第三話 鯛浦稔(たいうら・みのる)
薄暗く狭い部屋。室内にはソファ、四角いテーブル、大型のモニタ、そして、マイクを握りしめ熱唱する一人の男性。
お盆の夜に一人でカラオケに籠るこの男性。名は鯛浦稔という。中肉中背で、Tシャツにジーパンという楽な恰好。年は三十前後に見える。一見して特筆することはなく、どこにでもいる一般男性のようなルックスである。
だが一般男性にもそれなりに悩みはあるもので、したがって稔にも悩んでいることがある。それは、バーチャル配信者のグッズを捨てるかどうかということだった。
実は稔には付き合って半年になる恋人がいる。恋人にはまだ自分がオタクであることは隠しており、自宅にあるグッズ部屋などは知られていない。しかしながら、近々同棲を開始しようという話になり、さすがに隠し切れなくなるため、これまでに集めたグッズを処分するかどうか迷っているのだった。
恋人はオタクではない。少なくともこれまでそんな話は聞いたことがない。というか、どちらかというとオタクに対して良い印象を持っていないと思われる。そんな相手に、自分がグッズ部屋を持つほどのオタクだと知られたらどうなるか分からない。一気に破局もありえる。それは避けたかった。
それに、稔自身、グッズを処分することに今はそこまで否定的なわけではなかった。稔が最推しだった配信者は昨年急逝したことによって活動を終了しているからである。
凪野みなも。明るい水色の髪に眩しい金の瞳。柔らかい声質と明朗な口調。稔の最推しだった配信者。稔がしんどい時期に彼女の配信に助けられて以来、ずっとファンとして応援してきた。
だが、みなもの死去によって、推し活は熱が引いた。今でもアーカイブを見返すことはよくあるが、そこまで熱心に執着しているわけでもない。
未練をすっぱり断ち切り、恋人との未来を作っていくことに集中するのがベストなのではないのか。しかし思い出のグッズを手放すのもまだ気が引けるところがある。そんな葛藤が稔の中に渦巻いているのだった。
だから、今日はストレス発散のためにカラオケに来た。恋人も地元に帰省しているということで、一人でモヤモヤした思いを整理するにはちょうど良かった。
稔はテーブルの上のタッチパネルを操作して歌う曲を入力した。
『水面の太陽』
凪野みなもの最初のオリジナル曲だ。作詞も彼女が担当している。派手でポップな電子音と早めのテンポで構成された、ライブ映えする可愛い曲。歌詞もパンチが効いていてでファン人気が高い。AメロBメロに続き、稔は一オクターブ下の音程でサビを熱唱する。
♪ 受け取って私の乱反射 この煌めきは君のもの 凪の水面に姿を映して
♪ 思い出して君の核融合 その輝きは消えぬもの 愛の居場所の彼方を目指して
♪ 君が照らす先をずっと見てるよ ずっとだよ
稔は数年前まで大学の研究室に所属していた。一生懸命やっているのに成果が上がらず、教員との中も険悪になり、就活もうまく行かず、家族に余命宣告者が出た。限界だった。そんなとき、みなもの配信に出会った。この曲に出会った。
救われた、と感じた。もちろん勝手な妄想である。勝手に感動して勝手に救われただけである。だがそのおかげで、折れずに済んだ。無事に研究成果を上げ、就職も決まり、家族との別れもしっかり済ますことができた。
歌う声に乱れが混ざり、視界がじんわりと霞む。世話になった。本当に世話になったのだ。もしも彼女がいなかったら、彼は廃人になっていたかもしれない。稔は震える声でなんとか歌い切った。目元をぬぐってオレンジジュースを一口含み、次の曲に備える。
『スイセン』
これも凪野みなも作詞の曲である。ゆったりと清らかな雰囲気の曲調で、みなもの素朴な歌い方がよく合っている。代表曲としてあげられることは少ないが、稔自身はかなり気に入っていてよく聞く曲だ。
♪ 水面に映る君を好きになる 君も君を好きになれ
♪ 自惚れるくらいでちょうど良い 胸を張って好きになれ
♪ スイセンの花になっても君が好きだよ 私のそばで咲いていて 純白の君
ナルキッソスの物語になぞらえた歌詞が重いというファンもいるものの、自分に自信が無かった稔が勇気をもらった一曲である。
職場や恋愛関係でいつも自分はダメなやつだと思っていたところ、推しからエールをもらった気持だった。自意識過剰といわれても否定できないが、この曲があったから恋愛にも一歩を踏み出せたし、それが今の恋人にもつながっている。
『東の水平線』
凪野みなもの最新曲である。これは彼女自ら作曲まで手掛けたという。シンプルだが力強く、民謡風の仕上がりになっている。雰囲気としてはあまりバーチャル配信者らしくないと言われることも多いが、彼女の持つ世界観を感じられて良いという評も根強い。
♪ 海の向こう 魂の街 想い走れよ 朽ちぬ記憶に
♪ 空の向こう 古の君 歌よ届けよ 遥かあの日に
♪ 軽やかに超えていく水面 全てを運び 流れて消える
