていくと、子猫はチビチビとミルクを飲み始めた。試しにペーストフードを指の先に乗せて与えてみると、こちらもペロペロと舐め取って食べた。


 どちらを優先すべきか分からなかったので、とりあえず子猫が満足するまで交互に与えることにした。




 しばらくの給餌の後、子猫はお腹がいっぱいになったのか、ミルクやペーストフードに見向きもしなくなった。頼りない足取りで段ボールの中をのそのそと動いている。


 そして、ドカ食いしたからなのか、すぐに寝てしまった。


 最初にあった震えは止まっていた。低血糖だったのかもしれない。安心はできないが、ひとまずできることはやった。




 沙紀はこの子猫の処遇について考えていた。野良猫から子猫を託され、咄嗟の判断で餌を与えてしまったが、順当にいけばこれは自分が飼うべきなのだろう。


 道端の捨て猫ならいざ知らず、家の中で鳴いている痩せた子猫を外に放り出して見殺しにするのは流石にあり得ない選択肢だった。つまりあのとき助ける以外の選択肢は無く、親猫は策士だったということだ。


 仕方がない。これも何かの縁である。生前の娘は猫を飼いたいと言っていたが、本人は猫アレルギーなので飼うことができなかった。沙紀には特にアレルギーなどはないので、その点においても問題は無かった。




 沙紀は毛布の上でのびのびと爆睡する子猫を見た。野良でお腹を空かせていた割に毛並みはそこまで悪くないように見える。明日動物病院へ連れて行って健康そうなら風呂に入れようと思いつつ、沙紀は子猫の背を撫でた。




 すると刺激で目が覚めてしまったのか、子猫は体を起こすと段ボールをよじ登り始めた。だが深めの段ボールを登りきるほどの腕力やジャンプ力はまだないようで、失敗してはコロコロと転がっている。


 そこで沙紀が毛布を段ボールの縁にかけて斜面を作ると、そこを伝って外に出てきた。キョロキョロと辺りを見回し、よちよちと徘徊した後、座っている沙紀の腿の上でくるりと丸くなった。ちょうど良い温度なのだろうか。




 このままでは動けないので沙紀が子猫をそっと持ち上げると、じたばたと暴れた。腿の上に戻すと、スッと落ち着く。ここが良いらしい。いくら盆休みとはいえ、もう遅い時間なのでそろそろ寝る準備をしたいところだったが、寝るにはもう少しかかりそうだった。




 動けないので明日の動物病院について調べていると、仮名であっても保護猫の名前がある方が望ましいとのことだった。病院での混乱を避けるためらしい。


 沙紀は自分の腿の上でウトウトしている三毛の子猫を眺めた。仮名で良いならミケとかチビとかコロみたいなもので十分だろう。だが、今後飼うとなると、それなりの名前を考えておいた方がいいかもしれない。




 シンプルな方が猫の覚えが良いらしいが、無個性なのも気になるところだ。かといってジェリクルキャッツたちのような個性的すぎる名前は呼びにくいし覚えてもらえなさそうである。


 白猫の子だから白子とかはどうだろう。ダメに決まっている。三毛から連想してミケランジェロ。これもダメだろう。難しい。仕方なく猫の名前ランキングを見てヒントを探ろうとしたが、どれもしっくり来ない。




 どうしたものか、と悩んでいると、部屋に飾ってあった招き猫が目についた。夫が存命だったときからあるもので、珍しく家族旅行に行った際のお土産として買ったものだった。


 安直と言えば安直だが、幸福や幸運から連想してラッキー、縮めて、ラキはどうか。自分や娘の名前ともなんとなく近い雰囲気を感じる。悪くはなかろう。




 沙紀は再び眠ってしまった子猫を毛布の上にそっと移した。今度は起こさないように毛先だけ触れるようにして撫でる。


「お前はラキだよ」




 沙紀は子猫のそばから離れた。餌の片づけを済ませて寝る用意をしたい。そう思ったところで、手の指に乾いたペーストフードがくっついているのに気が付いた。猫が食べて問題ないのだから人間が食べても問題なかろう。沙紀は舌先でペーストフードを舐め取った。


「……ん?」


 味があった。流石に何かの間違いだろうと思って、ペーストフードが入っていたパウチに残っていたものを少しだけ取って口に含む。


 やはり、味がある。まったりと魚の風味が効いていて塩気などが全く感じられない、ペット専用に調整された味。


「まっず!」


 久しぶりに味覚で感じた味は、人生で最も不味かった。

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