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君のラジオと、最後のメッセージ

作者: RISE

「ねえ、今日のテープは何色?」とあやが訊く。窓際の席であおいは胸ポケットをまさぐり、照れ笑いを返す。

「青だよ。《for あや》って書いたから」と彼は言った。蒼の声はゆっくりで、録音の中では町の匂いや夕焼けが水彩画のように滲んでいた。

図書室での一期一会が、ふたりの物語の始まりだった。彩が落とした栞を拾ったのが蒼で、そこからレンガの小道、屋上、喫茶「便箋びんせん」の二階がふたりの舞台になった。

「ラジオやろうよ」と蒼が提案したのは、ある雨上がりの放課後だった。彼は古いラジオ機器を抱えて、「夜にこっそり誰かの耳元で呟きたい」と言った。

最初は冗談だと思っていたが、蒼の瞳の奥の本気を見て彩は賛成した。友人のユウが基板を弄り、クラスのケンが配線を手伝う。放課後の教室が、いつしか小さな送信所になった。

「今日の三つのありがとう」——蒼の番組の定番コーナーだ。小さな出来事を拾っては感謝を並べる。誰かの夜に寄り添う短い話が、じわりと人々の心を温めていった。

或る夏、蒼が倒れた。病名は希少で、説明を受けると世界が一瞬だけひっくり返るようだった。病院の明かりは白く、廊下は長かった。蒼は点滴の管を揺らしながら笑っていた。

「最後のシリーズ、やるから」蒼は言った。彩は「ふざけんな」と叫んだ。怒りと悲しみと恐怖が混ざり合った叫びだったが、蒼はただ首を傾げて小さく笑った。

病室での会話は筆談と小さなジェスチャーが増えた。蒼はメモに『ありがとうを集める』と走り書きし、彩はその意味を一つずつ拾っていった。

ネットに誰かがアップしたテープは、やがて波紋のように広がった。「眠れました」「母が笑った」——届く手紙は彩を励ますと同時に、蒼にも生きる意味を与えた。

「見てよ、コメント。『祖母が最後に笑いました』って」蒼が震える声で見せるスマホの画面。彩はその文字を見て、胸が熱くなるのを感じた。

病状が進み、蒼は声を失った。言葉が出なくなっても、彼はメモで番組構成を描き、彩が代わりにテープを編集して放送を続けた。ふたりの放送は、やがてリスナーの参加で豊かになっていく。

「もし、僕が先に行っても、続けてくれる?」蒼は紙にそう書いた。彩は涙でにじむ字を見つめ、固く頷く。「ずっと、届ける」

蒼の最期の日、窓の外は白い光に満ちていた。彼の指は冷たく、手の中の最後のテープには『ありがとう』が何度も収められていた。彩はその一語が世界を支える小さな光のように思えた。

葬儀の後、彩は亡骸の隣にあった小さな箱を開ける。それは便箋と未送信のメール、古い写真、そして未編集のテープで満ちていた。放送を止める選択肢は最初からなかった。

「私が代わりにやる」彩は決めた。最初の数週間は震える声でリスナーの手紙を読み上げ、たまに蒼の録音を挿した。手紙には笑いと涙が交互に並び、彩の胸は毎晩ひりついた。

ある日、レコード会社のディレクターが現れる。「もっと広げませんか? プロの手でアレンジして…」魅力的な条件だったが、彩は言う。「蒼の声の質感を壊したくないんです」。彼女は断った。

「でも、社会に出せばもっと多くの人に届く」とディレクター。彩は答える。「それでも、私たちの色で伝えたい」。その決断は賭けだったが、彼女は譲らなかった。

放送はじわじわと広がり、地方の図書館や老人ホームで真似されるようになった。ある町では、放送をきっかけに学校と福祉施設が交流を始め、子どもたちが手紙を書いて老人に渡すイベントが生まれた。

リスナーの一人、タカシは便箋に書いた。「父と気まずくて二年間話してなかったけれど、あなたの放送を聴いて『ごめん』と言えた。父が泣いたんだ」。彩はその手紙を咥えるように抱きしめた。

ある晩、放送室のドアが静かに開いた。小学生の女の子とその母親が、目を潤ませて立っていた。女の子は小さな声で言う。「お姉さんの放送で、母にごめんって言えたの」。彩は膝を崩し、二人を強く抱きしめた。

数年が経ち、アニメ制作会社が接触してきた。制作陣はラジオの声とテクスチャーを映像に落とし込むことを提案し、EDには「愛唄」のカバーが挙がった。彩はスタジオで初めて完成映像を観て、息が止まるほど泣いた。

「音楽が映像を包む瞬間に、人の記憶が呼び覚まされる」と監督が言った。確かにカバー曲は、原曲の温度を保ちながら、物語の静けさをそっと抱きしめた。

放送とアニメが同時に波及すると反響は大きくなり、SNSには「泣いた」「家族で観た」「地元で放送始めました」といった報告が溢れた。中には、放送を元に地域おこしを始めた小さな商店街もあった。