まるで歌詞の通り、この曲のリリース後すぐにみなもはいなくなってしまった。もちろん他意は無いのだろうが、ファンとして不謹慎なドラマ性を感じずにはいられなかった。稔は再び熱くなりかけた目頭を押さえ、ジュースで喉を潤した。
『土砂降りラブリー❤エブリデイ』
みなもの曲で一番有名なのはこの曲だろう。略称は「しゃぶりぶりぶり」である。スピード感のあるEDMに合わせて、全身フルトラッキングのみなもがキレキレのダンスを踊る動画がネットで話題になった。今でもインフルエンサーたちが各種SNSで踊ってみた動画を投稿しているほどである。
♪ 今日も明日も明後日も 土砂降りびしょ濡れカーニバル
♪ どこもかしこも冠水よ 私は支配者絶対者(ロイヤルミルクティーを寄越しなさい★)
♪ しぶきを跳ばせ 波紋を散らせ 濁りが晴れぬ間にもう一回
♪ でも側溝には気を付けてね❤
直球の電波ソングである。凪野みなもという名前とは正反対の、荒れ狂う嵐の曲だ。ぽプでキッチュな感じが人気を博している。カラオケで男性が歌うのは少し気恥ずかしい気もするが、稔は振り付けも完璧である。
土砂降りラブリー❤エブリデイを歌い終え、稔は小休止することにした。オクターブ下げて歌っているとはいえ、喉は強い方ではない。
ドリンクの補充から戻ると、ソファにどっかりと腰かけた。SNSを眺めていると、亜月こおりが配信で凪野みなものことを話しているという投稿を見かけた。
亜月こおりといえばみなもと仲が良かった配信者の筆頭である。仲の良い二人のやり取りを見て、稔も大変尊い活力をもらったものだ。
彼女はみなもの死後、みなものことをほとんど語らなかったが、話しているということは彼女の中で何か変化があったのだろう。稔は動画アプリを開いてこおりのチャンネルに飛んだ。
彼女は、みなもの動画を視聴者に布教しているところだった。早口で楽しそうにみなものことを語る彼女は、公言していたとおり、本当にみなものファンだったのだろう。さっぱり喪が明けた、という風だった。
同じファンとして、つい配信を見入ってしまい、小休止のつもりが、気が付けばカラオケの終了時間になっていた。
稔はドリンクを飲み干して帰途に就いた。グッズを捨てるかどうかはまだ分からなかった。
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夜道は人通りが少なかった。国道沿いから細い生活道路に入ると、もはや人っ子一人いなかった。お盆の夜くらいは人も御霊も家でくつろいでいるということだろう。
みなもの魂も帰っているのだろうか。そんなことを考えながら、稔はワイヤレスイヤホンを装着した。
夜歩きは好きだった。人々の生活の気配や匂いが、そこかしこに漂っている。イヤホンで外界の音をシャットアウトして、自分の世界に浸りながら歩く。流すのはみなもの曲。歌声なしのチルいリミックスバージョンだ。
自宅マンションまで十数分の時間を満喫していると、恋人からメッセ―ジが届いた。地元の同窓会が終わり、実家に帰ったという連絡だった。聞けば、酔って帰り路を裸足で走り、転んで怪我をしたそうだ。
珍しいこともある。酒好きなのは承知していたが、酔った勢いで奇行に走るようなことは今までに見たこともないし、失敗談を聞いたこともない。
何か特別なことでもあったのかと尋ねると、在りし日の記憶を思い出して感情が爆発したらしい。普段からクールというか、あまり大きな感情表現をしないタイプだと思っていたため、そういった出来事を自分に話すこと自体、新鮮なことのように感じられた。
稔が相槌のメッセージを返すと、すぐに新しいメッセージが送られてくる。今日はそういう気分なのかもしれない。
そう思っていた矢先、恋人から通話したいとメッセージが来た。滅多にないことに、自然と家に向かう足が早まった。家はその角を曲がってすぐそこである。
そしてまさに稔がその角に差し掛かったそのとき、一瞬だけ何かに頭を押さえつけられた。何事かと思って慌てて頭上を確認する稔のすぐ脇を、およそ生活道路で出すべきではないスピードの乗用車が走り抜けていった。稔は排ガスの臭いに顔をしかめた。
「……あぶな」
かすっただけでも大怪我間違いなしだった。恋人からのメッセージとイヤホンからの音楽に気を取られて、命まで取られるところだった。
改めて確認すると、塀の上に白猫がいる。どうやら塀から塀に飛び移る際の足場にされたようである。褒美を取らせたいところだが、あいにく稔には何の持ち合わせもない。
今度から猫用おやつを持ち歩いておくようにしようと思いつつ、猫に軽く会釈してその場を去った。
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帰宅した稔は着替えもそこそこに、恋人に通話をかけた。
「おつかれ、麻里奈さん、怪我は大丈夫そう?」
『うん、ちょっと擦り剥いただけだから。ごめんね、急に通話したいとか言って』
「こういう機会あんまりないし、むしろ嬉しいよ」
稔たちカップルは、マッチングアプリで知り合った。お互いに結婚を意識する年齢となったため、なんとなく始めたものだ。
会ってみて、信頼はできそう、顔や年収などの条件も悪くない、というところから深く考えずに付き合った。いつも週末に義務のように予定を立て、結婚までのマイルストーンをしめやかに置いていく関係。
だから、自然と話したいことがあって通話をかけるという今回の機会は、なんなら半年付き合って初めてだった。
波風立たない関係に投じられた一石なのである。
『稔くんはさ、昔から稔くんだった?』
「それは、昔から今みたいな雰囲気だったかってこと?」
『うん、昔から真面目な感じで、読書と旅行が好きだった? 稔くんはいつから今の稔くんになったか知りたいと思って』
「そうだなあ。小学校の頃から嘘をつくのは苦手だったかな。悪いことするのも、あとでバレたり大事になったりするリスクを考えて何もしないタイプだったよ。先のことを考えて今の行動を決定するって意味では、そのときから真面目なのかもしれないけど、単純に面倒ごとを避けたい気持ちからくる面倒くさがりの真面目かも」
ふんふん、と相槌を打ちながら聞いていた麻里奈がさらに質問を投げる。
『趣味とかはどう? 昔は好きだったけど今は違うものとかある?』
「……読書は小学校の頃から好きだったよ。魔法使いの学校のやつとか分厚いファンタジー系の小説が好きだったな。今でも本はジャンル問わずよく読むし、続いている趣味かな。あと旅行は大学のときに日本各地を巡って好きになったと思う。知らない土地に知らない人たちの歴史と生活があって、それを覗かせてもらう感じが好き」
『なるほど……』
納得したのかしていないのか曖昧な返事をする麻里奈に、稔は問いかけた。
「麻里奈さんはどう? 今日は同窓会に行ったって言ってたけど、何か当時から自分が変わったと思うことあった?」
『あー、うん、えっと……』
麻里奈はしばらく唸っていたが、観念したように話し始めた。
『今日、中学の時に埋めた当時の手紙を受け取ったの。十五年後の自分宛ての手紙ね。実家に帰ってから読んだんだけど、今の自分とあまりにも断絶しててびっくりしちゃった。……実は私、中学の頃すごいオタクだったんだよね。今の私に対して、作家として名を上げている頃でしょう、とか書かれてるの。普通に広報部の社畜なのにね。……でも当時は私の文章が良いって言ってくれてた友達もいて、そのときは本気で思ってた。だから、なんで忘れてたんだろうって』
「……どうして?」
『高校入ったとき、高校デビューしたんだよね。流行りのものを追っかけて、みんなが良いって言うものだけ取り入れるようになっちゃった。自分の頭じゃなくて世間の声を聞いて動いてた。それで、なんていうか、今すごく目が覚めた気分』
「目が覚めた?」
『周りの雰囲気とか流行を追うの良いと思うんだけど、無意識にそれをするようになってたんじゃないかって。友達と切れたときはたぶんそうだった。今も影響されやすい方だと思うし……、世間でこれが正しい、ってなったらそれ信じがちというか……。だから、もし今日同窓会に行って昔のことを思い出さなかなかったら、ちょっとした世間の風潮で、自分で考えもせずに簡単に稔くんと別れることもあったんじゃないかって思って』
「なるほど……」
稔は平静を装いつつ、内心では驚愕していた。たしかにこれまでどこか作り物のような感じがするというか、話していても、なかなか餡子にたどり着かないアンパンを食べているようだと感じていた。だからようやく餡子を食べた気持ちだった。
『それでね、また小説を書いてみようと思ってる』
「……いいね。読ませてくれたりする?」
『……いいよ。中学の時のも特別に今度持って行ってあげるね』
「それはめっちゃ楽しみ!」
『絶対キモいよ……。ちょっとだけ覚えてるもん』
「でもよく考えたら中学の頃の麻里奈さんに触れられるってすごいな。良い趣味だと思う」
そして稔は良い感じの雰囲気に便乗した。
「実はさ、こっちにも麻里奈さんに言ってない趣味があって……」
『へえ、さっき嘘をつくのが苦手って言ってたのに?』
「う、うん、ごめん。実は、……バーチャル配信者のオタクなんだよね」
『……え』
「……」
『……』
さすがにこれはまずかったかと思い、冷や汗が噴き出す。ビッグウェーブに乗ったつもりで話してしまったが、よく考えれば麻里奈の趣味は割と一般的な小説書きである。配信者のオタクはやはり印象が良くないのではないか。
麻里奈は少しだけ間を置いた後、
『……ふふ、キモいね』
と言い、こう続けた。
『今後も引き続き、いや、今後はもっとよろしくお願いします』
稔はグッズを処分することを決意した。三十歳の夏だった。