彩はときどき、蒼が作った原稿を読み返す。走り書きの言葉や、雑に描かれた海のスケッチ。あるスケッチの隅に《また会おう》と書かれているのを見つけ、彼女は笑った。

ライブイベントの日、彩は舞台袖で浴衣の布切れを握る。それは蒼と交換した小さな約束の証だ。ステージのライトが眩しく、心臓が破裂しそうになる。だが彼女は深呼吸して歌い始める。

「君が笑った日々に、ありがとう」歌詞を口にするたびに客席からすすり泣きが聞こえる。歌い終えた瞬間、ホールは長い拍手に包まれ、彩は胸の中にあった重みが少し軽くなったのを感じた。

その後も放送は人々の間で生き続けた。学校の放送クラブが番組の作り方を学びに来る。ある老人ホームでは、毎週の放送を聴きながら手作りの便箋を交換する会が生まれた。

彩が一番大切にしているのは「届いた」という報告だ。小さな女の子から届いた便箋にはこうあった。「おばあちゃんが、私の手を取ってくれました。ありがとう」。彩はその手紙を胸にしまい、そっと微笑んだ。

夜の海を見ながら、彩は蒼に向かって呟く。「君の声はまだ、誰かの夜を照らしてる。ありがとうね」。波の音が、それに合わせて囁くようにきこえた。

ある日の診察室で医師が静かに言った。「進行が早いタイプです」。彩は椅子の縁を握りしめ、蒼のお母さんが耳を塞いで泣いた。蒼は笑って、苦い冗談を放った。「僕、早起きしてラジオ体操やらないとね」。その場の空気が一瞬だけ、子供の頃の朝に戻った。

「君の歌は、誰かの記憶を解く」と蒼は言ったことがあった。彩は覚えている。「音は扉だよね。閉じた心の扉を、そっと開くもの」。彼は窓の外の海を見ながら、言葉を紡いでいた。

ラジオの機材を直す日、ユウが言う。「こんなに真面目にやるとは思わなかったな」。ケンが笑う。「でも、いい意味で町が変わった」。作業中、彩は蒼の言葉を読み上げ、笑い合った。機材の周りは工具とアイデアで溢れていた。

放送には、時に怒りの声も届いた。「匿名で勝手に配信するな」という投書や、「個人情報が漏れている」と心配する大人の声もあった。彩は放送倫理を学び、個人情報に配慮して放送ルールを整備した。番組はより成熟し、リスナーとの信頼を築いていった。

ライブの準備では、近所の商店がポスターを貼ってくれ、喫茶のマスターが差し入れを持ってきた。舞台裏で彩はステージマネージャーの小さな手を握り、「怖い」と漏らす。蒼の浴衣の布切れを握り締めて、彼女はひとつずつ深呼吸をした。

舞台の上で歌ったとき、彩は蒼の視線を感じた。いつもなら視線は遠くにあるが、その日だけは胸の中にあった。曲の終盤で、観客の一人が立ち上がって拍手を始め、それが連鎖して涙の海ができた。終演後、見知らぬ老人が近づいてきて、「災難の夜に、君の声が家族を繋いだ」と言った。彩は言葉にならない何かを胸に抱いた。

アニメ化の打ち合わせでは、監督と編集者と何度も話し合った。監督は「音の間合い」を大事にしたいと言った。「強い演出で巻き上げるのではなく、間の中にあるものを描きたい」と。彩はうなずき、蒼の残した音素材の一節一節を選んだ。

制作スタジオでの立ち会い日、彩は音響チームに言った。「この呼吸、ここで少し間を取ってください」。細かな指示が、映像と音の温度を決めていった。完成した映像を観た時、隣にいるはずの蒼に手紙をしたためるように、彩はそっと目を閉じた。

その後、全国の学校や図書館から講演の依頼が来た。彩は人前で話すのが苦手だったが、リスナーたちに直接「ありがとう」の循環の話をすることにした。壇上で小さな男の子が手を挙げ、「僕もお父さんにごめんって言った」と言うと、会場の空気が温かくなった。

手紙は宝物のように増え続けた。ある年配の女性は、夫を亡くして以来口を閉ざしていたが、放送をきっかけに再び絵筆を取ったと報告してくれた。別の青年は、過去の罪を家族に告白できたと書いてきた。彩はその一つ一つに返信を送ることで、蒼と続けてきた会話を誰かと分かち合った。

結婚式のスピーチで、友人が言った。「あのラジオがなかったら、俺たちは今も隣に座っていない」。その言葉は、彩がどれほど多くの縁を繋いだかを物語っていた。彼女はステージの袖で小さな紙片に「ありがとう」と書き、風に吹かれる紙を見送った。

時折、海岸に立ち寄っては、蒼が好きだった場所に立つ。波が足元を洗い、夕陽が海を金色に塗り替える。彩は手の中の布切れを握りしめ、蒼に話しかける。「見て、あなたの声はまだ誰かを動かしてるよ」と。少しの間、風が答えを運んでくるように思えた。

そして、その声は明日も誰かを照らすだろう。彩はそう信じて、今日もマイクに向かった。

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